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寺内正毅

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
寺内てらうち正毅まさたけ
寺內 正毅
肖像
生年月日1852年3月25日
嘉永5年閏2月5日
出生地日本の旗日本周防国吉敷郡平川村
(現・山口県山口市
没年月日 (1919-11-03)1919年11月3日(67歳没)
死没地日本の旗日本東京府
出身校陸軍戸山学校卒業
前職武士長州藩士)
陸軍軍人
所属政党無所属
称号正二位
大勲位菊花大綬章
功一級金鵄勲章
勲一等旭日桐花大綬章
元帥陸軍大将
伯爵
配偶者前妻・寺内タニ
後妻・寺内タキ
子女長男・寺内寿一
次男・寺内毅雄
長女・兒玉澤子
四女・福羽須恵
親族父・宇多田正輔
娘婿・兒玉秀雄
サイン
内閣寺内内閣
在任期間1916年10月9日 -1918年9月29日
天皇大正天皇
日本の旗 第22・31代外務大臣
内閣第2次桂内閣
寺内内閣
在任期間1908年7月14日 - 1908年8月27日(陸相兼任)
1916年10月9日 - 1916年11月21日(総理兼任)
日本の旗 第19代大蔵大臣
内閣寺内内閣
在任期間1916年10月9日 - 1916年12月16日(総理兼任)
在任期間1910年10月1日 - 1916年10月16日
第3代韓国統監
在任期間1910年5月30日 - 1910年10月1日
その他の職歴
日本の旗第7代陸軍大臣
第1次桂内閣第1次西園寺内閣、第2次桂内閣)
1902年3月27日 -1911年8月30日
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寺内 正毅(てらうち まさたけ[注釈 1]旧字体寺內 正毅1852年3月25日嘉永5年閏2月5日[1] -1919年大正8年〉11月3日)は、明治大正期の日本陸軍軍人政治家[2]。軍人としての階級元帥陸軍大将[2]位階従一位勲等大勲位功級功一級爵位伯爵

書の雅号桜圃魯庵。「ビリケン宰相」の異名を持つ。

陸軍大臣(第7代)、外務大臣臨時兼任第2次桂内閣寺内内閣)、韓国統監(第3代)、朝鮮総督(初代)、内閣総理大臣第18代)、大蔵大臣第19代)などを歴任した。

明治から大正にかけて陸軍軍人として活躍し、第1次桂内閣では児玉源太郎の後任として陸軍大臣に就任した。以来、第1次西園寺内閣第2次桂内閣でも陸軍大臣を務めた。その後、曾禰荒助の後任として韓国統監に就任し、日本への併合を推し進めた。韓国併合後は朝鮮総督に就任した。のちに内地に帰還すると、寺内内閣を発足させ、内閣総理大臣を務めるとともに、外務大臣や大蔵大臣といった国務大臣を兼任した。元帥府に列せられていることから、階級を呼称する際には元帥称号を冠して「元帥陸軍大将」と称される。

生涯

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生い立ち

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嘉永5年(1852年)、周防国吉敷郡平井村[3](のちの山口県山口市)に長州藩士・宇多田正輔の三男として生まれる。出生名は宇多田 寿三郎。後に母猛子の弟にあたる寺内勘右衛門の養嗣子となる[4]

軍人として

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1864年奇兵隊の中では武士が中心として組織された多治比隊に入隊する[5]功山寺挙兵後の再編成の際に御楯隊に転籍し、三田尻で西洋銃の操作や国学を学んだ。15歳にして四境戦争に従軍[6]。その後も戊辰戦争箱館戦争と転戦した。箱館戦の時に18歳であった[6]

凱旋後の明治2年7月に山田顕義兵部大丞の勧奨に応じて京都でフランス流の軍学を学び[6]、明治3年6月に兵部省第一教導隊を卒業して下士官となり、明治5年2月に大尉に昇進[7]

フランス留学を希望した寺内は1872年に陸軍を休職し語学を学んだが、その機会は訪れなかった[5]。明治6年(1873年)に士官養成所陸軍戸山学校に入学し、翌年に卒業する。卒業後は新設された陸軍士官学校にスタッフとして所属し、生徒司令副官を務めた[7]

明治10年(1877年)に勃発した西南戦争では、当初後備部隊の大隊長に任じられたが前線を志願し[5]、最大の激戦とされた田原坂の戦いで銃撃を受けて負傷して右手の自由をなくした[8]。そのため、以降は実戦の指揮を執ることはなく、軍政や軍教育の方面を歩んだ。

1878年に士官学校生徒大隊司令官心得という職務を経た後、明治15年(1882年閑院宮載仁親王の随員としてフランス留学する[8]。翌年には駐在武官に任ぜられ、1886年までフランスに滞在した[5]。帰国後は、陸軍大臣官房副長(1886年)、陸軍士官学校長(1887年)、第1師団参謀長(1891年)、参謀本部第一局長(1892年)とキャリアを重ねた。明治27年(1894年)の日清戦争では兵站の最高責任者である大本営運輸通信長官を務めた。その後、歩兵第3旅団長(1896年)、教育総監1898年)を経て、明治33年(1900年)より参謀本部次長に就き、義和団の乱では現地に赴いた。

政治家として

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岡田三郎助筆『寺内正毅肖像画』

陸軍大臣

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第1次桂内閣(1901年6月2日 - 1905年12月21日)が成立すると陸軍大臣となり、日露戦争の勝利に貢献した。第1次西園寺内閣第2次桂内閣(1908年7月14日 - 1911年8月25日)でも再び陸相を務めた[注釈 2]。明治39年(1906年)には南満洲鉄道設立委員長・陸軍大将に栄進した。明治40年(1907年)9月、戊辰・西南・日清・日露の各戦役の軍功によって子爵を授けられた。

韓国統監・朝鮮総督

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明治42年(1909年)10月26日のハルビンにおける伊藤博文暗殺後、第2代韓国統監曾禰荒助が辞職すると明治43年(1910年)5月30日、陸相のまま第3代韓国統監を兼任し、同年8月22日の日韓併合と共に10月1日、朝鮮総督府が設置されると、引き続き陸相兼任のまま初代朝鮮総督に就任した。なお、陸相兼任は第2次西園寺内閣の成立で石本新六が陸相に就任するまで続いた。朝鮮総督は天皇に直隷し、委任の範囲内に於いて朝鮮防備のための軍事権を行使し、内閣総理大臣を経由して立法権、行政権、司法権にわたる多岐な権限を持った。寺内は憲兵警察を兼務させる憲兵警察制度を創始し、朝鮮の治安維持を行ったことなどに対して、後に武断政治と評価された。明治44年(1911年)4月、韓国併合の功によって伯爵を授けられた。

内閣総理大臣

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大正5年(1916年)6月24日、元帥府に列せられる。10月16日に総督を辞任し、10月19日には内閣総理大臣に就任。朝鮮総督としての功績を認められてのことである。寺内の頭の形がビリケン人形にそっくりだったことから、これに超然内閣の「非立憲(ひりっけん)」をひっかけて「ビリケン内閣」と呼ばれた。時は第一次世界大戦の最中であり、寺内は大正7年(1918年)8月2日にシベリア出兵を宣言したが、米騒動の責任をとって9月21日に総辞職した。

寺内自身は内閣末期には既に病気がちであり、翌年に心臓肥大症のため平井赤十字病院において薨去[9]。享年68。墓所は生誕地である山口市宮野に所在し、子息の寺内寿一の墓もそこにある。また、宮野には朝鮮関係などの書籍を寄贈した私設図書館「寺内桜圃文庫」を設立した。寺内桜圃文庫の書籍は戦後、山口県立大学に移され、さらに朝鮮関係の一部は韓国の慶南大学校に移管された[10]。寺内桜圃文庫の元の建物は、2011年現在も山口県立大学に隣接する形で残されている[11]

栄典

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位階
爵位など
勲章など
受章年略綬勲章名備考
1884年(明治17年)10月13日勲四等旭日小綬章[12]
1889年(明治22年)11月29日大日本帝国憲法発布記念章[25]
1892年(明治25年)11月29日勲三等瑞宝章[26]
1895年(明治28年)8月20日功三級金鵄勲章[12][27]
1895年(明治28年)8月20日旭日中綬章[12][27]
1895年(明治28年)11月18日明治二十七八年従軍記章[12][28]
1899年(明治32年)5月9日勲二等瑞宝章[29]
1901年(明治34年)12月27日勲一等旭日大綬章[12][30]
1902年(明治35年)5月10日明治三十三年従軍記章[12][31]
1906年(明治39年)4月1日旭日桐花大綬章[12][32]
1906年(明治39年)4月1日功一級金鵄勲章[12][32]
1906年(明治39年)4月1日明治三十七八年従軍記章[12][32]
1912年(大正元年)8月1日韓国併合記念章[33]
1915年(大正4年)11月10日大礼記念章[12][34]
1916年(大正5年)4月1日金杯一組[35]
1916年(大正5年)4月1日大正三四年従軍記章[12][35]
1919年(大正8年)11月3日大勲位菊花大綬章[36]
外国勲章佩用允許[37]
受章年国籍略綬勲章名備考
1886年(明治19年)2月5日フランスの旗フランス共和国レジオンドヌール勲章シュヴァリエ[38]
1891年(明治24年)10月7日フランスの旗フランス共和国レジオンドヌール勲章オフィシエ[39]
1894年(明治27年)10月10日安南帝国インペリアル・デュ・ドラゴン勲章英語版コマンドゥール[40]
1896年(明治29年)5月4日ドイツの旗ドイツ帝国王冠星章付第二等勲章英語版[41]
1897年(明治30年)6月18日ロシア帝国の旗ロシア帝国一等聖スタニスラフ勲章英語版[42]
1897年(明治30年)6月18日フランスの旗フランス共和国レジオンドヌール勲章コマンドゥール[42]
1897年(明治30年)6月21日オスマン帝国の旗オスマン帝国一等メディジディー勲章英語版[42]
1899年(明治32年)7月31日大清帝国第二等第一双竜宝星中国語版[43]
1902年(明治35年)3月25日フランスの旗フランス共和国レジオンドヌール勲章グラントフィシエ[44]
1903年(明治36年)12月8日ロシア帝国の旗ロシア帝国白鷲勲章英語版[45]
1903年(明治36年)12月21日ドイツの旗ドイツ帝国赤鷲第一等勲章英語版[45]
1906年(明治39年)6月19日イギリスの旗イギリス帝国バス勲章グランド・クロス[46]
1906年(明治39年)7月3日ドイツの旗ドイツ帝国金剛石装飾剣付赤鷲第一等勲章[47]
1907年(明治40年)1月17日シャム王国白象第一等勲章[48]
1907年(明治40年)1月17日大韓帝国大勲位李花大綬章[48]
1907年(明治40年)12月5日大韓帝国大勲位瑞星大綬章[49]
1907年(明治40年)12月17日大清帝国頭等第二双竜宝星[50]
1910年(明治40年)8月28日大韓帝国大勲位金尺大綬章[51]
1914年(大正3年)6月4日中華民国一等文虎勲章中国語版[52]
1916年(大正5年)1月21日ロシア帝国の旗ロシア帝国金剛石装飾神聖アレクサンドル・ネフスキー勲章[53]

人物

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  • 几帳面で、制度構築や管理といった地味な仕事に対して有能であったが、同時に短気で人をよく叱った。木越安綱は寺内の伝記の追悼文で「泣くときに笑ひ怒るときに喜ぶといふ業は伯には出来なかった。悪く言へば人を操縦することが拙かった」と述べている[54]
  • 陸軍士官学校校長時は徹底的に生徒の管理を行い、仕事を終えても職場と目と鼻の先にある自宅から、望遠鏡で生徒の行動を監視していたという。また、有栖川宮熾仁親王が揮毫した士官学校の表札が錆びているのを見て、「そのような怠慢精神は皇室への不敬であり陸軍の恥辱である」と校長をひどく叱ったとされる。事細かい事に厳しかったため、士官学校校長時代に付けられたあだ名は「掃除係」、「重箱楊枝」であった[5]
  • 陸軍大臣在任中の1902年(明治35年)に起こった八甲田雪中行軍遭難事件では、全国の将校から寄付を募り、事件の翌年に生還者である後藤房之助伍長の銅像を建て、碑文を揮毫した。
八甲田雪中行軍遭難事件記念碑文
  • 西南戦争による負傷で右手に後遺症を負って以来、挙手の敬礼を左手によって行っていた(俗に左敬礼と呼ばれている)。駐在武官時代にオスマン帝国アブデュルハミト2世に拝謁した際、イスラム教では不浄とされる左手で握手をしたことからスルタンは困惑したが、後にそれが戦傷によるものだと知って納得し、彼の勇敢さを称賛したという。
  • 「ビリケン宰相」と揶揄されたが、寺内自身はこの愛称を気に入っていたらしく、ビリケン像を3体も購入していたといわれている[55]
  • 1910年8月22日の韓国併合条約に李完用と共に調印した後の晩餐会の席上において、「小早川加藤小西が 世にあらば 今宵の月を いかに見るらむ」という歌を詠んだことが知られる。挙げられた武将はいずれも豊臣時代朝鮮出兵の武勲者であり、この歌は日韓併合について「明治の政治家や軍人たちは、豊臣秀吉の朝鮮侵略戦争の続きとして見ていたのです」(日本共産党『しんぶん赤旗』2007年12月22日)と批判的に扱われることもあるが、異説も存在する。この歌は小松緑の『朝鮮併合之裏面』が紹介したものだが、その中で小松は日韓併合と同じ5日間で行われたローマのジュリアス・シーザーポントスを短期間で攻略したゼラの戦いと比較し、日韓併合を武力ではなく達成したととらえて寺内の歌を紹介し、外交の力で併合を達成した自分たちを誇った歌と見る[56]
  • 長男の寿一も元帥陸軍大将となった。日本軍史上、皇族を除き親子2代で元帥府に叙せられた唯一の例である。

家系

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→詳細は「寺内家」を参照

寺内家は、出羽国戸沢氏庶流で、陸奥国行方郡寺内村に住して寺内を称したのに始まると伝わる[57][58]。のちに周防国大内氏に仕え、ついで毛利氏に仕えるようになった家系である[58]

親族

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銅像

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寺内正毅の没後に三宅坂北村西望作の馬上像があったが、戦争中に金属回収で溶解された。寺内正毅像があった場所には、昭和26年(1951年)に「平和の群像」という3人の裸女像が作られた[60]

関連作品

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映画
テレビドラマ
小説
  • 光と影』(1970年、文藝春秋、著:渡辺淳一)表題作が寺内正毅を題材としている。

脚注

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[脚注の使い方]

注釈

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  1. ^読みは「まさたけ」が一般的だが、「まさたか」(「陸海軍将官人事総覧 陸軍篇」)、「まさかた」(「歴代陸軍大将全覧(明治編)」)など異なる読み方がある。
  2. ^渡辺淳一直木賞受賞作『光と影』は、寺内の生涯をモデルとしたとされる。

出典

[編集]
  1. ^寺内正毅|近代日本人の肖像”. 国立国会図書館. 2025年7月15日閲覧。
  2. ^ab日本大百科全書(ニッポニカ)「寺内正毅」(コトバンク)
  3. ^山口県が生んだ 七人の宰相展 - 萩博物館。
  4. ^元帥寺内伯爵伝記編纂所 1920, p. 56-57.
  5. ^abcde井竿 2011, pp. 157–163.
  6. ^abc元帥寺内伯爵伝記編纂所 1920, p. 3.
  7. ^ab元帥寺内伯爵伝記編纂所 1920, p. 4.
  8. ^ab元帥寺内伯爵伝記編纂所 1920, p. 5.
  9. ^服部敏良『事典有名人の死亡診断 近代編』(吉川弘文館、2010年)189頁
  10. ^寺内文庫 - 山口県立大学日本史研究室
  11. ^宮野の宰相、寺内正毅ゆかりの地をめぐる徒歩ツアー企画 - 山口県立大学
  12. ^abcdefghijklmnopqrstuvwxy元帥陸軍大将伯爵寺内正毅ヲ大勲位ニ叙シ菊花大綬章授賜ノ件 -国立公文書館デジタルアーカイブ
  13. ^『官報』第473号「賞勲叙任」1885年1月31日。
  14. ^『官報』第1970号「叙任及辞令」1890年1月25日。
  15. ^『官報』第3388号「叙任及辞令」1894年10月11日。
  16. ^『官報』第4603号「叙任及辞令」1898年11月1日。
  17. ^『官報』第5628号「叙任及辞令」1902年4月12日。
  18. ^『官報』第6239号「叙任及辞令」1904年4月21日。
  19. ^『官報』第7157号「叙任及辞令」1907年5月11日。
  20. ^『官報』第8684号「叙任及辞令」1912年6月1日。
  21. ^『官報』第2164号「叙任及辞令」1919年10月21日。
  22. ^『官報』第7272号「授爵敍任及辞令」1907年9月23日。
  23. ^『官報』第8347号「授爵・叙任及辞令」1911年4月22日。
  24. ^『官報』第1170号「叙任及辞令」1916年6月26日。
  25. ^『官報』第1933号「叙任及辞令」1889年12月6日。
  26. ^『官報』第2828号「叙任及辞令」1892年11月30日。
  27. ^ab『官報』第3644号「叙任及辞令」1895年8月21日。
  28. ^『官報』第3824号・付録「辞令」1896年4月1日。
  29. ^『官報』第4754号「叙任及辞令」1899年5月10日。
  30. ^『官報』第5548号「叙任及辞令」1901年12月28日。
  31. ^『官報』第5820号・付録「辞令」1902年11月26日。
  32. ^abc『官報』号外「叙任及辞令」1907年1月28日。
  33. ^『官報』第205号・付録「辞令」1913年4月9日。
  34. ^『官報』第1310号・付録「辞令」1916年12月13日。
  35. ^ab『官報』第1187号「叙任及辞令」1916年7月15日。
  36. ^中野文庫 - 大勲位菊花章頸飾・大勲位菊花大綬章受章者一覧
  37. ^『陸軍現役将校同相当官実役停年名簿』大正3年7月1日調
  38. ^『官報』第779号「叙任及辞令」1886年2月9日。
  39. ^『官報』第2485号「叙任及辞令」1891年10月9日。
  40. ^『官報』第3395号「叙任及辞令」1894年10月20日。
  41. ^『官報』第3852号「叙任及辞令」1896年5月5日。
  42. ^abc『官報』第4192号「叙任及辞令」1897年6月24日。
  43. ^『官報』第4828号「叙任及辞令」1899年8月4日。
  44. ^『官報』第5616号「叙任及辞令」1902年3月28日。
  45. ^ab『官報』第6149号「叙任及辞令」1903年12月29日。
  46. ^『官報』第6893号「叙任及辞令」1906年6月22日。
  47. ^『官報』第6905号「叙任及辞令」1906年7月6日。
  48. ^ab『官報』第7079号「辞令」1907年2月6日。
  49. ^『官報』第7339号「叙任及辞令」1907年12月13日。
  50. ^『官報』第7346号「叙任及辞令」1907年12月21日。
  51. ^『官報』第8300号「叙任及辞令」1911年2月24日。
  52. ^『官報』第555号「叙任及辞令」1914年6月8日。
  53. ^『官報』第1041号「叙任及辞令」1916年1月24日。
  54. ^井竿 2011, pp. 166–172.
  55. ^濱本『東京風俗三十帖』(1998)p.35
  56. ^新城道彦 2023, p. 210-211.
  57. ^元帥寺内伯爵伝記編纂所 1920, p. 55.
  58. ^ab霞会館華族家系大成編輯委員会 1996, p. 121.
  59. ^https://www.townnews.co.jp/0606/2019/03/08/472510.html
  60. ^平瀬礼太、「非難浴びた寺内正毅像の後釜「平和の群像」」(銅像はつらいよ十選 6)、日本経済新聞、2013年12月20日

参考文献・関連資料

[編集]
  • 国立国会図書館参考書誌部編『寺内正毅関係文書目録』1971年。
  • 『寺内正毅日記―1900~1918』山本四郎編、京都女子大学、1980年。
  • 山本四郎編『寺内正毅関係文書―首相以前』京都女子大学、1984年
  • 黒田甲子郎『元帥寺内伯爵伝―伝記・寺内正毅』大空社、1988年。
  • 伊藤幸司編『寺内正毅ゆかりの図書館 桜圃寺内文庫の研究―文庫解題・資料目録・朝鮮古文書解題』勉誠出版、2013年。
  • 井竿富雄、山口県立大学国際文化学部(編)、2011、「宮野の宰相: 寺内正毅」、『大学的 やまぐちガイド:「歴史と文化」の新視点』、昭和堂 ISBN 9784812210697
  • 元帥寺内伯爵伝記編纂所『元帥寺内伯爵伝 再版』元帥寺内伯爵伝記編纂所、1920年(大正9年)。 
  • 霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成 上巻』霞会館、1996年(平成8年)。ISBN 978-4642036702 
  • 新城道彦日本語)『朝鮮半島の歴史: 政争と外患の六百年』新潮社〈新潮選書〉、2023年。ISBN 978-4106039003 


評伝研究

[編集]
  • 『寺内正毅と帝国日本 桜圃寺内文庫が語る新たな歴史像』伊藤幸司・永島広紀・日比野利信編、勉誠出版、2015年8月
  • 堀雅昭『寺内正毅と近代陸軍』弦書房、2019年3月

関連項目

[編集]

外部リンク

[編集]
公職
先代
大隈重信
日本の旗防務会議議長
1916年 - 1918年
次代
原敬
先代
(新設)
日本の旗連合国経済会議決議実施委員会委員長
1916年 - 1918年
次代
原敬
先代
(新設)
日本の旗臨時外交調査委員会総裁
1917年 - 1918年
次代
原敬
先代
(新設)
日本の旗臨時国民経済調査会会長
1918年
次代
原敬
先代
大隈重信
日本の旗経済調査会会長
1916年 - 1917年
次代
(廃止)
先代
武富時敏
日本の旗臨時国債整理委員会委員長
1916年
次代
勝田主計
先代
武富時敏
日本の旗大蔵大臣
第19代:1916年10月9日 - 12月16日(兼任)
次代
勝田主計
先代
石井菊次郎
武富時敏
日本の旗外務大臣
1916年10月9日 - 11月21日(臨時兼任)
1908年7月14日 - 8月27日(臨時兼任)
次代
本野一郎
小村壽太郎
先代
寺内正毅
統監
日本の旗朝鮮総督
初代:1910年10月1日 - 1916年10月16日
次代
長谷川好道
先代
児玉源太郎
古市公威
日本の旗鉄道会議議長
1907年 - 1913年
1900年 - 1902年
次代
長谷川好道
田村怡与造
先代
児玉源太郎
日本の旗陸軍大臣
第7代:1902年3月27日 - 1911年8月30日
次代
石本新六
先代
曾禰荒助
日本の旗統監
第3代:1910年5月30日 - 10月1日
次代
寺内正毅
朝鮮総督
先代
曾禰荒助
日本の旗馬政長官
1908年 - 1910年
次代
浅川敏靖
先代
児玉源太郎
日本の旗南満洲鉄道株式会社設立委員長
1906年
次代
(廃止)
軍職
先代
野津道貫
(新設)
教育総監
第3代:1904年3月17日 - 1905年5月9日
初代:1898年1月22日 - 1900年4月25日
次代
西寛二郎
野津道貫
先代
大迫尚敏
参謀本部次長
1900年 - 1902年
次代
田村怡与造
先代
上田有沢
校長
陸軍大学校長事務取扱
1901年 - 1902年
次代
藤井茂太
校長心得
先代
中村雄次郎
校長
陸軍士官学校長事務取扱
1898年
次代
高木作蔵
校長
先代
滋野清彦
陸軍士官学校長
1887年 - 1891年
校長心得
1887年
次代
大久保春野
その他の役職
先代
(新設)
帝国在郷軍人会会長
1910年 - 1919年
次代
川村景明
先代
榎本武揚
日露協会会頭
1911年 - 1919年
次代
後藤新平
先代
井上勝
帝国鉄道協会会長
1911年 - 1919年
次代
大隈重信
日本の爵位
先代
陞爵
伯爵
寺内家初代
1911年 - 1919年
次代
寺内寿一
先代
叙爵
子爵
寺内家初代
1907年 - 1911年
次代
陞爵
第17代
大隈重信
18
1916年10月9日 - 1918年9月29日
第19代
原敬
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