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小笠原長育

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
曖昧さ回避小笠原長性」あるいは「小笠原長生」とは別人です。
 
小笠原 長育
小笠原長育子爵の写真
時代江戸時代後期 -明治時代
生誕安政6年11月28日1859年12月21日
死没明治28年(1895年1月9日
享年37(満35歳没)
官位従五位子爵正五位従四位正四位
主君明治天皇
氏族小笠原氏
父母父:小笠原長守
母:今鶴
兄弟長育、鍈、柳生俊久、詮子、細田粲四郎清水健五郎山田量六郎、麗子
先妻:男鶴津軽承叙の次女)
後妻:田沼意尊の次女)
勁一、初子、牧四郎
養女:麗子(土井利剛夫人)
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小笠原 長育(おがさわら ながなり[1]安政6年11月28日1859年12月21日) -明治28年(1895年1月9日)は、日本華族大正天皇東宮侍従を務めた人物。

経歴

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越前勝山藩信嶺系小笠原家10代・小笠原長守の長男として生まれる。

1873年(明治6年)5月17日、父の隠居に伴い旧勝山藩主家の家督を継いだ[2]1884年(明治17年)7月8日に子爵を叙爵[3]。次いで慶應義塾に入学し、慶應義塾大学部を卒業した[4]。そして1890年(明治23年)7月14日貴族院議員に当選する。だが、この時彼は東宮侍従の職にあり、それを続けたかったため当選を辞退した。これには選挙の直前である7月8日宮内省から「議員と宮内省中の一部の職務とが両立しないことを理由に兼務を禁止する」という旨の通達があったことに起因するものだった。

それでも、長育は子爵華族の中で高い地位と発言力を持ち、帝国議会発足初期の頃には子爵会規則の起草などに参加した。また、1890年(明治23年)に開かれた華族の研究団体である華族同方会では『武勇論』、『軍備要論』とする軍人のモラルを論じる演説、論文を発表するなど、貴族院議員で無いにもかかわらず、特にタカ派として創成期の華族に対して強い発言力を持った。

また、1893年(明治26年)12月に東宮より小学生のための遊具として『尚武須護陸』(しょうぶすごろく)を刊行[5]靖国神社を上がりとする人生双六を考え出した。独自の強兵論と新政府軍への軍事顧問としての持論を持っていた。

1895年明治28年)7月24日、長育は病死した。享年37(満35歳没)。

親族

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脚注

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[脚注の使い方]
  1. ^華族銘鑑 : 鼇頭
  2. ^ab『平成新修旧華族家系大成』上巻、348-349頁。
  3. ^『官報』第308号、明治17年7月9日。
  4. ^『慶應義塾入社帳』第1巻679頁、第5巻261頁
  5. ^「尚武須護陸」に読みとる歴史大濱徹也

参考文献

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ウィキメディア・コモンズには、小笠原長育に関連するカテゴリがあります。
日本の爵位
先代
叙爵
子爵
勝山小笠原家初代
1884年 - 1895年
次代
小笠原勁一
三階菱紋松尾小笠原氏第17代当主
平安末〜鎌倉時代
南北朝〜安土桃山時代
江戸時代
明治時代以降

分家・支流

松尾小笠原家
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