| 山上 宗治 やまがみ そうじ | |
|---|---|
| 生誕 | 1895年2月2日 |
| 死没 | 1965年5月13日(70歳没) |
| 所属組織 | |
| 最終階級 | 高等官二等(陸軍少将) |
| 出身校 | 京都帝国大学法学部 |
| 配偶者 | 元子(妻) |
| テンプレートを表示 | |
山上 宗治(やまがみ そうじ[1]、1895年〈明治28年〉2月2日[2] -1965年〈昭和40年〉5月13日[1])は、大日本帝国陸軍の法務高等官二等であり法務少将である。二・二六事件、ノモンハン事件の裁判官[3]。岡山県倉敷市出身[4]。
1895年(明治28年)に岡山県児島郡藤戸村(現在の倉敷市)に生れる[4]。地元に近い旧制岡山県立高梁中学(現:岡山県立高梁高等学校)を1913年(大正2年)に卒業[5]し、1915年(大正4年)旧制第六高等学校へ進学[6]。同期には、東京帝国大学教授になる宇野弘蔵、関西大学教授になる高木益郎などがいた。1918年(大正7年)同校を卒業し、同年、郷里の同期である高木益郎と共に、京都帝国大学法学部へ進学する[7]。京大を1921年(大正10年)に卒業した[8]。
1922年(大正11年)4月1日に、陸軍法務官に任命され、高等官七等となる。その後、第三師団軍法会議の法務官となり、1942年(昭和17年)4月1日には、 陸軍法務大佐となった。同年6月には、第1航空軍法務部長、翌年、1943年10月には、第2方面軍法務部長を歴任し、遂に1945年(昭和20年)3月1日 、50歳のときに陸軍法務少将へ就任した[2]。
しかしながら、日本軍の第二次世界大戦末期における情勢は芳しく無く、1945年(昭和20年)6月10日には、東部軍管区司令部附となり、同年7月12日、中部軍管区法務部長・第15方面軍法務部長と日本各地を転々とするが[2]、遂に同年8月15日、日本は終戦を迎える。戦後は、1945年12月に設置された、第一復員省の高等裁判所法務官をつとめ[9]、1946年まで勤務した。
1965年(昭和40年)5月13日、死去。享年70歳。
この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。 |