あまの ていゆう 天野 貞祐 | |
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天野貞祐 | |
| 生誕 | 1884年9月30日 |
| 死没 | (1980-03-06)1980年3月6日(95歳没) |
| 死因 | 老衰 |
| 墓地 | 雑司ヶ谷霊園 |
| 国籍 | |
| 出身校 | 京都帝国大学文科大学哲学科 |
| 職業 | 哲学者 教育者 |
| 著名な実績 | 第67代文部大臣 第一高等学校第14代校長 獨協大学初代学長 |
| 影響を受けたもの | 内村鑑三 大村仁太郎 |
| 宗教 | キリスト教(カトリック) |
| 配偶者 | 天野タマ |
| 親 | 天野藤三 |
| 親戚 | 尾崎行雄 |
| 受賞 | 大功労十字星章 文化功労者 勲一等旭日大綬章 野球殿堂 従二位 |
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| 天野 貞祐 あまの ていゆう | |
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| 内閣 | 第3次吉田内閣 第3次吉田第1次改造内閣 第3次吉田第2次改造内閣 第3次吉田第3次改造内閣 |
| 在任期間 | 1950年5月6日 -1952年8月12日 |
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天野 貞祐(あまの ていゆう、1884年〈明治17年〉9月30日 -1980年〈昭和55年〉3月6日)は、大正・昭和期の日本の哲学者・教育者・文学博士。京都帝国大学名誉教授。甲南高等学校校長。
第二次世界大戦後は第一高等学校校長・文部大臣(第3次吉田内閣)を務めた後に獨逸学協会学校を母体として創立された獨協大学の初代学長を務めた。文化功労者。武蔵野市名誉市民[1]。
1884年、神奈川県津久井郡鳥屋村(現在の相模原市)の豪農の出身。父・天野藤三は自由民権運動に参加して後に村長・衆議院議員を務めた。父は教育熱心な人物であり、天野も将来医師になることを嘱望されて13歳の時に獨逸学協会学校中学校(旧制中学、獨協学園の前身)に入学した。そこで野球と出会い、野球部の選手として活躍したが足を痛めて退部。さらに追い討ちをかけるように母をチフスで失い、4年生の時に退学してしまう。しかしながら、21歳の時に内村鑑三の『後世への最大遺物』を読んで、自分の人生を見つめ直した天野は獨協の5年生として復学し、翌年には首席で卒業した。
当時獨協の校長であった大村仁太郎に憧れて教育者へと志望を転向して第一高等学校に入学。内村鑑三から直接教えを受け、また九鬼周造・岩下壮一とは親友になった。その後京都帝国大学文科大学・同大学院に進学して桑木厳翼らの下でカント哲学を専攻した[2]。在学中にカントの『プロレゴーメナ』(『哲学序説』)の日本語訳に取り組み、東亜堂後に岩波書店から刊行された。
1913年、「カント学者としてのフィヒテ」を発表。同年には西田幾多郎の推挙で智山派勧学院大学林講師となり、翌年には第七高等学校のドイツ語教師として赴任した。さらに西田幾多郎らの推挙を受けて学習院教授に転じた。1922年から翌年にかけて、ドイツのハイデルベルク大学に留学して哲学研究に打ち込んだ。1926年、桑木厳翼・朝永三十郎の推挙によって母校・京都帝国大学助教授となった。1930年にはイマヌエル・カントの代表作『純粋理性批判』を初の完訳版を刊行した。
1931年6月、学位論文『『純粋理性批判』ノ形而上学的研究』を京都帝国大学に提出して文学博士号を取得[3]。同年、京都帝国大学文学部教授に昇格した天野であったが、1937年に出した『道理の感覚』に台頭する軍部と軍国主義に対する批判が含まれていたことから、軍部や右翼、マスコミが天野を糾弾することとなった。自主絶版ということで不問に付されたものの、その後も『学生に与ふる書』(1939年)を著すなど、時流に流される世の中に警鐘を発し続けた。1944年、京都帝国大学を定年退職した天野は、甲南高等学校(現在の甲南大学)校長在任中に終戦を迎えた。
1945年、天野は母校・第一高等学校校長に就任、その後は安部磯雄の急死に伴って日本学生野球協会会長・日本育英会会長に就いた。
1950年には吉田茂に乞われて2年間文部大臣を務めた。ただし、後述のように、当時は再軍備と逆コースを巡って揺れていた時期と重なり、戦前と同様に時流に流されない教育という自身の信念に基づく教育行政を推進しようとしたことが、予想もしない政治問題を惹き起こし、結果的には天野にとっては不本意な時期となった。1950年11月7日、文相天野は全国教育長会議で、修身科の復活、国民実践要領の必要を表明した[4]。1951年11月14日、文相天野は国民実践要領の大綱を発表し、参議院その他で問題化し、11月27日、白紙撤回を表明した。1952年2月19日、文相天野は記者会見で、漢文を高校必修科目にしたいと発言し、2月20日、文部省は見送りと決定し、2月23日、衆議院本会議は東洋精神文化振興に関する決議案を可決した。この間、学生と警察官との紛争事件に関し衆議院行政監察特別委員会に証人喚問された[5]。

大臣退任直後、天野は青春時代を過ごした母校・獨逸学協会学校の後身である獨協学園が戦後日本の国家スタイルがドイツ型からアメリカ型に移行するに伴って衰微していることを知る。母校再建のために校長就任要請を受諾して、自らが信条とする「学問を通じての人間形成」の精神に則った「獨協再建」に尽くすことになる。やがて、遅ればせながら獨協にも大学を創設すべきだという声に支えられて、1964年に獨協大学を創立して初代学長に就任。続いて国立教育会館の初代館長に就任した。また、同年9月10日には「天野貞祐先生後援会」(世話人は安倍能成、茅誠司、森戸辰男、小泉信三ら15名)が発足した[6]。
だが、戦後の日本は「オールド・リベラリスト」の天野にとっては意に沿うことばかりではなかった[注 1]。一高校長時代には大学制度改革に際して「東京帝国大学(東京大学)を一般の大学と同じにしてしまった場合には、東大を頂点とした大学の格付けが生まれて受験競争が発生してしまう」として学部を置かない大学院大学にすることを提案したものの退けられ[注 2]、文部大臣時代には戦後の人心の荒廃と受験競争の激化を憂慮して1951年に「国民実践要領」を作成[注 3]して道徳教育の必要性を唱えたところ、日本社会党などの野党や日教組から「反動的な修身教育の復活だ」と糾弾され[注 4]、白紙撤回に追い込まれた[注 5]。獨協大学創立にはこうした時流に対する天野の抵抗の意味もあったとされている。だが、やがて学生運動の嵐が獨協大学にも及ぶようになると、学生達から天野の方針を批判する声が高まってきた。これを受けて1969年、天野は学長退任に追い込まれた。
その後も獨協学園の学園長として学校運営に関わる一方で、1973年には教育面で勲一等旭日大綬章を、学生野球の面で野球殿堂(特別表彰)が贈られた。
1980年、96歳で死去。墓は尊敬する大村仁太郎の眠る雑司ヶ谷霊園と故郷の天野家の墓に分骨されて、後に妻のタマ(1990年に102歳で死去)も葬られた。
| 公職 | ||
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| 先代 (新設) | 1964年 - 1967年 | 次代 高坂正顕 |
| 先代 亀山直人 | 1955年 - 1963年 | 次代 森戸辰男 |
| 先代 高瀬荘太郎 | 1950年 - 1952年 | 次代 岡野清豪 |
| 学職 | ||
| 先代 (新設) | 日本哲学会委員長 1949年 - 1950年 | 次代 務台理作 |
| その他の役職 | ||
| 先代 羽仁吉一 | 学校法人自由学園理事長 1957年 - 1980年 | 次代 田中和夫 |
| 先代 安部磯雄 | 日本学生野球協会会長 1949年 - 1961年 | 次代 大濱信泉 |
| 先代 高瀬荘太郎 | 実業教育振興中央会会長 1950年 - 1951年 | 次代 高瀬荘太郎 産業教育振興中央会会長 |
| 先代 田島道治 | 大日本育英会会長 1948年 - 1950年 | 次代 前田多門 |
獨協大学学長(1964年 - 1969年) | |
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東京大学総長(第一高等学校長:1946年 - 1948年) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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甲南大学学長(甲南高等学校長:1944年 - 1946年) | |
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| 甲南高等学校長 | |
| 甲南大学長 |
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| 競技者表彰 |
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| 特別表彰 |
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