| あんどう のぼる 安藤 昇 | |
|---|---|
| 本名 | 安藤 昇 |
| 生年月日 | (1926-05-24)1926年5月24日 |
| 没年月日 | (2015-12-16)2015年12月16日(89歳没) |
| 出生地 | |
| 民族 | 日本人 |
| 職業 | 俳優 |
| ジャンル | 映画 |
| 活動期間 | 1965年 -2015年 |
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安藤 昇(あんどう のぼる、1926年(大正15年)5月24日[1] -2015年(平成27年)12月16日[1])は、日本の元ヤクザ、俳優、小説家、歌手、プロデューサー。東京府豊多摩郡(のちに東京市淀橋区)東大久保天神下[2][3](現・東京都新宿区新宿6丁目)出身。
サラリーマンの三男一女の長男として大久保天神下で生まれる[3]。小学3年時に6年の番長を刺し学校を制圧[3]。神奈川県川崎市立川崎中学校に進学[3]するも喧嘩に明け暮れ、濡れ衣を着せられ[3]、15歳で調布市の感化院に入れられる[3]。旧制中学校時代は転校を繰り返し、父の満州転勤に伴い16歳のとき満州に渡り、奉天第一中学校に進学[3]。同校退学後内地へ戻り、京王商業転入[3]。不良学生を束ねて加納貢と意気投合し兄弟分になる[3]。京王商業を退学になり、練馬区の智山中学校に転入[3][注釈 1]。18歳のとき喧嘩で逮捕され多摩少年院に収監される[3]。予科練の試験に合格し恩赦で少年院を退院[3]。三重海軍航空隊に入隊後、海軍飛行予科練習生へ配属。19歳のとき特攻隊に志願し[3]、1945年(昭和20年)6月、神奈川県久里浜の伏龍特攻隊に配属が叶う[3]。伏龍は米軍の上陸艇を東京湾の入口で海底から棒付き機雷で突くという無茶な作戦[3]。命の危険も伴う苛酷な訓練を受けるも、2ヶ月後に終戦となり、除隊[3]。
復員後の1946年(昭和21年)、法政大学予科[3][4]に入学[3]。焼け跡の東京を徘徊し「セイガクヤクザ」と恐れられる[3]。新宿でダンスパーティを開催し、ヤクザやテキヤと抗争を始める[3]。翌1947年(昭和22年)、法政を学費未納で退学し[3]、新宿三丁目で洋品店「ハリウッド」を経営[3]。以降は万年東一のいる新宿を避け、渋谷を縄張りにし、新興著しい渋谷の盛り場を仕切って男を上げた[3]。仲間と共に愚連隊(不良青少年グループ)を作る[3][5]。
1952年(昭和27年)、愚連隊を発展させ[3]、用心棒や賭博を手がける東興業(のちの「安藤組」)を設立[1][3]。
安藤組は、従来の暴力団とは異なるファッショナブルなスタイル(背広の着用を推奨、刺青・指詰めの厳禁など)で、当時の若者から絶大な支持を集めた[要出典][6]。最盛期には1000人を超える組員が在籍し、大学生や高校生の姿も珍しくなかった。安藤組の幹部には、同組織の回顧録『修羅場の人間学』(1993年には映画化もされた)を後年に執筆した森田雅や[要出典]、本田靖春の小説『疵・花形敬とその時代』の主人公として知られる花形敬らがいる[3]。また作家の安部譲二が安藤組に出入りしていた[1]。
1954年(昭和29年)、万年東一からの依頼で横井英樹の白木屋乗っ取りに一役買う[3]。
1958年(昭和33年)、横井英樹の債務取立てのトラブル処理を請け負うが、話し合いの席上における横井の態度に激怒した安藤が、組員へ横井襲撃を命じる(横井英樹襲撃事件)[3]。恐喝などの容疑で安藤が逮捕され収監[3]。
1963年(昭和38年)、安藤組組長代行・花形敬が東声会の刺客に殺される[3]。
1965年(昭和40年)9月、6年間服役したのち出所し、12月安藤組は解散[1][3]。同年12月自らの自叙伝を映画化した『血と掟』(松竹配給)に主演し映画俳優へ転向[3]。同作品のヒットを受け、松竹と専属契約を結んだ(契約金2千万円、1本当たりの出演料が看板女優である岩下志麻を凌ぐ500万円)[3][7]。出所後は東南アジアで事業をしようと考えていたが[3]、役者の魅力にすっかりハマったといわれる[3]。松竹の子会社であるCAGに所属[注釈 2]するかたちで、11本の映画(ただし、2本は確認されていない)に出演。
1967年(昭和42年)、俊藤浩滋に誘われ東映に移籍[3]。本来なら五社協定違反となる移籍だったが、映画界の慣習を認識していない安藤は、松竹に「(五社協定なんて)知らない」と言うと、それで通ってしまった[8]。1967年、鶴田浩二、高倉健に伍して東映にて主演作が5本組まれたが、彼らに次ぐ東映の大看板には至らなかった[9](ちなみに次の看板スターは若山富三郎)[10]。但し、東映時代の作品は東映実録路線の呼び水になったとする評価もあり[3]、実際に岡田茂東映社長が実録映画の路線化を決めたのは『仁義なき戦い』と安藤の主演映画『やくざと抗争 実録安藤組』のヒットによるものといわれる[11][12][13]。
精悍な顔立ち、左頬の傷痕や元ヤクザという凄みから、ヤクザものを中心に58本の映画へ主演し、人気を博した[1]。松竹・日活・東映各社にて多くの主演作を持つ。自ら主題歌を歌い、いくつもレコードをリリースしている。1965年発売のデビュー曲『新宿無情』はテレビやラジオで放送禁止になるも、年内に20万枚を超える大ヒットとなった[14]。俳優への転向後も暴力団関係者との交流は続き、友人がある一家の跡目を襲名した折には、記念に開かれた賭場へ顔を出し、後日警察に逮捕されている(安藤によれば、このとき警察から著書へのサインを依頼されたという)[要出典]。
1976年(昭和51年)、唐十郎監督『任侠外伝 玄海灘』(唐プロ制作、ATG配給)の撮影で、マイナー映画をヒットさせようと宣伝のため、本物の拳銃を発砲し、拘留される[3]。
1979年(昭和54年)、東映映画『総長の首』出演を最後に俳優を休業[3]。以降はごく希に東映Vシネマへ客演するにとどまり、Vシネマのプロデュースおよび文筆活動に勤しんだ[3]。
2015年(平成27年)12月16日午後6時57分、肺炎のため都内の病院で死去[3][15][16][17]。89歳没。
2016年(平成28年)2月28日、発起人である佐藤純彌、降旗康男、中島貞夫、梅宮辰夫、村上弘明、吉田達、三田佳子、岩城滉一、堀田眞三、梶間俊一により「安藤昇 お別れの会」が東京・青山葬儀所で行われた。映画関係者およびファンを含む約700人が参列し、「新宿無常」「旅傘道中」「惜別の唄」など安藤昇の楽曲をBGMに会は進行[18][19][20][21][22][23]。黙とう後、実行委員長である海老澤信が挨拶し[24]、中島貞夫と堀田眞三が弔辞を述べ[25][26]、梅宮辰夫が献酒を務めた[27]。取材に応じるとみられた梅宮は、体調不良[28][29]により焼香後に会場をあとにした[30][31][23]。北島三郎、村上弘明、岩城滉一は囲み取材にて安藤昇との思い出を振り返った[32][21][33][22]。墓所は杉並区永福町の永福寺にある。
愚連隊となった当初は新宿で勢力拡大を試みたが、敗戦直後の新宿は古豪と新興勢力がひしめきあう激戦区だったことから渋谷へ転進。当時の渋谷は、渋谷駅を世田谷方面からのターミナル駅として利用する学生が集まる、いわば”子どもの町”であった。そのためか、1950年代半ばまで警察が飲食店での揉め事に関知しない「無警察地帯」であったとされ、そこに目をつけたと思われる。
トレードマークでもある左頬の傷は、1949年(昭和24年)に台湾人の蔡という人物につけられたもの。春の夕暮れどき、銀座・並木通りとみゆき通りの交差点付近で蔡が言いがかりをつけ、喧嘩に発展する様相となったが「待ってくれ!上着を脱ぐから」と言うので律儀に従ったところ、上着に隠していた短刀(長匕首)で切り付けられたときの傷[40][41]。
作家・作詞家の山口洋子とは、ヤクザ時代から深い関わりがあった。横井英樹襲撃事件にて、安藤が警察から指名手配を受けた際には山口の住むアパートへ一時匿まっている。山口は「女っていうより安藤組の組員の末席をけがしているというつもりでいましたから」と述懐しており[42]、安藤が俳優転身後も長きに渡り交友関係が続いた[43]。
映画『網走番外地 吹雪の斗争』への出演時、監督である石井輝男に無断で撮影現場を離れ帰ったことがある[44]。石井は含むところもなく、これ以降の映画でも安藤と仕事をしている。
出演作品はもっぱら映画だったが、1970年(昭和45年)にはテレビ時代劇『新・三匹の侍』の主演を務めた。同作品で監督を務めた五社英雄とは互いに義兄弟と認めた間柄だった。五社は自身の監督作品へ安藤の出演を打診しており、映画『暴力街』(1974年<昭和49年>、東映配給)にて江川紘一役で安藤が主役を務めている。
唐十郎監督映画『仁侠外伝 玄界灘』撮影中に本物の拳銃を使い、監督とともに小田原署に逮捕される。安藤によればこれは宣伝のためで、捕まることが前提であったという。撮影現場には新聞記者も呼んでいた[45]。
安藤は俳優として人気・実力を兼ね備えていたが、出演数が激減したことには理由がある。撮影中のカメラリハーサルにおける拳銃を撃つシーンで、「バン!バン!」と銃を撃つ声を自ら出さなければならなかった。それを偶然知人に見られてしまい、そのときの恥ずかしい思いがきっかけと言われている。
安藤本人と安藤組には数々の逸話・武勇伝があり、現在でも小説やVシネマの題材としてたびたび取り上げられている。
本記事では便宜上、ヤクザとして扱ったが、安藤には博徒や的屋と認められる組織の所属歴がないため、安藤ならびに安藤組は法的には愚連隊(青少年不良団)と称するのが正しく、警察関係の資料でもそう扱われている。ちなみに警視庁に保管されている安藤組の構成員名簿では、五十音順で整理されている関係で、安部譲二(本名・安部直也)の名前が安藤に続いて2番目に位置している。
野球評論家の関根潤三や元西武ライオンズ監督の根本陸夫は大学の同級生であり、かつては渋谷でつるんでいたという。
家相の研究家でもあり、本も出版している。
| リリース | タイトル(A面) | B面 | レーベル | 品番 | |
|---|---|---|---|---|---|
| 1 | 1965年 | 新宿無情 | 夜の花 | ビクター | SV-318 |
| 2 | 1966年 | 東京の灯 | 逃亡のブルース | ビクター | SV-347 |
| 3 | 1967年 | 男の顔 | 情知らない冷い男 | ビクター | SV-530 |
| 4 | 1970年 | はぐれ町 | 男がひとりでうたう歌 | キャニオン | CA-13 |
| 5 | 1971年 | 男が死んで行く時に | ふうこ | キャニオン | CA-34 |
| 6 | 1971年 | さすらい彼岸花 | 明日に生きる | キャニオン | A-87 |
| 7 | 1972年 | さすらいの詩 | さい果ての港 | キャニオン | A-142 |
| 8 | 1973年 | 血と命 | 明日はない | キャニオン | A-157 |
| 9 | 1973年 | 盛り場二十年 | 由紀 | キャニオン | A-170 |
| 10 | 1974年 | 男が死んで行く時に | 由紀 | キャニオン | A-214 |
| 11 | 1975年 | 白蓮の花 | 北の慕情 | キャニオン | A-277 |
| 12 | 1976年 | 黒犬 | 夢は俺の回り燈籠 | キャニオン | C-5 |
| 13 | 1977年 | 港祭り | 地獄門 | キャニオン | C-60 |
| 14 | 1978年 | 愛すべき悪い奴への挽歌 | 都会で歌う子守狽 | キャニオン | C-105 |
| リリース | タイトル | 収録曲 | レーベル | 品番 | |
|---|---|---|---|---|---|
| 1 | 1970年 | 男の哀歌 | A面
B面
| キャニオン | CAL-1008 |
| 2 | 1971年 | さすらい彼岸花 | A面
B面
| キャニオン | C-1040 |
| 3 | 1972年 | 旅笠道中・影を慕いて | A面
B面
| キャニオン | C-1052 |
| 4 | 1973年 | 盛り場二十年 安藤昇の世界 | A面
B面
| キャニオン | C-3025 |
| 5 | 1974年 | 船頭小唄 | A面
B面
| キャニオン | C-3041 |
| 6 | 1976年 | 軍歌で綴る太平洋戦史 | 企画・構成・ナレーション 安藤昇 A面
B面
| キャニオン | AF-6006 |
| 7 | 1977年 | 男のひとりごと | A面
B面
| キャニオン | AF-6019 |
歌:安藤昇
| 曲名 | 主題歌 |
|---|---|
| 新宿無情 | 映画『やさぐれの掟』主題歌(作詞・作曲:安藤昇) |
| 逃亡のブルース | 映画『逃亡と掟』主題歌(作詞:安藤昇) |
| 東京の灯り | 映画『望郷と掟』主題歌(作詞・作曲:安藤昇) |
| 男の顔 | 映画『男の顔は切り札』主題歌(作詞:マキノ雅弘監督) |
| 血と命 | 映画『やくざと抗争 実録安藤組』主題歌(作詞:佐藤純彌監督) |
| 黒犬 | 映画『任侠外伝 玄界灘』主題歌(作詞:唐十郎監督) |