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小峰柳多

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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  • 小峰柳多
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小峯 柳多
こみね りゅうた
生年月日1908年6月5日
出生地群馬県碓氷郡松井田町松井田(現・安中市松井田町松井田
没年月日 (1974-05-29)1974年5月29日(65歳没)
死没地東京都渋谷区代々木
出身校東京商科大学専門部
前職理化学興業調査課長
理研科学映画専務
所属政党日本自由党→)
民主自由党→)
自由党→)
革新自由民主党→)
自由民主党
称号正四位
勲二等旭日重光章
日本の旗 衆議院議員
選挙区群馬3区東京4区
当選回数6回
在任期間1946年 -1952年
1953年 -1955年
1967年 -1972年
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小峰 柳多[1](小峯 柳多[2][3][4][5][6]、こみね りゅうた、1908年明治41年〉6月5日[1][4] -1974年昭和49年〉5月29日[1][4])は、日本の政治家衆議院議員(6期)。

生涯

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群馬県碓氷郡松井田町松井田(現・安中市松井田町松井田)に、食料品店を営む勝重郎・たせ夫婦の長男として生まれる[7][1][4]。誕生日は戸籍上9月3日となっているが、実際の生まれは6月5日で、役場の吏員が手続を忘れていたため父母が催促した日が届出上の日付になっているのだとされる[7]。地元の松井田尋常高等小学校を経て[7][4][5]、高崎商業学校(現・群馬県立高崎商業高等学校)に進学[8][1][4][5][6]。高崎商業学校の同期には後に高崎市長を務める反町(沼賀)健次がいる[1][4][6]1926年大正15年)に東京商科大学専門部(現・一橋大学)に入学し[9][1][4][5]1929年昭和4年)卒業[10][1][4][5]

大学卒業後は野村合名会社に入社[10][1][4][5]1931年(昭和6年)には野村銀行北浜支店に勤務する[10][1][4]1938年(昭和13年)理化学興業(現・リケン)に入社[11][1][4][5]大河内正敏所長に認められ、総務部長に抜擢される[12][1][4]理研科学映画専務、科学主義工業社専務、飯田機械製作所専務を兼ね、子会社の経営に携わった[12]太平洋戦争中は産業機械統制会役員に出向[13][5]、理研航空器具株式会社専務などを務める[13]

戦後、1946年(昭和21年)の第22回衆議院議員総選挙に群馬県選挙区で日本自由党から立候補し当選を果たす[14][1]。翌1947年(昭和22年)の第23回衆議院議員総選挙でも再選(旧群馬3区[15][6]民主自由党に移り、民主自由党政調会副会長などの要職を歴任する[要出典]1949年(昭和24年)の第24回衆議院議員総選挙で3度目の当選を果たし、経済安定本部政務次官に就任[16][4]1952年(昭和27年)の第25回衆議院議員総選挙では次点で落選[16]1953年(昭和28年)の第26回衆議院議員総選挙で4度目の当選を果たし国政に復帰[17]自由党副幹事長となる[17]。妙義浅間への米軍山岳学校設置問題に対する地元での批判が高まり1955年(昭和30年)の第27回衆議院議員総選挙では落選[17]

緒方竹虎の勧めもあり選挙区を旧東京4区に移すが、1958年(昭和33年)の総選挙では落選[17]一時は革新自由民主党に参加するものの、結局は自由民主党に加わる[要出典]1967年(昭和42年)の第31回衆議院議員総選挙で当選し政界復帰[1][5]1969年(昭和44年)の第32回衆議院議員総選挙でも6回目の当選[1][5]。衆議院運輸委員長商工委員長を務めた[5][6]

1972年(昭和47年)の第33回衆議院議員総選挙で落選。

1974年(昭和49年)5月29日、東京都渋谷区代々木の自宅で死去[5]。65歳没。墓所は小平霊園[5]。同月31日、特旨を以て位記を追賜され、死没日付で正四位勲二等に叙され、旭日重光章を追贈された[2]

人物・エピソード

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  • 書道に造詣が深く、書道家金子鷗亭の弟子でもあった[18][5]1950年に財政問題から日本総合書芸展(現在の毎日書道展)への毎日新聞社からの資金提供がなされず、展覧会も中止となった。毎日側と書家の側の感情的対立から翌年以降の展覧会の開催が危ぶまれたが、小峰の橋渡しにより翌年の開催にこぎつけた[要出典]
  • 田中角栄は理研の請負業者だった自身と、理研出身だった神田博、小峰の3人を併せて理研三代議士と称されたと記述している[19]
  • 小峰の死後、地盤は文筆家の藤島泰輔が継承。藤島は約1年間活動を行うが、資金が枯渇したため立候補を断念した[20]

脚注

[編集]
  1. ^abcdefghijklmno『群馬県人名大事典』上毛新聞社、1982年11月1日、213頁。doi:10.11501/12189010 (要無料登録要登録)
  2. ^ab『官報』第14227号17頁 昭和49年6月4日
  3. ^挾間 1960, pp. 1–3.
  4. ^abcdefghijklmnあさを社 編『県政風雲録』あさを社、1985年6月16日、106-108頁。 
  5. ^abcdefghijklmn松井田町誌編さん委員会『松井田町誌』松井田町誌編さん委員会、1985年12月25日、1304-1305頁。doi:10.11501/9643733 (要無料登録要登録)
  6. ^abcde『群馬新百科事典』上毛新聞社、2008年3月20日、328頁。ISBN 978-4-88058-988-6 
  7. ^abc挾間 1960, pp. 4–10.
  8. ^挾間 1960, pp. 17–21.
  9. ^挾間 1960, pp. 34–44.
  10. ^abc挾間 1960, pp. 52–60.
  11. ^挾間 1960, pp. 94–99.
  12. ^ab挾間 1960, pp. 100–107.
  13. ^ab挾間 1960, pp. 118–123.
  14. ^挾間 1960, pp. 129–136.
  15. ^挾間 1960, pp. 143–145.
  16. ^ab挾間 1960, pp. 152–155.
  17. ^abcd挾間 1960, pp. 167–181.
  18. ^挾間 1960, pp. 197–200.
  19. ^田中角栄『私の履歴書』日本経済新聞社、1966年6月20日、112頁。doi:10.11501/2977007 (要無料登録要登録)
  20. ^藤島泰輔「衆愚の時代―選挙の内幕」 『月刊カレント』1983年4月号、潮流社、64-67頁。

参考文献

[編集]
  • 挾間祐行『ある政治家の半生 小峯柳多伝』信濃書房、1960年10月10日。doi:10.11501/2989467 (要無料登録要登録)
議会
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先代
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日本の旗 衆議院商工委員長
1968年
次代
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日本の旗 衆議院運輸委員長 (1971年-1972年)
日本の旗 衆議院商工委員長 (1968年)
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