Movatterモバイル変換


[0]ホーム

URL:


コンテンツにスキップ
Wikipedia
検索

宝田明

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
たからだ あきら
宝田 明
宝田 明
20代前半の頃(1956年[1]
本名寶田 明
生年月日 (1934-04-29)1934年4月29日
没年月日 (2022-03-14)2022年3月14日(87歳没)
出生地大日本帝国の旗日本統治下朝鮮咸鏡北道清津[2][3][注釈 1]
死没地日本の旗日本東京都
国籍日本
身長183cm[注釈 2]
血液型O型
職業
ジャンル
活動期間1953年 -2022年
配偶者児島明子(最初の妻)
著名な家族児島未散(長女)
公式サイトwith Akira Takarada
主な作品
映画
テレビドラマ
舞台

バラエティ番組
アメリカの夜
受賞
日本アカデミー賞
会長功労賞
2020年
その他の賞
文部省芸術祭
奨励賞
1964年

ゴールデン・アロー賞
1972年
文化庁芸術祭

大衆芸能部門大賞
2012年
テンプレートを表示

宝田 明(たからだ あきら[出典 2]旧字体寶田 明󠄁1934年昭和9年〉4月29日[出典 3] -2022年令和4年〉3月14日)は、日本映画俳優タレント声優司会者

来歴

[編集]
1965年

父は技師であり、越後国村上藩藩士の末裔で朝鮮総督府海軍武官を務めていた祖父の勧めで朝鮮総督府鉄道に勤務した[13][14]。6人兄弟(兄3人、姉、弟)。2歳の頃に、父の南満洲鉄道(満鉄)への転勤のため、満洲へ移る[14]。終戦後、12歳でハルビンから引き揚げ[15]博多から、本籍地新潟県岩船郡村上本町(現・村上市)に移り、同市大工町にある寶田家の菩提寺笠原山善行寺に身を寄せる。寺の四畳半で2年間暮らし、村上本町国民学校に通った[16]

1953年東京都立豊島高等学校卒業後に東宝ニューフェイス第6期生として俳優生活をスタート[出典 4]。同期には佐原健二河内桃子藤木悠、日活に移籍した岡田眞澄がいる。同年、映画『かくて自由の鐘は鳴る』でデビュー[出典 5][注釈 3]。翌年、特撮映画『ゴジラ』で初主演を果たす[出典 6]。長身・美形の二枚目俳優として東宝映画の若手トップスターとなり、数多くの映画に主演[19][10]。全盛期には連日連夜銀座に繰り出し夜遊びに精を出していた。

1959年の日本人初のミス・ユニバースの栄冠に輝いた児島明子1966年4月29日(32歳の誕生日)に結婚し[20][注釈 4]1974年1月の次男誕生までの8年間に2男1女をもうけた[21][注釈 5]1984年に離婚した[22]1991年に『ジプシー』がヒットした歌手・女優の児島未散は長女で、明子との最初の子供である[21]

1960年代は、東宝と香港キャセイ・フィルムとの合作映画(『香港の夜』他)で、香港の女優・尤敏(ユーミン)とコンビを組んで[10]、香港、台湾など、アジア地域で絶大な人気を博した。1961年には小津安二郎監督が東宝で撮った映画『小早川家の秋』にも出演している。

特撮(怪獣)映画には『ゴジラ』の翌年の『獣人雪男』以来疎遠だったが、1964年の『モスラ対ゴジラ』の主演で復帰。以後も昭和から平成まで多く出演し[出典 7]、日本の特撮映画の代表的なスターと称される[3][19]

明るく華やかな雰囲気であり[7]、映画では『100発100中』の最初からフランス語のセリフで登場し、ヒーローなのか悪人なのか分からないまま終わるキャラクターなど持ち味を存分に発揮している。また、映画斜陽期以降はミュージカルの世界にも活動の場を広げ[3][5]、『マイ・フェア・レディ』などで人気を集め[6]、日本におけるミュージカル俳優の草分け的存在としても活動した[9]1980年東京都中野区江古田に日本初のミュージカル俳優養成学校「宝田芸術学園」を開校するも、1983年5月末で閉鎖となった。

1970年代に入ってからは人気が低迷していたが、1990年代に『あげまん』(1990年)、『ミンボーの女』(1992年)で伊丹十三の監督作品に起用され、『ゴジラvsモスラ』(1992年)でゴジラシリーズに再出演するなど、再び注目された[23]

俳優活動以外にも、ミス・ユニバース日本代表選出大会では1991年まで司会を担当していた。1990年代以降は、気障な二枚目というキャラクターを逆手に取り、バラエティー番組への出演や、金鳥の入浴剤「音浴湯」のCMでのコミカルな演技で新しい境地を開拓した。

2016年6月10日、政治団体国民怒りの声」より、第24回参議院議員通常選挙比例区候補として立候補することが公表されたが[24][25]、17日には立候補を取り止めたことが発表された[26]。立候補を取り止めた理由として「後進の道を阻むのではないかと自問自答した」と述べている[27]

2022年3月10日、同年4月公開の映画『世の中にたえて桜のなかりせば』の舞台挨拶では、腰痛が悪化したため車椅子姿で登壇したが、晩年は入退院を繰り返し、最後の公の姿となった。翌11日、女性セブンのインタビュー[28]を受けた後に体調の悪化を訴え12日に入院、13日の夜に容態が急変。

2022年3月14日0時31分、誤嚥性肺炎のため東京都内の病院で死去[29]。87歳没。訃報は4日後の同月18日に所属事務所から公表された。児島明子との離婚後に再婚した一般女性が喪主を務めたことも明らかにされた。

2022年5月26日、生前の芸術文化活動に対する功績が称えられ、文化庁長官感謝状を授与した[30]

エピソード

[編集]

中国語英語に堪能で、ハルピン時代には、周囲に中国人やロシア人が多かったことから中国語だけでなくボディランゲージも用いることが多く、そのことが俳優となってから演技に活かされてきたという[31]

1997年12月24日には冠動脈が86%[注釈 6]も狭窄していたことによる狭心症を克服するため、11時間におよぶバイパス手術を受けたが、半日近く経って全身麻酔から覚醒しての第一声が「三船敏郎が亡くなったから、東宝のみんなに連絡しろ」であったという[32]。宝田自身はこの経緯について、「三船さんとボクは満洲から引き揚げて来た者同士で仲良しだったから、三途の川まで一緒だったけどボクだけ途中で戻って来ちゃったんでしょう」と語っている[32][34][注釈 7]。三船のほか、森繁久彌黒澤明、後輩で同い年の石原裕次郎などとも交流が深かった。

子供の頃から歌が好きで、東海林太郎の歌を時々歌っていた。ただし、高校生の頃に『NHKのど自慢』の予選に津村謙の「上海帰りのリル」で参加したが、鐘2つで不合格だった[6]

周りから時々優等生タイプに思われることがあるとのことだが、本人は否定している[6]

映画『世の中にたえて桜のなかりせば』では、主演に加えて初めてエグゼクティブプロデューサーの仕事を経験[6]。後日の阿川佐和子との対談では、上記の仕事を踏まえて「これからは裏方の仕事も頑張りたい」と語っていた[注釈 8]が、その対談からわずか10日後、宝田は帰らぬ人となった[6]

遺作となった映画『日光物語』の撮影中に不戦不争の書を残した。またロシアのウクライナ侵攻が始まっていたこともあり「こんな時代だからこそコメディ映画が必要である」とも語っていた。同作では腰痛でまっすぐ立ってられないため、立っている場面では必ず後ろに人を立たせて倒れないように支えていた。[要出典]

満洲時代

[編集]

先述の通り、2歳の頃に家族でハルピンに移住した。当時は日本政府の国策で満洲への移民が行われていたため、ハルピンにもたくさんの日本人が暮らしていたという[注釈 9]

子供の頃は、軍国少年を目指すことが一般的だったことから、将来は予科練幼年学校などに入って兵隊になることを夢見ていた[6]。当時の満洲の学校教育は陸軍調で、宝田たちは教師から厳しく育てられた。また、9歳頃に同世代の子供たちと共に日本軍の各部隊に配属され、内務班の兵隊と2日間寝食を共にしながら訓練を受けた[注釈 10]

終戦間近の1945年8月のソ連軍の満洲侵攻による混乱の際、ソ連兵に右腹を撃たれる[35][注釈 11]。元軍医に弾丸を摘出してもらった[注釈 12]が、その弾丸はハーグ陸戦条約で禁止されていた拡張弾頭(ダムダム弾)だったという(ソ連は条約を否認していた)[14][36]。その経験に加え、満鉄の社宅にいた女性がソ連兵に強姦される現場を目撃した経験などがトラウマになり、ロシアには嫌悪感を抱いていた[35]。実際に、ロシア映画やロシアバレエは「吐き気を催すほど許せない気持ちが湧き起こる」ために観たくないと語っている[出典 8][注釈 13]

怪我から回復した頃には兄たちがシベリアに抑留されていたため、「僕が働いて家計を助けなきゃ」との思いからソ連兵相手の靴磨き[注釈 14]や満洲の専売公社から仕入れたタバコを売るなどして生活費を稼いだ[6]。終戦後の12歳までハルピンで暮らした後、最後の引き揚げ組で日本に帰国した[6]

俳優デビュー

[編集]

終戦後日本に帰国するが、「自分は本当に日本人なんだろうか?」と自問自答し始める[注釈 15]。その後学生時代のある日演劇部から誘われ、劇作家・真船豊岡本綺堂の作品などを演じた。役になり切っている間上記の悩みが解放されると共に、自己表現の喜びを感じたことから役者業に興味を持つ[6]

高校の同級生に誘われて東宝ニューフェイスのオーディションを受けに行くが、撮影所前に並ぶ参加者の多さに気後れした[6]。そのまま帰ろうとしたが、撮影所の守衛に説得されて押し込まれる形で会場に入って受験して合格した[注釈 16]

先述の通り「宝田明」は本名だが、デビューするにあたり芸名を考える話も出た。しかし、「宝」という字の縁起の良さに加え、所属会社の「東」にも入っていることから、本名での芸能活動が決まった[17][9][注釈 17]

『100発100中』や『南海の大決闘』などで監督を務めた福田純は宝田と同じく満洲出身であったことから、宝田は福田を兄貴分として慕っていた[31]

映画『放浪記』で主演の高峰秀子から「映画はマイクがあるからあまり張って喋らなくても良い」と教えられたことをきっかけに、映画の演技は気を張らずに軽く演じることが必要だと考えるようになった[17][31]

また、高峰のようにアドバイスを貰える先輩がいたことから、自身も後輩に助言するようになったという[17]。『ゴジラvsモスラ』で監督を務めた大河原孝夫は、宝田が俳優部のリーダーシップを取っており、エキストラの動きにも意見を出していたと証言している[37]

怪獣大戦争』や『石中先生行状記』などで共演した沢井桂子は、宝田の演技はセリフや動作、表情などがすべてキマっていたと証言している[38]。ゴジラシリーズなどで共演した古谷敏は、自身にとって宝田はメロドラマのヒーロー的存在であったと述べている[39]

ゴジラシリーズに関するエピソード

[編集]

『ゴジラ』の撮影初日には、撮影現場にて「主役の宝田です」と挨拶したところ、照明スタッフから「主役はゴジラだ!」と怒られ、ゲンコツをもらったと語っている[40][17][注釈 18]。一方、円谷英二からは「主役だから頑張りなさい」と言葉をかけられたという[4]。宝田自身は、主演になったことで飲み屋のツケが払えるという考えが優先していたといい[15][9]、行きつけの店にポスターを貼ってもらったり、ほかの客に酒を振る舞ったりなどしていたが、製作の田中友幸から外車の購入を勧められギャラの半分ほどがなくなったという[15]

『ゴジラ』の内容については、「核兵器を作り出した人類への警鐘」と受け止めており、ゴジラが死ぬ場面には涙したという[17][4]

満州時代には学校で戦意高揚映画も観せられており、宝田は後年に記録映像だと思っていた『ハワイ・マレー沖海戦』が円谷による特撮映画だと知って驚いたといい、「神様と一緒に仕事をしている」という認識で特撮には信頼を置いていたと述べている[15]

ゴジラvsモスラ』への出演が決まる前には、『モスラ対ゴジラ』を観て感激したという中学生から「ぜひ出演してほしい」との懇願が書かれた手紙をもらっていた[17][4]。同作品の撮影現場では、第1作からプロデューサーを務めてきた田中友幸が病身をおして宝田を訪ねており、対面した際に田中は涙していたという[出典 9]。同作品への出演が発表された後には、幼少期にゴジラシリーズを観ていた世代からのファンレターも来るようになった[17]。同作品監督の大河原孝夫は、宝田は明るく飾らない人物であり、芝居以外でも現場をまとめるなど俳優の要であり、人柄の良さを感じたことを語っている[23]

GODZILLA』が公開された際には、主演のジャン・レノと対面したが、彼は『ゴジラ』のファンであったものの宝田が存命であったとは知らなかったらしく、シーラカンスを見たかのような顔をしていたという[4]

ゴジラ FINAL WARS』では、撮影所の設備などは変わったものの撮影現場の雰囲気は変わっておらず、先に死去した仲間への鎮魂の思いで撮影に参加したと述べている[31]。同作品では、『100発100中』をオマージュしたセリフも取り入れられている[42]

GODZILLA ゴジラ』では、カメオ出演として撮影が行われた[43]が、カットされた[12](エンドロールにはクレジットされている)。監督のギャレス・エドワーズには謝られたうえ、もしアメリカでまたゴジラ映画を作る際には必ず登場させるとの言葉も貰った[44]が、次作『ゴジラ キング・オブ・モンスターズ』では彼が降板したうえに宝田も2022年に死去したため、叶わなかった。

自身が出演した200本近い映画のうち特撮作品は十数本であるが、「自身の経歴の中でも重みがある」、「人間の作り出す可能性の凄さを感じられる」と語っている[4]。また、「ゴジラは最強のクラスメート」を謳い、次に『ゴジラ』作品に出演する際は「ゴジラとアイコンタクトで意思疎通が出来る人間」を演じたいと語っている[40]

脚本を読んで感情移入しながら役を作り上げるため、うまく書かれていない脚本では感情の流れがつっかえてしまうことがあるが、東宝特撮を多く手掛けた関沢新一の脚本ではそのようなことは一度もなかったという[31]

石原慎太郎・裕次郎との出会い

[編集]

太陽の季節』で作家デビューした石原慎太郎と出会った頃、会話の流れで満洲時代の苦労話をした。慎太郎から、「僕はあなたほどの経験がない。宝田さんの苦労には実がある」と褒められた。その直後、慎太郎から「弟の裕次郎が今度日活に入ったんで、面倒見てやってくれませんか?」と頼まれ、後日に裕次郎とも出会うこととなる[6]

裕次郎との初対面を前に、「何が太陽族だ。俺は鉛玉を食らったことがあるんだ。逗子のボンボンに世間を教えてやる」と意気込んだ。自らのおごりで銀座に飲みに連れて行くと、裕次郎が少しの遠慮もなくレミーマルタンなどの高い酒を平気で飲み始めたため、腹を立てたという[注釈 19]

出演

[編集]

映画

[編集]
宝田とゴジラ(1954年)の主要キャスト
コタンの口笛』(1959年)

テレビドラマ

[編集]

舞台

[編集]

ゲーム

[編集]

吹き替え

[編集]

俳優

[編集]
  • ディーン・マーティン
    • サイレンサー/殺人部隊(1966年) - マット・ヘルム 役
    • サイレンサー/待伏部隊(1966年) - マット・ヘルム 役

洋画

[編集]

海外アニメ

[編集]

バラエティ

[編集]

ラジオ番組

[編集]

CM

[編集]

その他

[編集]

著書

[編集]

脚注

[編集]
[脚注の使い方]

注釈

[編集]
  1. ^資料によっては、出身地を「旧満洲ハルピン」と記述している[出典 1]
  2. ^徹子の部屋』2011年3月10日放送、ゲスト時のコメント[出典無効]
  3. ^資料によっては、『水着の花嫁』を本格デビュー作としているが[18]、宝田自身は同作品を2本目であると述べている[9]
  4. ^二人は10年前から交際しており、三島由紀夫の小説にちなんで「永すぎた春」と言われた。結婚式はパレスホテルで行われた。二人の誕生日はちょうど半年離れており、この日は児島の29歳半のハーフバースデーでもあった。
  5. ^『現代日本映画人名事典 男優篇』(キネマ旬報社、 2012年ISBN 978-4-873-76387-3)の「宝田明」の項目(pp. 167-168)には「二女をもうけた」とあるが、週刊朝日の記事には2男1女の名前も記されており、『朝日新聞』1980年3月7日26面「顔」コーナーでも「いま三児の父」と説明されているので、そちらに従う。
  6. ^2009年に沢井製薬によるインタビューで答えた数値[32]。2016年に週刊女性PRIMEによるインタビューでは96%と答えている[33]
  7. ^実際に三船は1997年12月24日に逝去している。
  8. ^また「いい経験をさせてもらいました。自分がいかに制作というものに不勉強かと痛感させられた」とも語っていた。
  9. ^宝田によると「食い詰めた農家の二男三男などの移民、陸軍から派遣された人、満洲で一山当てようと考える民間人などが大挙していた」とのこと[6]
  10. ^兵隊たちから怒鳴られ叩かれたが、本人は「子供ながらに当時はこれが当たり前と思っていたため、歯を食いしばって頑張った」という[6]
  11. ^本人によると「ハルピンの浜江駅でソ連兵が日本兵をシベリア送りにしていた。“兵隊となっていた2人の兄に会えるかも”と思い、その駅に訪れた。すると駅を囲んでいたソ連兵が人除けのために銃で「ダダダダーッ」とぶっ放し、その内の1発が当たった」とのこと[6]
  12. ^本人によると「軍医に連絡がつかず2日間家でじっとするしかなく、その間に傷口が化膿した。ようやく元軍医に診てもらうが戦時でまともな医療器具が足りず、麻酔なしで処置されることになった。元軍医が母親に紐で宝田の手足を縛るよう指示した後、宝田は『君は日本男児だな?歯を食いしばって堪えなさい』と言われ、滅菌のため熱したハサミで摘出処置をしてもらった。本人は後年「歯を食いしばっても痛いもんは痛い(笑)。でもおかげで一命を取り留めました」と語っている[6]
  13. ^加えて「私は平生、平和主義者だけど、ソ連兵やあの国のことはどうしても憎むことしかできません」と最晩年まで語っていた[6]
  14. ^本人は「憎いソ連兵相手だが、生きていくため割り切って仕事をした。代金は当時の金額で軍靴1足磨いて十円、長靴で二十円だった」と回想している。
  15. ^生まれた頃から海外暮らしだった宝田は、この時始めて日本の土を踏み、日本育ちの日本人と自身を比べて悩み始めたという[6]
  16. ^「本人は後年「『とにかく受けなさい』という守衛さんと「やっぱり帰ります」という私との押し問答の末、受験することになった。あの人がいなかったら、私は俳優になっていなかったでしょうね」と回想している[6]
  17. ^ただし“宝田”という姓は珍しく、過去に駐車違反を起こして警察署の受付で「宝田明さん」と呼ばれた時は、周りの一般人が一斉に振り返ったため、「かなり恥ずかしい思いをした」という[6]
  18. ^これについて助監督の梶田興治は、『ゴジラ』で新人の宝田と河内桃子を売り出すことは決まっていたが、本人にそれを明かさないため冗談交じりに言っていたのだと証言している[41]
  19. ^それまで安酒しか飲んだことがない宝田は、「張り倒してやろうかと思ったがそこはグッと堪えた」とのこと[6]
  20. ^未公開シーン。
  21. ^「音の鳴る入浴剤」として当時新発売された新商品のCM(※販売終了)。上半身裸で下半身にタオルを巻いた宝田が浴槽の前でタオルをはだけさせて、下半身部分が「宝」マークで隠れた状態で宝田が踊り出す内容。二枚目俳優として活躍してきた宝田がこのようなコミカルな演技をした事に、往年のファン世代達を驚かせた。

出典

[編集]
  1. ^宝田明 - 略歴・フィルモグラフィー”. KINENOTE(キネノート). 2020年11月6日閲覧。
  2. ^宝田明(インタビュアー:竹葉秀彦)「ソ連侵攻、苦しみ今も」『時事ドットコム』、時事通信社、2015年8月15日https://www.jiji.com/jc/v4?id=201508sovietunioninvasion00012021年12月12日閲覧 
  3. ^abcdefgh東宝特撮映画全史 1983, p. 531, 「怪獣・SF映画俳優名鑑」
  4. ^abcdefghijkl円谷英二特撮世界 2001, pp. 29–32, 「インタビュー 宝田明」
  5. ^abゴジラとともに 2016, p. 5, 「宝田明」
  6. ^abcdefghijklmnopqrstu週刊文春2022年4月7日号「阿川佐和子のこの人に会いたい」第1388回・宝田明p110-115
  7. ^ab決定版ゴジラ入門 1992, p. 163, 「第5章 これがゴジラ映画だ 出演した人たち」
  8. ^abcdeゴジラ大百科 1993, p. 124, 構成・文 岩田雅幸「決定保存版 怪獣映画の名優名鑑」
  9. ^abcdefghijkGODZILLA60 2014, pp. 96–97, 「INTERVIEWS 私とゴジラ_01 宝田明」
  10. ^abcde
  11. ^abc超常識 2016, p. 118, 「Column ゴジラ映画 俳優FILE」
  12. ^abcdefghiゴジラ365日 2016, p. 117, 「4月29日」
  13. ^「ソ連兵に銃撃された傷が今でも痛む」 俳優・宝田明が明かす凄絶な戦争体験 週刊新潮 2021年6月10日号掲載
  14. ^abcd終戦の満州、悪夢の始まり…俳優 宝田明さん 81”. 読売新聞オンライン. 読売新聞社 (2015年8月13日). 2017年6月28日時点のオリジナルよりアーカイブ。2016年6月21日閲覧。
  15. ^abcd初代ゴジラ研究読本 2014, pp. 58–65, 聞き手佐野史郎「スペシャルインタビュー 宝田明×佐野史郎」
  16. ^
  17. ^abcdefghijkl東宝SF特撮映画シリーズ7 1993, pp. 155–157, 「インタビュー 宝田明」
  18. ^abc初代ゴジラ研究読本 2014, pp. 32–33, 「ゴジラの登場人物」
  19. ^ab「怪獣映画を彩る俳優たち」『東宝怪獣グラフィティー 「ゴジラvsキングギドラ」完成記念』近代映画社スクリーン特編版〉、1991年10月31日、74頁。雑誌コード:65429-56。 
  20. ^
    • 「「四月に結婚」発表 宝田明と児島明子」『朝日新聞』 1966年2月9日 夕刊6面
    • 「宝田明と児島明子が挙式」 『中日新聞』 1966年4月30日 15面
  21. ^ab「23年間のミス・ユニバース 美女の運命はいかに?」『週刊朝日』第79巻第20号、朝日新聞社、1974年5月3日、139-143頁。 
  22. ^『テレビ・タレント人名事典 第6版』2004年日外アソシエーツ 681頁ISBN 978-4-816-91852-0
  23. ^ab「破之参 『ゴジラVSモスラ』」『平成ゴジラ大全 1984-1995』編著白石雅彦、スーパーバイザー富山省吾双葉社〈双葉社の大全シリーズ〉、2003年1月20日、180頁。ISBN 4-575-29505-1 
  24. ^
  25. ^ゴジラ365日 2016, p. 156, 「6月10日」
  26. ^宝田明氏が立候補取りやめ 参院比例で国民怒りの声”. 西日本新聞 (2016年6月17日). 2016年11月28日閲覧。
  27. ^宝田明氏 出馬中止「後進のため」”. 東京新聞 (2016年6月20日). 2016年6月17日閲覧。
  28. ^【追悼】宝田明さん 亡くなる3日前のインタビューで語った反戦への思い”. NEWSポストセブン (2022年3月18日). 2024年10月31日閲覧。
  29. ^
  30. ^
  31. ^abcdefゴジラとともに 2016, pp. 6–12, 構成・文 浦山珠夫「宝田明」(『映画秘宝』2010年2月号掲載)
  32. ^abc俳優・宝田明さんの「心臓手術で取り戻した命」”. 健康かけいぼ. 沢井製薬 (2009年3月11日). 2011年12月10日時点のオリジナルよりアーカイブ。2011年12月10日閲覧。
  33. ^“『ゴジラ』でスターになった宝田明 裕次郎と夜の銀座の日々”. 週刊女性PRIME (主婦と生活社). (2016年7月3日). https://www.jprime.jp/articles/print/7177 2021年12月9日閲覧。 
  34. ^“一生懸命は当たり前 「タイタニック」で新春の舞台幕開け 俳優/宝田明さん”. 定年時代 東京版 平成19年1月下旬号. http://www.teinenjidai.com/tokyo/h19/01_2/index.html 2021年12月9日閲覧。 {{cite news}}:不明な引数|purlisher=は無視されます。 (説明)
  35. ^abc【言わねばならないこと】(39)恨み買い 民も戦火に 俳優・宝田明氏”. TOKYO Web. 東京新聞社 (2015年3月3日). 2018年9月29日時点のオリジナルよりアーカイブ。2016年6月21日閲覧。
  36. ^ab石原壮一郎 (2019年8月23日). “ソ連兵に撃たれた「ダムダム弾」の痛みは今も――宝田明85歳、戦争体験とゴジラに込めた平和への願い”. Yahoo!ニュース (Yahoo!). https://news.yahoo.co.jp/feature/1421/ 2021年12月9日閲覧。 
  37. ^東宝SF特撮映画シリーズ7 1993, p. 78, 「インタビュー 大河原孝夫」
  38. ^怪獣大戦争コンプリーション 2025, p. 130, 「キャスト再録インタビュー 沢井桂子」
  39. ^怪獣大戦争コンプリーション 2025, p. 131, 「キャストインタビュー 古谷敏」
  40. ^ab60周年を記念して「ゴジラ」がリマスター版で蘇る! 公開初日を迎え、宝田明さんが当時の貴重な撮影秘話を告白!!”. 東宝 (2014年6月7日). 2015年2月21日時点のオリジナルよりアーカイブ。2015年2月21日閲覧。
  41. ^初代ゴジラ研究読本 2014, pp. 174–177, 取材・文 友井健人「スタッフインタビュー 梶田興治」
  42. ^abcdゴジラとともに 2016, pp. 13–18, 「宝田明ギャラリー」
  43. ^“初代『ゴジラ』俳優・宝田明、ハリウッドリメイク版に出演決定!”. シネマトゥデイ (シネマトゥデイ). (2013年3月28日). https://www.cinematoday.jp/news/N0051574 2022年4月17日閲覧。 
  44. ^
  45. ^宝田明 -オリコン. 2021年12月12日閲覧。
  46. ^abcdefghi東宝特撮映画全史 1983, pp. 535–537, 「主要特撮作品配役リスト」
  47. ^東宝特撮映画大全集 2012, p. 233, 「『ゴジラVSモスラ』作品解説/俳優名鑑」
  48. ^東宝特撮映画大全集 2012, p. 285, 「『ゴジラ FINAL WARS』作品解説/俳優名鑑」
  49. ^CAST/STAFF”. 大仏廻国公式サイト. 2018年8月10日閲覧。
  50. ^映画『ダンスウィズミー』オフィシャルサイト”. ワーナー・ブラザース. 2019年2月21日閲覧。
  51. ^乃木坂岩本蓮加が映画初出演で初主演、宝田明とW主演70歳差超異例タッグ - 坂道”. 日刊スポーツ. 日刊スポーツ新聞社 (2021年8月24日). 2021年8月24日閲覧。
  52. ^https://www3.nhk.or.jp/news/special/sci_cul/2022/10/story/20221024_story/
  53. ^映画『キャッツ』日本語吹き替え版 第三弾キャスト発表! 山寺宏一さん、宮野真守さん、沢城みゆきさん、山路和弘さんらよりコメント到着”. アニメイトタイムズ. 2020年1月8日閲覧。
  54. ^“旧ゴジラ俳優・宝田明、アニメ『スター・ウォーズ』に声の出演”. ORICON STYLE. (2016年11月30日). https://www.oricon.co.jp/news/2082251/full/ 2016年11月30日閲覧。 

出典(リンク)

[編集]
  1. ^[4][5][6]
  2. ^[3][7][8][9][10]
  3. ^[3][4][9][10][11][12]
  4. ^[17][4][18][9][11]
  5. ^[3][17][4][9]
  6. ^[3][17][4][9][10][11]
  7. ^[4][18][9]
  8. ^[14][35][36]
  9. ^[4][9][31]
  10. ^[3][8][12]
  11. ^[46][8][17][12]
  12. ^[8][47][12]

参考文献

[編集]

外部リンク

[編集]
ウィキメディア・コモンズには、宝田明に関連するカテゴリがあります。
全般
国立図書館
学術データベース
芸術家
その他
スタブアイコン

この項目は、俳優(男優・女優)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めていますP:映画/PJ芸能人)。

スタブアイコン

この項目は、声優ナレーターを含む)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めていますP:アニメ/PJ:アニメ/PJ:声優)。

https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=宝田明&oldid=106783030」から取得
カテゴリ:
隠しカテゴリ:

[8]ページ先頭

©2009-2025 Movatter.jp