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太寿山忠明

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
太寿山 忠明
基礎情報
四股名坂爪 忠明 → 大寿山 忠晴 → 大寿山 忠明 → 太寿山 忠明
本名坂爪 忠明
愛称ムーミン[2]
生年月日 (1959-04-08)1959年4月8日(66歳)[1]
出身新潟県新津市(現:新潟市秋葉区[1]
身長183cm
体重161kg
BMI48.08
所属部屋二子山部屋
得意技右四つ、上手投げ、うっちゃり
成績
現在の番付引退
最高位西関脇
生涯戦歴585勝618敗28休(97場所)
幕内戦歴431勝501敗28休(64場所)
殊勲賞1回
敢闘賞3回
データ
初土俵1975年3月場所[1]
入幕1980年9月場所[1]
引退1991年5月場所[1]
引退後年寄・花籠
他の活動日本相撲協会理事(2期)
2020年3月 - 2024年3月
日本相撲協会副理事(1期)
2018年3月 - 2020年3月
備考
金星7個(北の湖4個、千代の富士3個)
2024年3月25日現在

太寿山 忠明(だいじゅやま ただあき、1959年4月8日 - )は、新潟県新津市(現役当時、現・同県新潟市秋葉区)出身で二子山部屋に所属した元大相撲力士。本名は坂爪 忠明(さかづめ ただあき)。身長183cm、体重161kg。得意手は右四つ、上手投げうっちゃり。現役時代のあだ名は「ムーミン」。現在は年寄花籠。最高位は西関脇(1981年11月場所、1982年11月場所、1989年1月場所)[1]

来歴・人物

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入門前は柔道で初段の腕前を持ち、新津市立新津第二中学校時代は卓球のエースであった。父親の仕事の上司の知り合いの知り合いが二子山親方(元横綱・若乃花)という関係で二子山部屋にスカウトされ、 本人にその気はなかったが勉強嫌いであったためについつい承諾した。当時から太っていたため「相撲はデブでもできるスポーツ」と安心して角界に進んだという話もある。

1975年(昭和50年)3月場所にて、15歳で初土俵を踏んだ。初土俵の同期生には同部屋で、後に大関となる若嶋津(当初の四股名は「日高」)[1]井筒部屋(入門当時は君ヶ濱部屋)からやはり大関に昇進した霧島らがいる。

右四つ得意で腰が重く、若島津(当時)と昇進を競い出世は早く、1980年(昭和55年)1月場所での新十両昇進、同年9月場所での新入幕ともに若島津より先行。1981年(昭和56年)3月場所にて10勝5敗の好成績を収めてから3場所連続で勝ち越して迎えた同年9月場所では西前頭筆頭にて中日に北の湖突き落としで破り初金星を上げ優勝争いに加わり、10勝5敗の好成績で敢闘賞を受賞。翌11月場所には新関脇に昇進と順調に出世。1982年(昭和57年)5月場所では東前頭8枚目まで番付を下げるも11勝4敗の好成績を収め、同年9月場所では東前頭筆頭にて初日北の湖を高々と吊り上げて勝利し翌2日目には千代の富士上手出し投げで破るなど2日連続で金星をあげ初日から6連勝を飾り10勝5敗の好成績で殊勲賞を獲得し翌場所関脇に昇進するなど、新進気鋭の時期には大物喰いぶりを発揮し大いに将来を嘱望された存在であった。特に北の湖に強く(対戦成績は5勝6敗とほぼ互角)キラーぶりを発揮するも相撲が遅いという弱点から、三役ではほとんど勝ち越すことはできなかった。平幕での張出(張出前頭)の最後の適用例になった力士でもある。両手を下ろす綺麗な立合いで、模範とされた[1]

1983年(昭和58年)3月場所にて休場して以降は、時に金星を挙げたりするものの勝ち越す場所も少なくなっていった。しかし、1988年(昭和63年)1月場所では東前頭13枚目の位置で10勝5敗と久々の二桁勝利を挙げ、翌3月場所でも東前頭5枚目の地位で9勝6敗と勝ち越した。5年2ヶ月ぶりに三役に返り咲いた同年5月場所では、西小結の地位で1横綱2大関を破る活躍を見せて8勝7敗と勝ち越し、5年8ヶ月ぶりの三賞となる2回目の敢闘賞を受賞した。1989年(平成元年)1月場所では、6年2ヶ月ぶりの関脇への復帰も果たした。故障が少なく、体にバンデージなどを貼っていたことはほとんどなかった。

1991年(平成3年)5月場所初日に、幕内在位連続10年以上(連続在位62場所)として巨砲と共に理事長特別表彰を受けた。同場所では、西前頭14枚目で3勝12敗と大きく負け越し、場所後の十両陥落が決定的となったため千秋楽に現役引退を表明した。

引退後は、年寄・花籠を襲名。1992年(平成4年)、二子山部屋から分家独立し、花籠部屋を創設した。直弟子からは幕内・光龍を育てた[3]2012年5月場所終了後、経営上の理由から部屋を閉鎖し、峰崎部屋に移籍[4]2021年に峰崎部屋が閉鎖になったため、高田川部屋に再移籍した[5]

日本相撲協会内の職務では2008年(平成20年)3月場所より審判委員を務めていたが、弟子の光龍大相撲八百長問題に関与した監督責任で2011年(平成23年)4月に主任へ降格したため審判を退任した。2012年(平成24年)4月に降格処分を解かれて委員に復帰し、2013年(平成25年)2月からは九州場所担当となった。2014年(平成26年)の役員改選では、選挙管理委員長を務めた[6]

2020年(令和2年)1月30日の日本相撲協会役員候補選では理事に立候補したが、定員を超過しなかったため、2008年以来6期12年ぶりに無投票となった。このため、花籠を含めた理事候補10人、副理事候補3人が全員当選[7]。同年3月23日の評議員会で正式に理事として初選任された[8]。25日に発表された職務分掌では伊勢ヶ濱と共に審判部長(自身は編成担当)となり[9]相撲教習所長も兼任[10]している。

65歳の停年を迎える前の最後の場所となった2024年(令和6年)3月場所中、停年会見が開かれた。入門からの50年を「あっという間の50年でした。関取にもなれたし、部屋を持つこともできた。いろんな50年だったと思います」と振り返り「デビューした昭和50年の春場所で北の湖さんが優勝決定戦貴ノ花さんと対戦した。こんな横綱といつか対戦したい。勝ってみたいという気持ちがあったので、初めて北の湖さんに勝った時は本当にうれしかった」と思い出を語った[11]。停年後も再雇用で協会に残っている。

エピソード

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  • 朴訥とした風貌から、現役時代には「ムーミン」というあだ名で呼ばれていた。
  • 幼少のころから柔道を習い、小学校5年で初段を取得したが、その反面走ることが遅い上体格が大きくて目立つため、学校の運動会が近づくと「運動会のない国に行きたい」と思っていたという。
  • 愛車は2代目メルセデス・ベンツMクラス
  • 北の湖には不戦勝1つを含むが5勝6敗で金星4つと滅法強かったが、大関相手になるとなぜか苦戦していた。
  • 大食漢で知られ、若嶋津と焼肉店に出かけた際に、太寿山は焼肉16人前を難なく平らげてしまった。体重を増やすことに苦労していた若嶋津は、これに対抗して焼肉12人前と丼飯3杯・冷麺1杯・アイスクリームを食べたものの、店を出た途端に堪え切れずに全て吐いてしまったという。
  • 蔵前国技館最後の優勝力士多賀竜には同じ右四つ得意ながら相性が良く、18勝1敗とワンサイドの結果だった。

主な戦績

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場所別成績

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太寿山 忠明
一月場所
初場所(東京
三月場所
春場所(大阪
五月場所
夏場所(東京)
七月場所
名古屋場所(愛知
九月場所
秋場所(東京)
十一月場所
九州場所(福岡
1975年
(昭和50年)
x(前相撲)西序ノ口10枚目
5–2 
西序二段65枚目
4–3 
東序二段49枚目
4–3 
東序二段31枚目
4–3 
1976年
(昭和51年)
西序二段14枚目
2–5 
西序二段35枚目
4–3 
西序二段9枚目
4–3 
西三段目84枚目
2–5 
西序二段20枚目
4–3 
東序二段3枚目
4–3 
1977年
(昭和52年)
西三段目71枚目
5–2 
東三段目36枚目
5–2 
西三段目3枚目
2–5 
西三段目25枚目
4–3 
西三段目13枚目
3–4 
西三段目23枚目
5–2 
1978年
(昭和53年)
西幕下60枚目
4–3 
東幕下47枚目
3–4 
東幕下58枚目
3–4 
東三段目8枚目
6–1 
東幕下37枚目
3–4 
西幕下47枚目
5–2 
1979年
(昭和54年)
東幕下28枚目
2–5 
西幕下48枚目
6–1 
東幕下21枚目
4–3 
東幕下15枚目
5–2 
西幕下6枚目
4–3 
西幕下4枚目
5–2 
1980年
(昭和55年)
西十両11枚目
9–6 
東十両8枚目
9–6 
西十両3枚目
8–7 
東十両筆頭
9–6 
東前頭13枚目
8–7 
西前頭6枚目
4–11 
1981年
(昭和56年)
東十両筆頭
8–7 
西前頭13枚目
10–5 
東前頭6枚目
8–7 
西前頭3枚目
8–7 
西前頭筆頭
10–5
西関脇
5–10 
1982年
(昭和57年)
西前頭3枚目
6–9 
西前頭5枚目
9–6 
東前頭筆頭
5–10
東前頭8枚目
11–4 
東前頭筆頭
10–5
西関脇
4–11 
1983年
(昭和58年)
東前頭5枚目
9–6 
東小結
0–2–13[13] 
東前頭9枚目
休場
0–0–15
東張出前頭9枚目
9–6[14] 
東前頭3枚目
4–11 
西前頭10枚目
10–5 
1984年
(昭和59年)
西前頭筆頭
6–9
東前頭3枚目
4–11
西前頭10枚目
9–6 
東前頭4枚目
9–6
東前頭筆頭
4–11 
東前頭9枚目
8–7 
1985年
(昭和60年)
東前頭5枚目
6–9 
東前頭9枚目
8–7 
西前頭5枚目
6–9 
東前頭9枚目
8–7 
西前頭3枚目
5–10 
西前頭11枚目
8–7 
1986年
(昭和61年)
西前頭6枚目
8–7 
西前頭2枚目
5–10 
西前頭7枚目
9–6 
東前頭2枚目
5–10 
西前頭7枚目
8–7 
東前頭2枚目
5–10 
1987年
(昭和62年)
東前頭8枚目
8–7 
西前頭2枚目
5–10 
西前頭6枚目
8–7 
東前頭筆頭
4–11 
西前頭7枚目
8–7 
西前頭筆頭
3–12 
1988年
(昭和63年)
東前頭13枚目
10–5 
東前頭5枚目
9–6 
西小結
8–7
西小結
3–12 
東前頭7枚目
10–5 
東前頭2枚目
9–6 
1989年
(平成元年)
西関脇
4–11 
東前頭4枚目
8–7 
東前頭筆頭
4–11 
西前頭8枚目
11–4
東小結
5–10 
東前頭4枚目
6–9 
1990年
(平成2年)
西前頭7枚目
8–7 
東前頭4枚目
4–11 
西前頭9枚目
9–6 
東前頭4枚目
5–10 
西前頭11枚目
8–7 
東前頭7枚目
6–9 
1991年
(平成3年)
西前頭11枚目
8–7 
東前頭8枚目
6–9 
西前頭14枚目
引退
3–12–0
xxx
各欄の数字は、「勝ち-負け-休場」を示す。    優勝 引退 休場 十両 幕下
三賞=敢闘賞、=殊勲賞、=技能賞     その他:=金星
番付階級幕内 -十両 -幕下 -三段目 -序二段 -序ノ口
幕内序列横綱 -大関 -関脇 -小結 -前頭(「#数字」は各位内の序列)

幕内対戦成績

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力士名勝数負数力士名勝数負数力士名勝数負数力士名勝数負数
青葉城48青葉山21安芸ノ島6101
朝潮320旭里10旭富士416天ノ山71
荒勢11板井1511岩波02恵那櫻54
大潮23巨砲1214大錦107大乃国414
大豊33小城ノ花13魁輝107春日富士32
北勝鬨01北の湖5(1)6騏乃嵐44旭豪山11
旭道山44霧島813起利錦75麒麟児59
久島海23蔵間1116黒瀬川21黒姫山20
高望山106港龍21琴稲妻53琴ヶ梅711
琴千歳11琴椿12琴錦21琴の若10
琴富士43小錦215斉須21蔵玉錦12
逆鉾518佐田の海1113(1)薩洲洋46嗣子鵬41
陣岳1511神幸10大翔山10大徹77
貴闘力02孝乃富士86貴花田02高見山47
多賀竜181玉ノ富士02玉龍84竹葉山10
千代の富士321常の山10寺尾711出羽の花115
闘竜98栃赤城34栃司63栃剣85
栃乃和歌45栃光66栃纒11巴富士01
豊ノ海25南海龍21蜂矢01花乃湖57
花ノ国47播竜山11富士櫻53藤ノ川35
富士乃真5(1)2双羽黒32鳳凰92北天佑722
北勝海213前乃臻43舛田山57益荒雄52
三杉磯45水戸泉8(1)8豊山20龍興山10
両国32若瀬川64若花田01若の富士4(1)1
鷲羽山32
※カッコ内は勝数、負数の中に占める不戦勝、不戦敗の数。

改名歴

[編集]
  • 1975年(昭和50年)5月場所-1976年(昭和51年)11月場所…坂爪 忠明(さかづめ ただあき)
  • 1977年(昭和52年)1月場所-1984年(昭和59年)1月場所…大寿山 忠晴(だいじゅやま ただはる)
  • 1984年(昭和59年)3月場所-同年7月場所…大寿山 忠明(だいじゅやま ただあき)
  • 1984年(昭和59年)9月場所-1991年(平成3年)5月場所(引退)…太寿山 忠明(だいじゅやま ただあき)

脚注

[編集]
  1. ^abcdefghijベースボールマガジン社『大相撲名門列伝シリーズ(2) 二所ノ関部屋』p25
  2. ^角界「異名」列伝 ウルフの時代 時事ドットコム
  3. ^ベースボールマガジン社『大相撲名門列伝シリーズ(2) 二所ノ関部屋』p41
  4. ^花籠部屋が経営難で閉鎖へ 力士ら峰崎部屋へ移籍日本経済新聞2012年4月11日付
  5. ^峰崎部屋閉鎖を承認 力士全5人は芝田山部屋に転属」『日刊スポーツ』2021年4月1日。2021年4月1日閲覧。
  6. ^日本相撲協会、理事候補選挙を公示 2014年1月18日21時54分 スポーツ報知
  7. ^12年ぶり無投票で理事決定 相撲協会の役員候補選 日刊スポーツ 2020年1月30日12時18分(2020年1月30日閲覧)
  8. ^親方の理事10人選任 日本相撲協会評議員会」『産経新聞』2020年3月23日。2020年3月23日閲覧。
  9. ^伊勢ケ浜親方は審判部長 相撲協会 JIJI.COM 2020年03月25日19時48分(2020年3月29日閲覧)
  10. ^職務分掌 日本相撲協会公式サイト (2020年3月29日閲覧)
  11. ^花籠親方が定年会見 現役時代を振り返り「北の湖さんに勝った時は本当にうれしかった」 2024年3月21日 14時46分スポーツ報知 (2024年3月21日閲覧)
  12. ^北の湖の1勝は不戦勝。
  13. ^右足首関節捻挫・右足踵腱靱帯損傷により2日目から途中休場
  14. ^この地位は張出前頭9枚目。http://gans01.fc2web.com/S50/S58-7.html

関連項目

[編集]

参考文献

[編集]
出羽海一門
二所ノ関一門
時津風一門
高砂一門
伊勢ヶ濱一門
(未襲名名跡)
師匠
部屋付き親方
力士
幕内
十両
幕下
  • 大辻
  • 安房乃国
  • 安芸乃山
三段目
序二段
  • 大天狗
  • 都留樹富士
  • 醍醐桜
  • 真庭山
  • 松ヶ島
序ノ口
  • 祥乃山
  • 大野城
若者頭
行司
床山
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