| 宇都宮 徳馬 うつのみや とくま | |
|---|---|
| 生年月日 | 1906年9月24日 |
| 出生地 | 東京府 |
| 没年月日 | (2000-07-01)2000年7月1日(93歳没) |
| 出身校 | 京都帝国大学(現京都大学)中退 |
| 所属政党 | (日本共産党→) (無所属→) (自由党→) (自由民主党→) (無所属→) (新自由クラブ→) 無所属 |
| 称号 | 正三位 勲一等旭日大綬章 勲一等瑞宝章 |
| 親族 | 父・宇都宮太郎 岳父・駒井徳三 長男・宇都宮恭三(ミノファーゲン製薬前社長) 孫・宇都宮徳一郎(ミノファーゲン製薬社長) |
| 選挙区 | (東京地方区→) 比例区 |
| 当選回数 | 2回 |
| 在任期間 | 1980年6月23日 -1992年7月7日 |
| 選挙区 | 旧東京2区 |
| 当選回数 | 10回 |
| 在任期間 | 1952年10月2日 -1976年10月28日 1976年12月5日 -1979年9月7日 |
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宇都宮 徳馬(宇都宮 德馬[1]、うつのみや とくま、1906年〈明治39年〉9月24日 -2000年〈平成12年〉7月1日[2])は、日本の政治家、実業家。位階は正三位、勲等は勲一等。
ミノファーゲン製薬創設者。板垣退助先生顕彰会創立発起人兼顧問[3]。月刊誌『軍縮問題資料』創刊者。
参議院議員(2期)、衆議院議員(10期)、日中友好協会会長・名誉会長、日本北アフリカ協会会長。
東京府に生まれる。父は陸軍大将、朝鮮軍司令官を務めた宇都宮太郎。父の意志で旧制府立第一中学を経て東京陸軍幼年学校(25期)[4]に入学するが中退し、旧制水戸高等学校に入学。水戸高校時代はマルクス主義に傾倒し、1928年には水田とともに東京帝国大学ではなく、学生連合会の要請で京都帝国大学(経済学部)を志望校に選んだ[5]。河上肇に師事し[6]、社会科学研究会に参加した。同年、日本共産党の一斉検挙(三・一五事件)が起き、宇都宮は事件後の同会でリーダーを務め、水田三喜男をボディガードにする[7]。しかし、論文が不敬罪に問われ検挙され、京大を退学した。高校生時代から親しかった田中清玄の誘いで日本共産党に入党するが[8]、1930年に治安維持法違反で逮捕され、投獄。その後約1年間にわたり獄中生活を送る。
獄中で転向を表明、釈放。その後、株式相場で満洲事変に関係した軍需企業の株式に投資し、大金を得る。これを資金に1938年、医家向けの製薬会社、合資会社ミノファーゲン製薬本舗を設立し、同社社長に就任。命名は岳父の駒井徳三だとされる[9]。また会社経営の傍ら、「高杉俊輔」のペンネームで読売新聞経済欄に寄稿し、軍部や革新官僚に対する批判を行った。
1952年の第25回衆議院議員総選挙に自由党公認で旧東京2区から立候補し、初当選した[10](当選同期に福田赳夫・大平正芳・黒金泰美・内田常雄・丹羽喬四郎・灘尾弘吉・植木庚子郎・加藤精三・山崎巌・今松治郎・重政誠之・町村金五・古井喜実など)。
1955年の保守合同により、自由民主党結党に参加。宇都宮は石橋湛山や三木武夫らの系譜に連なり、外交面で平和共存外交、日ソ・日中・日朝国交回復を主張した。
1965年1月、岸信介らアメリカ寄りの外交路線を唱える自民党保守派に対抗し、議員連盟「アジア・アフリカ問題研究会」(AA研)を、藤山愛一郎、松村謙三、川崎秀二、田川誠一、久野忠治、田村元らとともに結成した[11]。日中国交回復、韓国の民主化や非同盟諸国との協力を進めた。このように自民党の中では異色の存在であり、最リベラル派に位置していた。またアルジェリア戦争に際してアルジェリア民族解放戦線(FLN)を援助し[12]、1959年9月にはアルジェリアの戦場を視察した。1963年11月には、アルジェリアの独立式典に参加しており、また、1967年11月には、革命記念式典にも参加し、当時のブーメディエン大統領と会談している[13]。
自民党内では石橋湛山の引退後、最リベラル派の宇都宮は保守派から疎まれ、入閣も阻まれる等、党内で孤立していく。
1975年1月23日、新聞報道により、三木武夫首相が宇都宮に同年4月の東京都知事選挙に出馬要請する意向を固めたことが明らかとなった[14]。同年1月29日、宇都宮は国会内で三木と会い、「私には国会議員としての責任と執着がある」として立候補の意向がないことを伝えた[15]。代わって同じ旧東京2区選出の石原慎太郎が衆議院議員を辞職して立候補したが落選した。
1976年、ロッキード事件や金大中事件への日本政府の対応や三木おろしに抗議し、自民党を離党。さらに同年10月28日、衆議院議員も辞職した[16]。
同年12月5日の第34回衆議院議員総選挙に無所属で旧東京2区から立候補し、当選。同年12月30日、同じく無所属の鳩山邦夫、麻生良方と共に会派「無党派クラブ」を結成し[17]、代表に就任(1978年に解散)。
1979年の第35回衆議院議員総選挙では落選した。
1980年春の叙勲で勲一等に叙され、瑞宝章を受章する[18][19]。同年6月の第12回参議院議員通常選挙に東京地方区から無所属(新自由クラブ・社会民主連合推薦)で立候補し、当選。この立候補は、民社党が擁立した栗栖弘臣が有事法制の制定を公約に掲げたことに危機感を募らせたためであった。同年、宇都宮軍縮研究室を設立し、月刊誌「軍縮問題資料」を創刊するとともに、超党派の議員連盟「国際軍縮促進議員連盟」の創設に尽力し、国際的な軍縮・平和促進のための政治活動を進めた。なお、創刊した月刊誌「軍縮問題資料」については、毎月全国紙の一面下欄に広告が載り、存命中はもとより死去後も遺族が発行を継続した。
1983年の第13回参議院議員通常選挙では、田英夫や八代英太らを中心に結成されたMPD・平和と民主運動の推薦人となった。1986年、第14回参議院議員通常選挙に際し山本コウタロー、國弘正雄、片岡勝らが平和運動を主体にした政党「ピース・スタジオ」を立ち上げ、宇都宮を比例代表名簿1位に据えての立候補を企図したが、立候補を断念。その後、小杉隆の説得に応じて新自由クラブの比例代表名簿1位に登載され、比例区で当選する。新自由クラブ解党後は無所属のまま、田川誠一が代表を務める進歩党に間接的に協力した。
1987年11月の秋の叙勲で旭日大綬章を受章する[1][20]。1992年の第16回参議院議員通常選挙には立候補せず、政界を引退した。1997年には、それまで合資会社だったミノファーゲン製薬を株式会社に改組する。
2000年7月1日、肺炎のため死去した。93歳没。死没日付をもって正三位に叙された[21][22]。生前、平和外交、リベラリストとしての長年にわたる政治活動、日中国交回復、日中友好関係の促進、韓国の野党政治家金大中(後の大韓民国第15代大統領)を支援したことなどから、元首相の中曽根康弘、元衆議院議長の河野洋平、元日本社会党委員長の土井たか子、中国、韓国を始めとする各国から政治家や政府関係者が葬儀に参列した。また、アルジェリアとの友好関係に尽力し、幾度もアルジェリアの国賓として遇された宇都宮の逝去は、アルジェリアでも大々的に報道された[23]。
| 議会 | ||
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| 先代 笹山茂太郎 | 1972年 - 1973年 | 次代 臼井荘一 |
| 先代 大森玉木 | 1958年 - 1959年 | 次代 山口好一 |
| その他の役職 | ||
| 先代 黒田寿男 | 日本中国友好協会会長 1980年 - 1992年 | 次代 平山郁夫 |
| 第1回 (定数8) |
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| ↓:途中辞職、失職、在職中死去など、↑:補欠選挙で当選。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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| ↓:途中辞職・在職中死去など、▼:除名、↑:繰上げ当選、x:繰上げなし | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||