| 政治家・弁護士の「山本有二」とは別人です。 |
| 山本 有三 (やまもと ゆうぞう) | |
|---|---|
| 誕生 | 山本 勇造 1887年7月27日 |
| 死没 | (1974-01-11)1974年1月11日(86歳没) |
| 墓地 | 近龍寺(栃木市) |
| 職業 | 劇作家、小説家、政治家 |
| 最終学歴 | 東京帝国大学文科大学独文科選科 |
| 活動期間 | 1920年 - 1974年 |
| ジャンル | 小説、戯曲 |
| 文学活動 | ふりがな廃止論 |
| 代表作 | 『嬰児ごろし』(1920年、戯曲) 『坂崎出羽守』(1921年、戯曲) 『同志の人々』(1923年、戯曲) 『波』(1923年) 『女の一生』(1932年) 『真実一路』(1935年) 『路傍の石』(1937年) |
| 主な受賞歴 | 文化勲章(1965年) |
| デビュー作 | 『生命の冠』(1920年) |
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| 山本 勇造 やまもと ゆうぞう | |
|---|---|
| 生年月日 | 1887年7月27日 |
| 出生地 | 栃木県下都賀郡栃木町 |
| 没年月日 | 1974年1月11日(満86歳没) |
| 死没地 | 静岡県熱海市 |
| 出身校 | 東京帝国大学文科大学修了 |
| 前職 | 劇作家、小説家 |
| 所属政党 | (無所属倶楽部→) 緑風会 |
| 選挙区 | 全国区 |
| 当選回数 | 1回 |
| 在任期間 | 1947年5月3日 - 1953年5月2日 |
| 選挙区 | 勅選 |
| 在任期間 | 1946年5月18日[1] - 1947年5月2日 |
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山本 有三(やまもと ゆうぞう、1887年〈明治20年〉7月27日 -1974年〈昭和49年〉1月11日)は、大正から昭和にかけて活躍した日本の小説家、劇作家、政治家[2]。日本芸術院会員、文化功労者、文化勲章受章者。名誉三鷹市民。本名は山本 勇造。
人道的な社会劇作家として名を成し、『嬰児殺し』『坂崎出羽守』『同志の人々』などを発表。その後、小説に転じて『波』『女の一生』『真実一路』『路傍の石』などを書き、理想主義の立場から人生の意味を平明な文体で問いかけた作風で広く読まれた。
第二次世界大戦後は貴族院勅選議員。のち参議院議員として新仮名遣い制定など国語国字問題に尽力した。
呉服商の子として栃木県下都賀郡栃木町(現在の栃木市)に生まれる。跡取り息子として裕福に育ち[3]、高等小学校卒業後、父親の命で一旦東京浅草の呉服商に奉公に出されるが、逃げ出して故郷に戻る。上級学校への進学を希望したが許されず、家業を手伝った。この頃、佐佐木信綱が主宰する短歌の結社「竹柏会」に入会し、新派和歌を学び、また『中学世界』や『萬朝報』『文章世界』に投稿して入選している[4]。
その後、1905年(明治38年)に母の説得で再度上京。正則英語学校、東京中学に通い[5]、1908年(明治41年)に東京府立一中を卒業。1909年(明治42年)9月に第一高等学校入学。同級だった近衛文麿とは生涯親交を暖めた。1年の留年を経て一高を中退し[6]、1912年(大正元年)東京帝国大学文科大学選科文学科に入学[7]。在学中『新思潮』の創刊に参加。1915年(大正4年)文学科(独逸文学)卒業[8]後は、舞台協会の舞台監督となり、結婚したがまもなく離婚。1917年(大正6年)より早稲田大学でドイツ語講師を務めた[9][10]。
1920年(大正9年)に戯曲『生命の冠』で文壇デビュー。真実を求めてたくましく生きる人々の姿を描いた。1926年(大正15年)一高時代に落第後同級となった菊池寛や芥川龍之介らと日本文芸家協会を結成し、内務省の検閲を批判、著作権の確立に尽力(菊池・山本らは1935年に著作権審査会委員を被命[11])。1932年(昭和7年)には新設の明治大学文芸科の初代科長に就任。しかし、1933年(昭和8年)6月、共産党への資金提供の疑いで検挙され[12]、また1938年(昭和13年)より『主婦之友』で連載中だった「新篇路傍の石」が2年後に検閲で中止に追い込まれるなど、政府・軍部の圧迫を受ける一方、1941年(昭和16年)には帝国芸術院会員、太平洋戦争中の1942年(昭和17年)には日本文学報国会理事に推挙された。
この間、1936年(昭和11年)に三鷹市(当時は東京府下)の洋館(1926年築の当時としては珍しい鉄筋コンクリート2階建)を購入し移り住んだ[13]。自作の小説、戯曲を執筆するだけでなく、児童向けの『日本少国民文庫』(全16巻)の編集も担い、編集主任には、以前から親交があり、当時は失業中だった吉野源三郎を登用した。そのうちの一冊で、現在も読み継がれる『君たちはどう生きるか』の1937年初版は、吉野と山本の共著となっている。また太平洋戦争下の1942年夏には、子供が自由に蔵書を読めるようにと、自宅を「ミタカ少国民文庫」として開放した[14]。
戦後は貴族院勅選議員に勅任され、国語国字問題に取り組んで「ふりがな廃止論」を展開したことでも知られる。憲法の口語化運動にも熱心に取り組んだ。1947年(昭和22年)の第1回参議院議員通常選挙では全国区から出馬して9位で当選。参議院議員を1期6年間務めて緑風会の中心人物となり、政治家としても名を残したが、積極的な創作活動は終生変わらなかった。1965年(昭和40年)に文化勲章を受章。他の叙勲は幾度か辞退していたが、1972年(昭和47年)に国会議員の功労として銀杯一組を賜った[15]。
1974年(昭和49年)1月5日に国立熱海病院(静岡県熱海市)に入院し、1月11日に高血圧症から肺炎による急性心不全を併発して死去。墓は近龍寺(栃木市)[16]。戒名は山本有三大居士[17]。
命日の1月11日は、数字の並びと有三の「三」にちなみ、一一一忌(いちいちいちき)と呼ばれている[18]。
父・山本元吉は、宇都宮藩士(足軽の小頭)だったが、明治維新後、裁判所書記などをした後、呉服屋で修業を積み独立するも失敗。かつぎ商人となって苦労の末、素封家や富商、三業地(花街)などの固定客を相手に、外商を主にした呉服業を栃木町で営んだ[3]。1907年に脳溢血で死去[3]。姉がいたが、夭折したため一人っ子[3]だった。
1917年に母の勧めで最初の妻と結婚するも離婚[9]。1919年3月に、本田増次郎と井岡ふでの娘・井岡はな(1897–1930)と再婚し、有一(1921–1930)、朋子(1925–2007)、玲子(1927–)、鞠子(1928–2010)の四子をもうける[19][20]。妻のはなは両親が未入籍だったため私生児で、5歳の時に結核で母を亡くした後、母方の祖母や親族の間を転々とし、跡見女学校を卒業。21歳の時に同校学監の跡見李子(ももこ)の紹介で10歳年上の有三と結婚した[21]。
夏目漱石門下の久米正雄とは親友だったが女優木下八百子を巡って険悪となり、久米が漱石長女筆子の愛を巡って松岡譲と争ったいわゆる『破船』事件の際には、久米を陥れようと企んで、久米を女狂い、性的不能者、性病患者などと誹謗中傷する怪文書を、筆子の学友の名を騙って夏目家に送りつけた一面があった。怪文書の筆跡は明らかに女性のものだったが、有三が起草した文章を夫人に清書させたと、久米も松岡も筆子も考えていた[22]。しかしながら久米と筆子の件は夏目門下生と親族以外は知らされておらず、山本がこの件を知っていたとは考えにくい。また、松岡は以前にも似た悪戯を久米にしている。[要出典]
主な著作については、山本有三記念館編「著作表」[23]を参照。
| 議会 | ||
|---|---|---|
| 先代 田中耕太郎 | 1950年 | 次代 堀越儀郎 |
| 先代 新設 | 1947年 - 1948年 | 次代 廃止 |