| その他の同名の人物については「山本陽子 (曖昧さ回避)」をご覧ください。 |
| やまもと ようこ 山本 陽子 | |
|---|---|
『映画情報』1966年6月号(国際情報社)より | |
| 生年月日 | (1942-03-17)1942年3月17日 |
| 没年月日 | (2024-02-20)2024年2月20日(81歳没) |
| 出生地 | |
| 死没地 | |
| 身長 | 155cm |
| 血液型 | A型 |
| 職業 | 女優 |
| ジャンル | テレビ・映画・舞台 |
| 活動期間 | 1963年 -2024年 |
| 配偶者 | 独身 |
| 著名な家族 | 山本亜希子(姪) |
| 主な作品 | |
| テレビドラマ 『白い影』[1] 『白い滑走路』 『となりの芝生』[1] 『ザ・ハングマンV』 『付き馬屋おえん事件帳』 『黒革の手帖』〈1982年版〉 映画 『華麗なる一族』[1] 『八つ墓村』 CM 両国予備校 山本海苔店 | |
| 備考 | |
| 体重:47kg | |
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山本 陽子(やまもと ようこ、1942年〈昭和17年〉3月17日[1] -2024年〈令和6年〉2月20日)は、日本の女優。東京都中野区出身。株式会社三陽企画所属。國學院高等学校卒業。

高校卒業後は野村證券投資相談部に勤務していたが[3]、1963年に知人が日活に山本の応募書類を送ったところ合格し、第7期日活ニューフェイスとして芸能界に入る[1]。同期には、西尾三枝子、谷隼人、沖田峻一郎などがいる[1]。1963年に女優デビュー(ただし、マスメディアによっては「1964年4月にデビュー」とする場合もある[2])。
映画では吉永小百合ら「日活三人娘」の人気に押され、なかなか作品には恵まれなかったが、テレビドラマに進出してからは日本的で清楚な美貌で人気を集めた[1]。
清楚な役から悪女までカバーし、女優としての地位を確立。以後、幅広い役をこなす高視聴率女優の1人として人気を博す[4]。
1971年に森光子主演の『放浪記』悠起役で初舞台を踏む。1980年、『花埋み』で舞台初主演して以来、舞台女優として数々の作品に出演し精力的な活躍をしており、演技力も高く評価されている。1982年のテレビドラマ『黒革の手帖』では、世代を超えて同じ銀座のママである原口元子役と岩村叡子役を演じた。
1994年の『おはん』の演技で第19回菊田一夫演劇賞を受賞し、上演回数は400回以上を記録している[4]。2006年には、舞台『いろどり橋』の演技にて名古屋演劇ペンクラブ賞を受賞[4]。2008年、2009年には『放浪記』の舞台では今度は日夏京子役で、上演回数2000回記念舞台に出演している。
高校時代の友人やデビュー前に勤めていた野村證券の同僚達とは、40年以上経っても仲が良く[5]、それぞれの仲間たちと時々会って交流を続けていた[注釈 1]。友人たちからは、「がめちゃん」と呼ばれていた(がめつい性格から)。
山本海苔店のイメージモデルを長年務めており、2010年、42年という専属タレント契約の世界最長記録として『ギネス・ワールド・レコーズ』に認定された[6]。
2012年頃から、第二の人生を楽しむために70歳を機に、東京から静岡県熱海市へ移住し生活を送っていた[4][7]。
2024年2月20日、熱海市内の病院で急性心不全のため死去した[7][8]。81歳没。亡くなる数時間前まで元気な様子で甥と行動をともにしており、帰宅直後の急性心不全が死因と発表された[9][10]。
最晩年も積極的に仕事をこなしており、2024年2月2日放送のテレビ朝日『徹子の部屋』に高橋英樹と共に出演していたが、これが生前最後の出演となった。同年4月にも舞台出演の予定があったという[7]。
戦時中の1945年に一家で現在のあきる野市[注釈 2]で疎開生活を送り、終戦後国分寺市に転居し、一般的なサラリーマン家庭に育った。子供の頃はおとなしい性格で、中学生くらいまでは人前にあまり出ず、きょうだいとケンカしたり親に叱られることもなかった[2]。
高校進学後弓道に興味を持って[注釈 3]入部すると[注釈 4]、徐々に積極的な性格になっていった[2]。
高校卒業後は「いい会社に入って結婚したい」という思いが強かったことから、堅実な証券会社に就職[注釈 5]。証券会社では営業部に配属されて主に投資信託を担当し、電話や手紙で客とやり取りをした[2]。
デビュー当時、同期の年下女優が映画で主演に抜擢されたのに対し、山本はその映画で端役を演じた。別の作品では、撮影の待ち時間にお喋りに夢中になっていたスター役者の代わりに、一言も喋っていない山本が名指しで「うるさい!」と助監督に怒鳴られるという悔しい思いもした。
また時間が不規則な仕事に加え、何をどうやって次に進めばいいのかさっぱり見えず、「私には芸能界なんて無理なのでは?」と悩んだ。しかし1年後、映画『赤いハンカチ』の出演から色々な役がもらえるようになったという[2]。
40代の頃は女優業が一番忙しい時期としながらも、合間にゴルフ、乗馬などをしたり、恋愛に燃えている時期でもあった[5]。50代の頃に「一生の趣味になることを始めたい」との思いから、当時姉が絵を習っていたことから、自身も同じ先生の所で日本画を習い始めた。主に風景や静物画を描き、その後一度だけ個展も開催したとのこと[5]。60代になると、「自分の中で流れに沿って人生を歩いて行きていこう」との考えが強くなった[5]。
70代に入ると「人生の色々なものを整理しよう」との思いから洋服や靴など色々と断捨離を行った。ただし、和・洋・クリスタルとセットで揃えたお気に入りの器だけは捨てられず、2022年の時点でも使っていた[5]。79歳を迎えた2022年には、「健康でいられることが、私の一番の財産」としていた[4]。
性格について本人は、「日常生活で辛さや苦しさはもちろん感じますが、色んな意味で落ち込まない性格」と自己評価している[11]。また、結婚については「過去に結婚したいと思う人はいたけれど、縁がなかったんでしょうね」と回想している[注釈 6]。
基本的に子供が大好きで、子役と共演すると仲良くなって、その子達が大きくなってから食事をしたことも何度かあった。本人は、「自分の子供はできなかったけれど、これも私が選んだ道」としている[11]。
OL時代に市ヶ谷にあった料理研究家・江上トミの教室で料理の基礎を学んだこともあり、毎日自炊している。2020年からのコロナ禍で3食自炊して食べていたら体重が増えたため、2022年の時点ではダイエットと健康を兼ねて1日2食で「18時以降は食べない」という食生活をしていた。また掃除・洗濯などの家事も大好き[12]。
食べ物に関して、日々の食事に欠かせない食べ物として海苔を、好物としてわかめの酢の物を挙げている。他によく食べるものとしてブロッコリー、玉ねぎ、キャベツ、しいたけ、納豆。夏場はキュウリ、トマトなどがある[12]。戦時中(当時3歳)、疎開先で放し飼いのニワトリに追いかけられたことがトラウマとなり、それ以来鶏肉がダメである[2]。
以前から足腰を鍛えたり[注釈 7]、2022年の時点で30年以上に渡り高麗人参を煎じて飲む[注釈 8]など健康に気を使っていた[12]。
「山本陽子と言えば、和服姿」のイメージもある[4]が、プライベートではジーンズなどのデニム素材が大好きで2022年でも履き続けていた。高価なジュエリーを身につけるのは、あまり好きではなかった[4]。
大の車好き(特に外車)で有名で、20代後半で憧れの赤のポルシェ911を所有し、ポルシェに乗る初の日本人女性となった[5]。その後、30代の頃に初めて買ったジャガーをとても気に入り、3台ほど乗り継いだ。最後に購入したジャガーは、(2022年の)最近2年ほどかけてレストアし、30年以上に渡り所有していた[5]。
女優・大地真央のファンで、これまでに何度も彼女の舞台を観劇してきた。2021年には、大地主演の舞台『夫婦漫才』で初共演し全国4ヶ所で公演し、「出演の話を聞いた時は飛び上がるほど嬉しかった。真央さんと毎日同じ舞台に立てたことはこの上ない喜びでした」と評していた[注釈 9]。
山本海苔店のCM出演は、1965年のドラマ『七人の孫』に出演したことがきっかけ。当時山本陽子の知名度はまだまだ低かったが、山本海苔店社長(当時)がたまたま同ドラマを見て彼女に目が留まり、起用が決まった[2]。
OL時代のエピソードとして、ある日上司の態度に怒り、業務のために自身が書いた手紙を目の前で破いた話を明かしていた[注釈 10]。
| 第1回 -第10回 | |
|---|---|
| 第11回 -第26回 (帝国劇場開催時) | |
| 第27回 -第35回 (日本武道館開催時) | |
| 第36回 -第45回 (TBS放送センター開催時) | |
| 第46回 - (新国立劇場・中劇場開催時) |
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| 関連項目 | |
| 1 - 10作 | |
|---|---|
| 11 - 20作 | |
| 21 - 30作 | |
| 31 - 40作 | |
| 41 - 50作 | |
| 51 - 60作 | |
| 61 - 70作 | |
| 71 - 80作 | |
| 81 - 90作 | |
| 91 - 100作 | |
| 101 - 110作 | |
| 111 - 120作 | |