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奥平昌猷

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(2019年8月)
 
奥平昌猷
奥平昌猷像(自性寺蔵)
時代江戸時代後期
生誕文化10年3月25日1813年4月25日
死没天保13年9月17日1842年10月20日
改名勇吉・九八郎(幼名)、昌猷
戒名潜竜院殿大淵道珍大居士
墓所大分県中津市新魚町の自性寺
官位従四位下大膳大夫
幕府江戸幕府
主君徳川家斉家慶
豊前中津藩
氏族奥平氏
父母父:奥平昌高、母:奥平昌暢
兄弟軽姫、富之進、昌暢、得之助、圭太郎、昌猷加藤泰理室、永井尚典室、生駒親愛、鉄姫、成瀬正住室、稲葉幾通室、池田慶政、金之助、生駒親道島津忠寛室、青木一咸牧野忠直、フチ、隼之丞、菅沼新八郎室、銈姫、内藤頼愛室、操姫、鍼姫
松平忠国正室、養子:昌服
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奥平 昌猷(おくだいら まさみち)は、豊前国中津藩7代藩主。中津藩奥平家11代。

略歴

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文化10年(1813年)3月25日、第5代藩主・奥平昌高の五男として中津で生まれる。天保3年(1832年)11月に兄で第6代藩主の昌暢が死去したため、天保4年(1833年)1月29日に養子として家督を継いだ。直後の11月に百姓一揆が起こるなどしている。

このため、天保6年(1835年)に黒沢庄右衛門を登用して藩政改革を行い、専売の強化を行うなどしている。天保9年(1838年)12月16日に従四位下・大膳大夫に叙位・任官する。天保12年(1841年)に家臣の半知借上を行った。

兄・昌暢と同じく父に先立って天保13年(1842年)9月17日に中津で死去した。享年30。跡を昌暢の遺児で養子の昌服が継いだ。

系譜

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奥平家中津藩7代藩主 (1833年 - 1842年)
細川家
  • 細川忠興1600-1602
  • 陣屋を小倉に移し、一旦廃藩。
小笠原家
奥平家
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