| 小峯 柳多 こみね りゅうた | |
|---|---|
| 生年月日 | 1908年6月5日 |
| 出生地 | 群馬県碓氷郡松井田町松井田(現・安中市松井田町松井田) |
| 没年月日 | (1974-05-29)1974年5月29日(65歳没) |
| 死没地 | 東京都渋谷区代々木 |
| 出身校 | 東京商科大学専門部 卒 |
| 前職 | 理化学興業調査課長 理研科学映画専務 |
| 所属政党 | (日本自由党→) (民主自由党→) (自由党→) (革新自由民主党→) 自由民主党 |
| 称号 | 正四位 勲二等旭日重光章 |
| 選挙区 | 群馬3区→東京4区 |
| 当選回数 | 6回 |
| 在任期間 | 1946年 -1952年 1953年 -1955年 1967年 -1972年 |
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小峰 柳多[1](小峯 柳多[2][3][4][5][6]、こみね りゅうた、1908年〈明治41年〉6月5日[1][4] -1974年〈昭和49年〉5月29日[1][4])は、日本の政治家。衆議院議員(6期)。
群馬県碓氷郡松井田町松井田(現・安中市松井田町松井田)に、食料品店を営む勝重郎・たせ夫婦の長男として生まれる[7][1][4]。誕生日は戸籍上9月3日となっているが、実際の生まれは6月5日で、役場の吏員が手続を忘れていたため父母が催促した日が届出上の日付になっているのだとされる[7]。地元の松井田尋常高等小学校を経て[7][4][5]、高崎商業学校(現・群馬県立高崎商業高等学校)に進学[8][1][4][5][6]。高崎商業学校の同期には後に高崎市長を務める反町(沼賀)健次がいる[1][4][6]。1926年(大正15年)に東京商科大学専門部(現・一橋大学)に入学し[9][1][4][5]、1929年(昭和4年)卒業[10][1][4][5]。
大学卒業後は野村合名会社に入社[10][1][4][5]。1931年(昭和6年)には野村銀行北浜支店に勤務する[10][1][4]。1938年(昭和13年)理化学興業(現・リケン)に入社[11][1][4][5]。大河内正敏所長に認められ、総務部長に抜擢される[12][1][4]。理研科学映画専務、科学主義工業社専務、飯田機械製作所専務を兼ね、子会社の経営に携わった[12]。太平洋戦争中は産業機械統制会役員に出向[13][5]、理研航空器具株式会社専務などを務める[13]。
戦後、1946年(昭和21年)の第22回衆議院議員総選挙に群馬県選挙区で日本自由党から立候補し当選を果たす[14][1]。翌1947年(昭和22年)の第23回衆議院議員総選挙でも再選(旧群馬3区)[15][6]。民主自由党に移り、民主自由党政調会副会長などの要職を歴任する[要出典]。1949年(昭和24年)の第24回衆議院議員総選挙で3度目の当選を果たし、経済安定本部政務次官に就任[16][4]。1952年(昭和27年)の第25回衆議院議員総選挙では次点で落選[16]。1953年(昭和28年)の第26回衆議院議員総選挙で4度目の当選を果たし国政に復帰[17]。自由党副幹事長となる[17]。妙義浅間への米軍山岳学校設置問題に対する地元での批判が高まり1955年(昭和30年)の第27回衆議院議員総選挙では落選[17]。
緒方竹虎の勧めもあり選挙区を旧東京4区に移すが、1958年(昭和33年)の総選挙では落選[17]。一時は革新自由民主党に参加するものの、結局は自由民主党に加わる[要出典]。1967年(昭和42年)の第31回衆議院議員総選挙で当選し政界復帰[1][5]。1969年(昭和44年)の第32回衆議院議員総選挙でも6回目の当選[1][5]。衆議院運輸委員長・商工委員長を務めた[5][6]。
1972年(昭和47年)の第33回衆議院議員総選挙で落選。
1974年(昭和49年)5月29日、東京都渋谷区代々木の自宅で死去[5]。65歳没。墓所は小平霊園[5]。同月31日、特旨を以て位記を追賜され、死没日付で正四位勲二等に叙され、旭日重光章を追贈された[2]。
| 議会 | ||
|---|---|---|
| 先代 福井勇 | 1971年-1972年 | 次代 細田吉蔵 |
| 先代 島村一郎 | 1968年 | 次代 大久保武雄 |