| この項目では、日本の女優について説明しています。『ぼっち・ざ・ろっく!』の登場人物については「岩下志麻 (ぼっち・ざ・ろっく!)」をご覧ください。 |
| いわした しま 岩下 志麻 | |||||||||||||||
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『映画情報』1965年4月号(国際情報社)より | |||||||||||||||
| 本名 | 篠田 志麻(しのだ しま)[1] 旧姓:岩下 | ||||||||||||||
| 生年月日 | (1941-01-03)1941年1月3日(84歳) | ||||||||||||||
| 出生地 | (現在の東京都中央区)[2] | ||||||||||||||
| 血液型 | A型 | ||||||||||||||
| 職業 | 女優 | ||||||||||||||
| ジャンル | 映画・テレビドラマ・舞台 | ||||||||||||||
| 活動期間 | 1958年 - | ||||||||||||||
| 活動内容 | 1958年:デビュー 1962年:『秋刀魚の味』 1967年:『智恵子抄』 1969年:『心中天網島』 1977年:『はなれ瞽女おりん』 1978年:『鬼畜』 1979年:『草燃える』 1982年:『疑惑』 1986年:『極道の妻たち』 2004年:紫綬褒章 2012年:旭日小綬章 | ||||||||||||||
| 配偶者 | 篠田正浩(1967年 -2025年、死別) | ||||||||||||||
| 著名な家族 | 野々村潔(父)[3] 岩下亮(弟) 山岸しづ江(伯母)[3] 河原崎長一郎(いとこ) 河原崎次郎(いとこ) 河原崎建三(いとこ) 篠田桃紅(義理のいとこ) | ||||||||||||||
| 事務所 | グランパパプロダクション | ||||||||||||||
| 公式サイト | 所属事務所によるプロフィール | ||||||||||||||
| 主な作品 | |||||||||||||||
| 映画 『秋刀魚の味』(1962年) 『春日和』 『内海の輪』 『嫉妬』 『はなれ瞽女おりん』 『鬼畜』 『疑惑』 『極道の妻たち』 『極道の妻たち 最後の戦い』 『新極道の妻たち』 『新極道の妻たち 覚悟しいや』 『新極道の妻たち 惚れたら地獄』 『極道の妻たち 赫い絆』 『極道の妻たち 危険な賭け』 『極道の妻たち 決着』 テレビドラマ 『バス通り裏』/『氷紋』 『草燃える』/『葵 徳川三代』 『本家のヨメ』/『トイレの神様』 CM 日本メナード化粧品 | |||||||||||||||
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岩下 志麻(いわした しま、1941年〈昭和16年〉1月3日[2][3] - )は、日本の女優。東京府東京市京橋区(現在の東京都中央区)銀座生まれ[3][4][5]。本名:篠田 志麻(しのだ しま)[1][3]。
俳優・野々村潔と元新劇女優・山岸美代子の長女として生まれた[3][2]。4代目河原崎長十郎は義理の伯父に当たる。夫は映画監督の篠田正浩[3]。弟は元俳優の岩下亮。松竹の看板女優の一人として活躍した。
身長165cm、体重48kg、血液型A型[6]。グランパパプロダクション所属。

生まれは銀座四丁目。生後すぐに大森に転居[5]。3歳で麻疹と肺炎を併発して、生死の境をさまよう大病をし、空気のよい鵠沼海岸へ引っ越した[7]。その後、伯母の山岸しづ江が前進座リーダー河原崎長十郎と結婚[3]した関係で、一家は吉祥寺の前進座住宅の近くで暮らす[8]。武蔵野市立第三小学校、武蔵野市立第三中学校を経て[4]、東京都立武蔵高等学校から明星学園高等学校へ編入[3]。1962年に成城大学文芸学部を中退[3]。
中学時代に精神科医への道を志すも[7]16歳から17歳の頃に小児リウマチを患い長期入院した[9]ことで断念[10]。気分転換にと[10]1958年のNHKドラマ『バス通り裏』に十朱幸代の友人役として出演[3]。これが女優人生の始まりであり[10]、映画では2年後の1960年(昭和35年)の『乾いた湖』(篠田正浩監督)[11][注釈 1]でデビューした。松竹には1960年から1976年(昭和51年)まで16年に渡って在籍し、その屋台骨を支えた。1962年(昭和37年)、小津安二郎の遺作となった映画『秋刀魚の味』のヒロインに抜擢された。小津は次回作『大根と人参』も岩下をヒロインに想定して構想を練っていた[12]。今でも海外に行った時には、小津について質問を受けることが大変多いと岩下は語っている[8]。
1966年(昭和41年)3月3日(木曜日)、映画監督の篠田正浩と京都の大徳寺高桐院にて仏前結婚式を挙げる[3]。篠田の松竹退社後、2人で独立プロダクション「表現社」を立ち上げる[10]。『心中天網島』(1969年)は興行的にも成功をおさめ、『無頼漢』(1970年)、『沈黙 SILENCE』(1971年)などの作品を発表した表現社は軌道にのり、岩下は1973年に長女を出産[3]。女優、妻、母という3つの顔を持ったことで悩むことが多くなり、2年程は鬱々とした時期を過ごすが、1977年の『はなれ瞽女おりん』でカメラの宮川一夫や共演者の原田芳雄らに助けられながら、おりんという役を演じきったことで達成感を得て壁を破り、女優を続けていく覚悟を決めた[13]。
40代に入ってからは映画『極道の妻たち』シリーズへの出演(この間制作された10作品中8作品で主演)[9]が有名だが[13]、日本メナード化粧品のCMに長く出演していることも広く知られており、2000年(平成12年)に28年という、専属タレント契約としては世界最長の記録が『ギネス・ワールド・レコーズ』に認定された[14]。しかし、山本海苔店と専属タレント契約を締結している山本陽子の契約年数が、42年と岩下を大きく上回ることが判明し、2010年にこちらがギネス記録として認定された[14]。
1999年着物メーカーの京都丸紅よりブランド「きもの志麻」を発表し、着物デザイナーとしてデビュー[9]。
2000年に発表された『キネマ旬報』の「20世紀の映画スター・女優編」で日本女優の10位、同号の「読者が選んだ20世紀の映画スター女優」でも第10位になった。
趣味は旅行(一人旅)や陶芸[1]。プロ野球では阪神タイガースのファン[16]。ただし過去に王貞治のファンを公言しており、雑誌で何度か対談している[9]。
役柄では激しい、気の強いキャラクターが多いが、これは長年の映画の撮影で監督やプロデューサーに𠮟咤激励を受けて必死に演じてきた結果そういうイメージが付いてきただけで、実像は“駆けずのお志麻”とあだ名される、おしとやかでのんびりしたタイプであり[2]、バラエティ出演の際は昔から天然ボケが激しい性格だと告白している。
夫の隠し子を虐待死させる映画『鬼畜』では役にのめりこんでしまい、子供の正直さが顔に出てはいけないと顔合わせの段階から子役たちとは口も利かずに終始睨みつけ、一番年下の子を演じた石井旬に至っては監督の現場指示もあってご飯を喉に窒息寸前まで詰めさせるという演技ですっかり怯えられた。後年『鬼畜』がテレビ放送された際、視聴した知り合いの新聞記者の子供から電話口で「おばちゃんのバカヤロー!」と怒鳴られたという[17]。
聞き書きでの回想『美しく、狂おしく 岩下志麻の女優道』では、岩下は「他の人間になれることが、私の女優としての最大の喜びです」と語っている[9]。
『極道の妻たち』シリーズで監督を務めた中島貞夫によると、「岩下は衣装へのこだわりが人一倍強く着物の知識も衣装さん顔負けだった」。岩下は、「極妻」では一日がかりで念入りに衣装合わせを行い「共演者スタッフの中で誰よりも一緒に作品を作っている感覚が強かった」と評されている[9]。
屈伸運動やストレッチ体操、竹ふみ、太極拳を毎日行うなど健康には気をつけている。体重は20年間変化が無く、白髪染めも使用していないという[18]。
霊感が強く、映画『悪霊島』に出演した際、製作者だった角川春樹に「背後に黒い悪魔が見える」と何度も言っていたという[19]。




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