| この項目では、京都府乙訓郡大山崎町の寺院について説明しています。その他の用法については「宝積寺 (曖昧さ回避)」をご覧ください。 |
| 宝積寺 | |
|---|---|
本堂 | |
| 所在地 | 京都府乙訓郡大山崎町大字大山崎字銭原1 |
| 位置 | 北緯34度53分44.87秒東経135度40分43.24秒 / 北緯34.8957972度 東経135.6786778度 /34.8957972; 135.6786778座標:北緯34度53分44.87秒東経135度40分43.24秒 / 北緯34.8957972度 東経135.6786778度 /34.8957972; 135.6786778 |
| 山号 | 天王山(古くは補陀洛山) |
| 宗派 | 真言宗智山派 |
| 本尊 | 十一面観音(重要文化財) |
| 創建年 | 伝・神亀元年(724年) |
| 開山 | 伝・行基 |
| 開基 | 伝・聖武天皇(勅願) |
| 中興年 | 伝・長徳年間(995年 -999年) |
| 中興 | 伝・寂昭 |
| 別称 | 宝寺 大黒天宝寺 |
| 札所等 | 京都六大黒天霊場第1番 |
| 文化財 | 三重塔、木造十一面観世音菩薩立像、板絵着色神像ほか(重要文化財) |
| 公式サイト | 宝寺 |
| 法人番号 | 1130005006466 |
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宝積寺(ほうしゃくじ)は、京都府乙訓郡大山崎町大山崎にある真言宗智山派の寺院。山号は天王山(古くは補陀洛山)。本尊は十一面観音。天王山の中腹にある。聖武天皇の勅命を受けた行基により神亀元年(724年)に開山される。
聖武天皇が夢で竜神から授けられたという「打出」と「小槌」(打出と小槌は別のもの)を祀ることから通称「宝寺」(たからでら)とも呼ばれる。
宝積寺は、山城国(現・京都府)と摂津国(現・大阪府)の境に位置し、古くから交通・軍事上の要地であった天王山(270m)の南側山腹にある。寺伝では神亀元年(724年)、聖武天皇の勅願により行基が建立したと伝える。しばらくして本尊・大黒天神を天竺(インド)から招いて祀ったという。
行基は奈良時代に架橋、灌漑などの社会事業を行い、多くの寺を建てた僧である。行基は神亀2年(725年)、淀川に「山崎橋」(山崎 - 橋本間)を架けている。また、『行基年譜』によれば、行基は天平3年(731年)、乙訓郡山崎に山崎橋を管理する橋寺として「山崎院」を建立している。天王山の南側山麓に位置する大山崎町大山崎上ノ田の遺跡が「山崎院」跡に比定されており、ここからは日本でも最古級の壁画断片などが出土している。以上のことや、付近には天平18年(746年)に行基が開いたという西観音寺(現・椎尾神社)があったことからも、天王山周辺は行基にゆかりの深い地であることは確かで、宝積寺は「山崎院」の後身と考える説もある。
平安時代の寺史はあまり明らかでないが、長徳年間(995年 -999年)、寂昭が中興したという。寂昭は俗名を大江定基といい、『今昔物語集』所収の説話で知られる。それによれば、彼は三河守として任国に赴任していた時に最愛の女性を亡くし、世をはかなんで出家したという。
11世紀末から12世紀初めの成立と思われる『続本朝往生伝』(大江匡房著)には早くも当寺の通称である「宝寺」の名が見える。また、藤原定家の日記『明月記』には建仁2年(1202年)に大江匡房が宝積寺を訪れたことが記されている。
貞永元年(1232年)、当寺は火災で焼失しており、現存する仏像等はこれ以降のものである。以降復興が進められ、南北朝時代には塔頭が64坊もあった。
天正10年(1582年)、天王山が羽柴秀吉と明智光秀が戦った山崎の戦いの舞台となり、その際宝積寺には秀吉の本陣が置かれた。山崎の戦いの後、秀吉は天王山にあった城跡を大改築して山崎城を築城すると、宝積寺をも取り込んだ。このため城は「宝寺城」とも呼ばれた。山崎城は秀吉が大坂城を築くまでその居城とされた。
この山崎の地には西国街道と山崎宿があり、東から順に観音寺(山崎聖天)、宝積寺、西観音寺(現・椎尾神社)が並び立ち、にぎやかな場所であった。
元治元年(1864年)には禁門の変で尊皇攘夷派の真木保臣を始めとする十七烈士らの陣地が置かれたために幕府軍の攻撃を受け、境内が荒廃した。
1915年(大正4年)には夏目漱石が当地を訪れている。漱石は、宝積寺の東側に実業家・加賀正太郎が建設中であった山荘(現・アサヒグループ大山崎山荘美術館)を訪れ、「宝寺の隣に住んで桜哉」の句を詠んだ[1]。


