| みやがわ いちろう 宮川 一郎 | |
|---|---|
| 本名 | 眞木壮介 |
| 別名義 | 宮川一朗 |
| 生年月日 | (1925-11-18)1925年11月18日 |
| 没年月日 | (2008-12-12)2008年12月12日(83歳没) |
| 出生地 | 岐阜県飛騨市古川町 |
| 死没地 | 東京都文京区 |
| 国籍 | |
| 職業 | 脚本家 |
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宮川 一郎(みやがわ いちろう、1925年11月18日 -2008年12月12日)は、日本の脚本家。本名は眞木壮介(まき そうすけ)。岐阜県飛騨市古川町出身[1][2]。
東京大学文学部卒業後、新東宝企画部に入社[1][2]。助監督、宣伝担当、企画担当を経て、1957年の『鋼鉄の巨人』を皮切りに『隠密将軍と喧嘩大名』や『人形佐七捕物帖 裸姫と謎の熊男』『地獄』(中川信夫監督)などを執筆[1]。1961年の新東宝倒産時に同社を退社し[2]、中川信夫から「この男は使える」と東映に推薦され[2]、東大の先輩・岡田茂プロデューサーにホンを読んでもらったら「お前のシナリオは説教くさい。面白いとこだけつなげろ」と大蔵貢と同じことを言われ娯楽映画の本質を学び[2][3]、書き直して再提出し1963年に東映と契約した[1][2][3]。新東宝企画部の社員は宮川以外は全員、電通と博報堂に行った[2]。新東宝では大蔵貢と二人で打ち合わせし、脚本が採用か不採用か決まったが[2]、東映では岡田茂の前でホン読みをするのにはビックリしたという[2]。桂千穂は師匠・白坂依志夫は勿論、宮川のシナリオに大きな影響を受けたと話している[3]。東映京都では『銭形平次捕物控』『天保遊侠伝 代官所破り』の他、『間諜』(原作も)など、東映の映画やテレビ時代劇を多く手掛けた。1968年フリー[1]。以降も映画・テレビのシナリオを量産し[2]、総本数は4000本に及んだ[3]。ベストセラーになって映画化もされたジェームズ・クラベル『将軍』の翻訳は、売れないと思ったため印税契約にしなかったという[3]。
墓所は新宿区長巌寺。
テレビ時代劇に大胆なアイデアを導入したプログラムピクチャーの名手。『水戸黄門』では印籠シーンや風車の弥七・風車手裏剣を起用[4]。同作第39部では第1話を担当し、亡くなる直前も最終話(第23話)を執筆中だった。享年83。
のちにスーパージャイアンツシリーズとなるヒット作の第一作。
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