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安徳天皇

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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安徳天皇
安徳天皇画像泉涌寺所蔵

即位礼1180年5月18日(治承4年4月22日
大嘗祭1182年12月21日(寿永元年11月24日
元号治承
養和
寿永
元暦
時代平安時代
先代高倉天皇
次代後鳥羽天皇

誕生1178年12月22日治承2年11月12日
崩御1185年4月25日寿永4年3月24日
山口県下関市壇ノ浦
陵所阿彌陀寺陵(赤間神宮境内)
漢風諡号安徳天皇
言仁
別称水天皇大神
父親高倉天皇
母親平徳子
皇居平安宮福原宮
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安徳天皇(あんとくてんのう、旧字体:安德天皇1178年12月22日治承2年11月12日〉-1185年4月25日寿永4年3月24日[1])は、第81代天皇(在位:1180年3月18日〈治承4年2月21日〉- 1185年4月25日〈寿永4年3月24日〉)。言仁(ときひと)[2]歴代の天皇の中で最も若くして崩御した天皇。戦乱で落命したことが記録されている唯一の天皇である[注釈 1]

高倉天皇の第一皇子[3]。母は平清盛の娘の徳子(後の建礼門院)[4][5]

生涯

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吾妻鏡』(吉川本)頼朝将軍記の首書。安徳天皇の即位が記されている。

治承2年(1178年)11月12日に生まれ、生後まもない12月15日に立太子。治承4年(1180年2月21日数え年3歳(満1歳2か月)で践祚し、4月22日に即位する。幼帝の政治の補佐は外祖父たる平清盛が取り仕切った[2][6]。即位前には、天皇の祖父後白河法皇も、清盛により幽閉されるに至った[2]。摂政には藤原基通が任じられた[2]

即位の年に清盛の主導で遷都が計画され、福原行幸(現在の神戸市)が行なわれるが、半年ほどで京都に還幸した[2]大嘗祭の為の大嘗宮は紫宸殿の前庭に建てられた[7]寿永2年(1183年)、源義仲の入京に伴い、平宗盛以下平家一門に連れられ三種の神器とともに都落ちする[2][8]。この後寿永2年8月20日1183年9月8日)には三種の神器が無いまま安徳天皇の異母弟である尊成親王が後白河法皇の院宣を受け後鳥羽天皇として践祚し[9]、元暦元年(1184年)7月28日に即位[10]。正史上初めて同時に2人の天皇が擁立されることになった[11][12]。このため、以降2年間、二人の天皇が並立する事態となっている。

一方、安徳天皇は平家一門に連れられ大宰府を経て屋島に行き、御所も造られた。昭和11年刊行の『史蹟名勝天然記念物調査報告』ではその場所を「屋島山東麓壇の浦の安徳天皇祠[注釈 3]及び其の附近なるべし」としている[13]。また、御所が造営されるまでは対岸の牟礼に今も現存する六萬寺を仮御所にしたとも伝わる。現在、六萬寺には「高松平家物語歴史館」の閉館に伴い奉納された安徳天皇、二位尼殿の等身大蝋人形が展示されている[14]。結局、安徳天皇と女官たちはこの地に2年弱滞在した。

しかし、源頼朝が派遣した鎌倉源氏軍(源範頼源義経)によって、平家は一ノ谷の戦い屋島の戦いに敗北[2]。特に屋島合戦(1185年2月)の敗北により、天皇と平家一門は海上へ逃れる[15]。そして寿永4年(1185年)4月、最期の決戦である壇ノ浦の戦いで平家と源氏が激突[2]。平家軍は敗北し、一門は滅亡に至る[2]。この際に安徳天皇は入水し、歴代最年少の数え年8歳(満6歳4か月、6年124日)で崩御した。母の建礼門院(平徳子)も入水するが、源氏方将兵に熊手に髪をかけられ引き上げられている。この際、三種の神器のうち神璽と神鏡は源氏軍が確保した[3][5]

平家物語』「先帝身投」の描写では[16]、最期を覚悟して神璽宝剣を身につけた母方祖母・二位尼(平時子)に抱き上げられた安徳天皇は、「尼ぜ、わたしをどこへ連れて行こうとするのか」と問いかける。二位尼は涙をおさえて「君は前世の修行によって天子としてお生まれになりましたが、悪縁に引かれ、御運はもはや尽きてしまわれました。この世は辛く厭わしいところですから、極楽浄土という結構なところにお連れ申すのです」と言い聞かせる。天皇は小さな手を合わせ、二位尼は「波の下にも都がございます」と慰め、安徳天皇を抱いたまま壇ノ浦の急流に身を投じた。『吾妻鏡』では安徳天皇を抱いて入水したのは按察使局伊勢とされている[17][18]

神器の宝剣はこの時失われたとする説がある(宝剣に関しては異説も多くあり、それらについては「天叢雲剣」の項目を参照のこと)。原型か形代かは別にして、朝廷側が宝剣の回収に失敗したのは確定している[19]。その後、後鳥羽~土御門天皇順徳天皇時に伊勢神宮から献上されたものを正式に宝剣とした[11][20]

諡号

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文治元年(1185年)7月3日、九条兼実の発議により、諡号を贈ることが決まった[21]。文治3年(1187年)4月23日[21]、「安徳帝」と漢風諡号が贈られた[2][3]。平安中期から天皇号は贈られず、院号が用いられていたが、安徳のみには天皇号が贈られている。

系譜

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8歳で崩御したため、后妃も皇子女もいない。未婚の男性天皇は清寧天皇六条天皇に次いで3人目で、これ以降は例が無い[注釈 4]

安徳天皇の系譜
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
16.第73代 堀河天皇
 
 
 
 
 
 
 
8.第74代 鳥羽天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
17.藤原苡子
 
 
 
 
 
 
 
4.第77代 後白河天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
18.藤原公実
 
 
 
 
 
 
 
9.藤原璋子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
19.藤原光子
 
 
 
 
 
 
 
2.第80代 高倉天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
20.平知信(=28)
 
 
 
 
 
 
 
10.平時信(=14)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
5.平滋子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
22.藤原顕頼
 
 
 
 
 
 
 
11.藤原祐子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
23. 藤原忠子
 
 
 
 
 
 
 
1. 第81代 安徳天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
24.平正盛
 
 
 
 
 
 
 
12.平忠盛
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
6.平清盛
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
13. 白河院の女房
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
3.平徳子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
28. 平知信(=20)
 
 
 
 
 
 
 
14.平時信(=10)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
7.平時子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
15. 二条大宮の半物
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

系図

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77後白河天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
78二条天皇
 
以仁王
 
80高倉天皇
 
亮子内親王
(殷富門院)
 
式子内親王
 
覲子内親王
宣陽門院
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
79六条天皇
 
某王
北陸宮
 
81安徳天皇
 
守貞親王
(後高倉院)
 
82後鳥羽天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
86後堀河天皇
 
83土御門天皇
 
84順徳天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
87四条天皇
 
88後嵯峨天皇
 
85仲恭天皇
 
忠成王
(岩倉宮)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 


在位中の元号

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※平氏側では改元以降も寿永を使用している。

伝説

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安徳天皇は壇ノ浦で入水せず、平氏の残党に警護されて地方に落ち延びたとする伝説がある[3]九州四国地方を中心に全国各地に伝承地がある。

主な伝説

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→「平家の落人 § 日本全国の平家の落人伝説」も参照
東北地方
近畿地方
  • 摂津国(大阪北東部)能勢の野間郷に逃れたが、翌年崩御したとする説。
    侍従左少辨・藤原経房(つねふさ、吉田家の祖となり『吉記』を残した同時代の権大納言藤原(吉田)経房ではない)遺書によれば、戦場を脱した安徳帝と4人の侍従は「菅家の筑紫詣での帰路」と偽り、石見・伯耆・但馬の国府を経て寿永4年(源氏方年号で元暦2年、1185年)摂津国(大阪北東部)能勢の野間郷に潜幸された。しかし翌年5月17日払暁登霞(崩御)され、当地の岩崎八幡社に祀られた。経房遺書は、文化14年(1817年)能勢郡出野村の経房の子孫とされる旧家辻勘兵衛宅の屋根葺き替え時、棟木に吊るした黒変した竹筒から発見された建保5年(1217年)銘の五千文字程度の文書で、壇ノ浦から野間の郷での登霞までが詳細に書かれてある。当時、読本作者・曲亭馬琴や国学者・伴信友などは偽作と断じたが、文人・木村蒹葭堂(二代目石居)などは真物とした。経房遺書原本は明治33年頃亡失したとされるが、写本は兼葭堂本・宮内庁・内閣文庫・東京大学本などとして多く存在する。能勢野間郷の来見山(くるみやま)山頂に安徳天皇御陵墓を残す。経路であった鳥取県の岡益の石堂三朝町などにも今も陵墓参考地を残すが、これらは源氏の追及を惑わすための偽墓とされる。
中国・四国地方
  • 因幡国に逃れて10歳で崩御したとする説。
    壇ノ浦から逃れ、因幡国露ノ浦に上陸、岡益にある寺の住職の庇護を受けた。天皇一行はさらに山深い明野辺に遷って行宮を築いて隠れ住んだ。文治3年、荒船山に桜見物に赴いた帰路、大来見において安徳天皇は急病により崩御した。この時建立された安徳天皇の墓所が岡益の石堂と伝えられている。
  • 鳥取県八頭郡八頭町姫路には安徳天皇らが落ち延びたという伝説が残る。天皇に付き従った女官などのものとされる五輪塔が存在する。
  • 鳥取県東伯郡三朝町中津には安徳天皇が落ち延びたという伝説が残る。
  • 阿波国祖谷山(現在の徳島県三好市)に逃れて隠れ住み、同地で崩御したとする説。
    平国盛が祖谷を平定し、麻植郡に逃れていた安徳帝を迎えたという。天皇一行が山間を行く際に樹木が鬱蒼としていたので鉾を傾けて歩いたということに由来する「鉾伏」、谷を渡る際に栗の枝を切って橋を作ったことに由来する「栗枝渡」等、安徳天皇に由来すると伝わる地名がある。安徳帝はこの地に隠れ住み、16歳で崩御し栗枝渡八幡神社の境内で火葬されたという[22]
    徳島県剣山には、安徳天皇が天叢雲剣(草薙剣)を納めたという伝説がある[23]。神剣の奉納により太郎山から現称の「剣山」に変わり、山頂の剣神社本宮では素戔男尊と安徳天皇を祀ったという[24]
  • 土佐国高岡郡横倉山に隠れ住み、同地で崩御したとする説。
    平知盛らに奉じられ、松尾山、椿山を経て横倉山に辿り着き、同地に行在所を築いて詩歌や蹴鞠に興じ、妻帯もしたが、正治2年(1200年)8月に23歳で崩御。鞠ヶ奈路に土葬されたとされる。
九州地方
  • 現在の福岡県那珂川市に昔から安徳という地名があるが(旧・安徳村)、文献に限って言えば落人伝承としてではなく、同地安徳台は源平合戦の最中、現地の武将・原田種直が帝を迎えたところという。『平家物語』では平家は大宰府に拠点を築こうとしたものの庁舎などは戦火で消失していたため、帝の仮の行在所を「主上(帝)はそのころ岩戸少卿大蔵種直が宿処にぞましましける」と記述している。
  • 対馬に逃げ延びて宗氏の祖となったとする説。
    対馬に渡った安徳天皇が島津氏の娘との間に儲けた子が宗重尚であるという。
  • 肥前国山田郷にて出家し、43歳で死去したとする説。
    二位尼らとともに山田郷に逃れたという。安徳帝は出家し、に渡り仏法を修め、帰国後、万寿寺を開山して神子和尚となり、承久元年に没したという。
  • 薩摩国硫黄島(現在の鹿児島県三島村)に逃れたとする説[25][26]
    平資盛に警護され豊後水道を南下し、硫黄島に逃れて黒木御所を築いたとされる。同島が所在する三島村の公式サイトでは公式の村史である『三島村誌』を引用する形で、『安徳帝は資盛の娘とされる櫛笥局と結婚して子を儲け、以前に俊寛が同島へ流罪になった際に開いていた熊野神社(来真三種権現)に三種の神器とともに居住した』と紹介している。
    その後も熊野神社の神主を務めた長浜家は安徳天皇の子孫を称し、第二次世界大戦後に不敬罪が廃止されて「自称天皇」が日本各地で出現すると、島民から代々「天皇さん」と呼ばれていた熊野神社神主の長浜豊彦が注目された。
    また、長浜家では「開けずの箱」というものを所持しており、代々その箱を開くことはなかった。しかし、江戸時代末期、同島を領地としていた薩摩藩(島津氏)の使者が来島して箱を検分したが、長浜家にも中身を明かさなかった。昭和になって研究家が箱を開けると、預かりおく旨を記した紙が出てきたため中身は島津氏によって持ち去られたとされる。この箱の中には三種の神器のうち、壇ノ浦の戦いで海底に沈んだとされる天叢雲剣が入っていたのではないかという説もある。ところが、薩摩藩主である島津斉興の自筆による『虎巻根本諸作法最口伝規則』という文書(鹿児島県歴史資料センター黎明館所蔵「玉里島津家文書」所収)の中に文政10年(1827年)硫黄島で八咫鏡が発見されて斉興によって上山城内に建てられた宮に安置されたと記されていることが判明した(上山城は現在の城山であるが、現在は宮や安置された鏡の所在は不明)[27]
  • 大隅国牛根麓にて13歳で崩御したとする説。
    硫黄島から移って来た安徳天皇が同地で没し、居世神社に祀られているという。

後世の作品における逸話

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  • 天叢雲剣(草薙剣)の喪失は、朝廷(後白河法皇他)・鎌倉幕府源頼朝他)ふくめ各方面に大きな衝撃をあたえ、神剣なしに即位した後鳥羽天皇は微妙な立場に置かれた[28]。『平家物語』では、陰陽寮博士の言葉として『昔出雲國肥の河上にて素戔烏尊に切り殺され奉し大蛇、靈劍を惜む志深くして八の首(かしら)八の尾を表事(へうじ)として人王八十代の後、八歳の帝(みかど)と成て靈劍を取り返して海底に沈み給ふにこそ。』(八頭八尾の八岐大蛇は、人王八十代の安徳天皇となり、八歳の時に天叢雲剣を取り返して海底に帰っていった)と記述している[29]。なので「宝剣が見つからないのも(宝剣の所有者たる天皇の元に戻らないのも)当然だ」としている[30]。これを受けて『太平記』(第25巻)では、承久の乱以降に武家の権力が強く皇室の威光が衰えたのは宝剣が海底に沈んでいたからであるとし、天照大神が龍宮に神勅を下し、伊勢の浜に宝剣を打ち上げさせたとしている[31]。ただし反対意見により平野神社に預けられた[32]
  • 天台座主慈円は『愚管抄』において「安徳天皇は平清盛の請願により厳島明神厳島神社)が化生(けしょう)した存在だから竜王の娘であり、海の底へ帰っていったのだろう」と推測[29][33]。また「武士が表に立って天皇を守るようになったため、天皇の武力の象徴たる宝剣が天皇の元から失われるのも世の流れだ」と考察している[29][34]
  • 『平家物語』に安徳天皇は実は女帝であったのではないかという疑念を起こさせるような容姿の描写があり、『愚管抄』でも「龍王の娘」と記述している(上述)[29]。これらをもとにして、浄瑠璃・歌舞伎の『義経千本桜』などでは、女子であったという筋立てを採用している[35][36]。泉湧寺に残る安徳幼帝の肖像も女子のようにも見える。

陵・霊廟

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宮内庁管理の天皇陵

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赤間神宮
赤間神宮小門御旅所(山口県下関市伊崎町2‐11‐1 ご尊骸は中島組のいわし網に引き上げられし)

下関市伊崎町には、壇ノ浦の戦いの翌日、漁師達が網にかかった安徳天皇の遺体を引き上げて、一時的に安置したという御旅所がある。(みささぎ)は、宮内庁により山口県下関市阿弥陀寺町にある阿彌陀寺陵(あみだじのみささぎ、阿弥陀寺陵)に治定されている。宮内庁上の形式は円丘。天皇を祀る赤間神宮境内に所在する。

壇ノ浦の戦いの1年後、安徳天皇の怨霊(おんれい)を鎮めるため源頼朝の命により阿弥陀寺御影堂が建てられた[2]。御影堂(天皇殿)が安徳天皇社であり、京都方面を向いた東向きで造立された。『玉葉』によると、後鳥羽天皇の時代に長門国に安徳天皇の怨霊鎮慰のため、一堂が建立されている。阿弥陀寺は天皇怨霊鎮慰のため、まず木彫の等身大尊像が刻まれ、本殿の中心に厨子に収めて安置され、現在の本宮ご神体となる。その尊像の周囲に天皇を守護する平家一門10名の肖像が描かれ、その下段に位置する拝殿に安徳天皇の8年の生涯を8枚の障子絵に表した『安徳天皇縁起絵図』が飾られた。

明治時代廃仏毀釈運動により、阿弥陀寺は廃されて、現在の安徳天皇を祀る赤間神宮となった。新たな社殿造営のため、御影堂解体が行われた際に、本殿床下に五輪塔の存在が確認されたことにより、数十箇所の陵墓の伝承地の中から、阿弥陀寺に隣接するものが陵墓とされた(赤間神宮社務所発行『源平合戦絵図』「阿弥陀寺御影堂について」1985年)。赤間神宮は安徳天皇や二位尼が竜宮城にいたという建礼門院の見た夢[37]にちなみ、竜宮城を再現した竜宮造りとなっている。

のちに安徳天皇は、久留米水天宮福岡県久留米市)の祭神とされて、水の神、安産の神として各地の水天宮に祀られるようになった。また皇居では、皇霊殿宮中三殿の一つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。

宮内庁指定の陵墓参考地

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安徳天皇西市陵墓参考地(山口県下関市豊田町)下関駅から車で1時間半
安徳天皇越智陵墓参考地(鞠ヶ奈呂陵墓)(高知県高岡郡越知町)
  • 山口県下関市豊田町には宮内庁指定の「安徳天皇西市御陵墓参考地(王居止御陵)」がある[38]。木屋川ダムのかさ上げに伴い、洪水時に約8割が水没する見通し[39]
  • 鳥取県鳥取市国府町岡益にある「岡益の石堂」は宮内庁によって安徳天皇の陵墓参考地に指定されている。[40][41]
  • 高知県高岡郡越知町横倉山には、安徳天皇御陵墓参考地「鞠ケ奈呂陵墓」があり、平知盛の一族が安徳天皇を奉じて潜伏した際に暮らしたと伝わる行在所跡や、天皇の飲用水として用いたといわれる安徳水などがある。
  • 長崎県対馬の厳原町久根田舎には、安徳天皇の墓と言われる陵墓があり宮内庁指定の御陵墓参考地となっている。
  • 熊本県宇土市立岡町には宮内庁指定の「花園陵墓参考地」がある。[42]

伝・安徳天皇陵

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関連作品

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テレビドラマ
小説
アニメ
漫画

画像集

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  • 天皇山(青森県つがる市木造越水)
    天皇山(青森県つがる市木造越水)
  • 安徳陵(鳥取県東伯郡三朝町中津)
    安徳陵(鳥取県東伯郡三朝町中津)
  • 上岡田五輪塔群(鳥取県八頭郡八頭町姫路12安徳の里姫路公園)
    上岡田五輪塔群(鳥取県八頭郡八頭町姫路12安徳の里姫路公園)
  • 六萬寺 (香川県高松市)全景 屋島に遷幸する前の行在所
    六萬寺 (香川県高松市)全景 屋島に遷幸する前の行在所
  • 安徳天皇社(香川県高松市屋島東町668)浩宮徳仁親王殿下御成所碑有り
    安徳天皇社(香川県高松市屋島東町668)浩宮徳仁親王殿下御成所碑有り
  • 柳の御所・御所神社(福岡県北九州市門司区大里戸ノ上1丁目11)
    柳の御所・御所神社(福岡県北九州市門司区大里戸ノ上1丁目11)
  • 安徳宮(福岡県那珂川市大字安徳36)
    安徳宮(福岡県那珂川市大字安徳36)
  • 大君神社石祠(福岡県遠賀郡芦屋町山鹿33)
    大君神社石祠(福岡県遠賀郡芦屋町山鹿33)
  • 安徳天の石碑(長崎県諫早市小川町)
    安徳天の石碑(長崎県諫早市小川町)
  • 居世神社(鹿児島県垂水市牛根麓591)
    居世神社(鹿児島県垂水市牛根麓591)
  • 安徳天皇陵(みささぎ)(鹿児島県垂水市牛根麓208)
    安徳天皇陵(みささぎ)(鹿児島県垂水市牛根麓208)

脚注

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[脚注の使い方]
注釈
  1. ^弘文天皇(大友皇子)も壬申の乱で落命しているが、明治時代に追号されるまで歴代天皇に数えられず実際に即位したかどうか不明であり、即位が明確な天皇としては安徳天皇のみが該当する。
  2. ^八十一安德。三年。 諱トキ仁。治承四年二月廿一日受禪。。同二年十二月日立坊。高倉院長子。母中宮徳子。入道太政大臣清盛女。 攝政基通。内大臣平宗盛。 養和一年。元年辛丑。七月十四日改元。壽永二年。元年。壬寅五月廿七日改元。此時遷都ノ事有ケリ。委在別帖。此天皇ハコノ壽永二年七月廿五日ニ、外祖ノ清盛入道殿反逆ノ後。外舅内大臣宗盛。源氏ノ武士東國北陸等攻上リシカバ。城ヲ落テ西國ヘ具シマイラセテ後。終ニ元暦二年三月廿四日ニ。長門國文字ノ關壇ノ浦ニテ。海ニ入テ失サセ給ヒンケリ。七歳。寶劒ハ沈ミテ失ヌ。神璽ハ筥浮テ返リマイリヌ。又内侍所ハ時忠取テ参リニケリ。此不思議ドモ細在別帖。』
  3. ^香川県高松市屋島東町にある安徳天皇社。『史蹟名勝天然記念物調査報告』によれば、古くは壇の浦神社とも言ったという。
  4. ^仲恭天皇は4歳で即位し、間もなく廃位されたため在位時には后妃が存在しない。
  5. ^『(略)之より尾根傳ひにて二ノ森、三ノ森ヲ經て絶頂に達する、絶頂は平家の馬場と稱され長さ五町ばかりの大草原をなし小笹が密生し周圍には五葉松、白花米ツツジ等の高山植物がある、又傍に安徳天皇の御劒を納めたと傳へられる寶藏石(石灰岩)がある、山上は雲霧の去來するのが常であるが天氣晴朗なれば廣潤なる眺望を恣にする事が出來る、殊に阿讃山脈を越えて瀬戸内海一帯の島山が望見せられるのは最も興味がある 頂上より西北へ五町を下れば大劒神社がある大劒は美くしい石灰岩の突起で谷に面しては高き斷崖をなしてゐる、此處より山腹を斜行すること五、六町で道は二分し木ノ鳥居と狛犬とが置かれてゐる、是より北に下れば見殘に達する、東へ進む事數町で石灰岩の大斷崖下に古劒神社があり更に一町にして兩劒神社がある(以下略)』
  6. ^『△信仰の劒山 劍山の信仰は諸國の名山と同じく山岳崇拝に始つたものと思はれるが、安徳天皇が御劍を此山に納めたので、元は太郎山と言ふたのをそれより劒山と改めたと言はれる、劒山に祀れる神佛は富士ノ池では郷社劍神社(劒山本宮)と龍光寺富士ノ池本坊(劍山大權現)とがあり、見殘には郷社劍神社の前堂と圓福寺とがあり劍神社には山上にあり通稱大劍神社と言はれる、劍山本宮は素戔男命及び安徳天皇を祀り末社は古劍神社以下山中の要所々々に祀られてゐる、社殿は敢えて宏壮ではないが享保の頃藩主蜂須賀綱都矩公の造營せられたもので二〇〇年を經たる古建築である(以下略)』
  7. ^『千尋の海の底、神龍の寶と成りしかば二度(ふたヽび)人間に返らざるも理(ことわり)とこそ覺えけれ。』
  8. ^『其後此主上ヲバ安徳天皇トツケ申タリ。海ニ沈マセ給ヒヌルコトハ。コノ王ヲ平相國祈リ出シマイラスル事ハ。安藝ノ嚴島ノ明神ノ利生也。コノ嚴島ト云フハ龍王ノムスメ也ト申傳ヘタリ。コノ御神ノ心ザシフカキニコタヘテ我身ノコノ王ト成テムマレタリケル也。サテハテニハ海ヘ歸リヌル也トゾコノ子細シリタル人ハ申ケル。コノ事ハ誠ナラント覺ユ。』
  9. ^『知盛|今、賎しき御身の上、人間の憂き艱難、目前に六道の苦しみを受け給ふ。これと云ふも、父、清盛、外戚の望みあるに依つて、姫宮を男の子と云ひふらし、權威をもつて御位につて、天道を欺き申せし其の惡逆。積り積りて、一門我が子の身に報ひしか』
出典
  1. ^安徳天皇』 -コトバンク
  2. ^abcdefghijk歴代天皇総覧200-202頁『第八十一代 安徳天皇 一一七八~一一八五(在位一一八〇~一一八五)』
  3. ^abcd名前で読む天皇歴史207-208頁『八一代安徳天皇【あんとくてんのう】在位 治承四(一一八〇)-承永四(一一八五)年』
  4. ^【夫婦の日本史(44)】高倉天皇と建礼門院徳子(1/2ページ)”. 産経ニュース (2014年2月5日). 2020年10月7日閲覧。
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  8. ^奪われた三種神器22-24頁『都落ちする平氏―神器の行方』
  9. ^奪われた三種神器31-32頁『「如在之儀」と「太上法皇詔書」』
  10. ^伊勢神宮と三種神器281頁『神器なきままの新帝即位』
  11. ^ab稲田、三種神器198頁『宝剣の補充』
  12. ^歴代天皇総覧205-206頁『第八十二代 後鳥羽天皇 一一八〇~一二三九(在位一一八三~一一九八)』
  13. ^香川県史蹟名勝天然記念物調査会 編『史蹟名勝天然記念物調査報告』 7巻、香川県、1936年3月、5-16頁。 
  14. ^安徳天皇御行在所 六萬寺”. 2022年4月16日閲覧。
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  19. ^奪われた三種神器37-38頁『「国家的プロジェクト」としての宝剣探索』
  20. ^奪われた三種神器40-42頁『宝剣代の創出』
  21. ^ab森鴎外 1919, p. 188.
  22. ^『美馬郡誌』
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  27. ^鈴木彰「硫黄島の安徳天皇伝承と薩摩藩・島津斉興-文政十年の「宝鏡」召し上げをめぐって-」井上泰至『近世日本の歴史叙述と対外意識』勉誠出版、2016年7月ISBN 978-4-585-22152-4 P85-113
  28. ^奪われた三種神器43-45頁『神器不帯というコンプレックス』
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  30. ^#宝文舘、平家コマ307-308(原本457-458頁)[注釈 7]
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  33. ^国史大系14巻コマ274(原本532-533頁)〔安徳―後鳥羽〕[注釈 8]
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  36. ^#日本戯曲名作大系1巻コマ74(原本34頁)〔渡海屋の場、大物浦の場〕より[注釈 9]
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  38. ^安徳天皇西市御陵墓(参考地)”. 山口県観光サイト. 2025年3月1日閲覧。
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  41. ^民話・神話 平家伝説”. 鳥取県. 2025年3月2日閲覧。
  42. ^花園陵墓参考地”. 宇土市. 2025年3月2日閲覧。
  43. ^安徳天皇陵(陰徳庵)”. 北九州市情報発信強化委員会 (2013年12月20日). 2025年3月1日閲覧。
  44. ^隠蓑 伝 安徳帝 陵”. 北九州市 時と風の博物館 (2019年7月12日). 2025年3月1日閲覧。
  45. ^硫黄島について”. 鹿児島県三島村. 2025年3月1日閲覧。

参考文献

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  • 稲田智宏『三種の神器 謎めく天皇家の秘法』株式会社学習研究社〈学研新書〉、2007年6月。ISBN 978-4-05-403469-3 
  • 笠原英彦『歴代天皇総覧 皇位はどう継承されたか』中央公論新社〈中公新書〉、2001年11月。ISBN 4-12-101617-3 
  • 新谷尚紀「第三章 三種の神器と神宮神宝―神話と歴史の解読」『伊勢神宮と三種の神器 古代日本の祭祀と天皇』講談社〈講談社選書メチエ〉、2013年11月。ISBN 978-4-06-258565-1 
  • 遠山美都男『名前でよむ天皇の歴史』朝日新聞出版〈朝日新書〉、2015年1月。ISBN 978-4-02-273597-3 
  • 松永伍一『平家伝説』中公新書、1973年
  • 森鷗外、宮内省図書寮『帝諡考』宮内省図書寮、1919年https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1185521 
  • 渡辺保『千本桜 : 花のない神話』東京書籍、1990年。ISBN 4-48-775236-1 
  • 渡邉大門「第一章 宝剣喪失鎌倉期における三種神器」『奪われた「三種の神器」 皇位継承の中世史』講談社〈講談社現代新書〉、2009年11月。ISBN 978-4-06-288022-0 

関連項目

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外部リンク

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  • 前の数字は代数。南朝を正統とする。
  • 名前の赤背景女性天皇
  • 第37代斉明天皇は第35代皇極天皇の、第48代称徳天皇は第46代孝謙天皇の重祚
  • 後の数字は在位年。なお、江戸時代以前は日付までを考慮した厳密な和暦からの換算は行なっていない。
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