| 人物情報 | |
|---|---|
| 生誕 | (1959-03-05)1959年3月5日(66歳) |
| 出身校 | 早稲田大学(法学士) 成城大学(博士後期課程単位取得満期退学) |
| 学問 | |
| 研究分野 | 民俗学、文化史、大衆文化 |
| 研究機関 | 東京外国語大学 国立民族学博物館 札幌国際大学 |
| 主要な作品 | 『厩舎物語』(1990年) 『民俗学という不幸』(1992年) 『無法松の影』(1995年) |
| 影響を受けた人物 | 呉智英 |
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大月 隆寛 (おおつき たかひろ、1959年〈昭和34年〉3月5日 - ) は、日本の民俗学者・評論家。元札幌国際大学人文学部教授。自称「暴力デブ太郎」[1]。
1977年、兵庫県立西宮高等学校卒業。父親は早稲田大学・八幡製鉄所のラグビー選手であり、その影響もあり高校時代はラグビー部に所属していた[2]。
1981年、早稲田大学法学部卒業。早稲田大学の法学部時代の同級生に浅羽通明がいる。1986年、成城大学大学院文学研究科博士後期課程単位取得満期退学。
東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所共同研究員、成城大学民俗学研究所研究員、財団法人民族学振興会[注 1]研究員、国立歴史民俗博物館共同研究員の後、1989年東京外国語大学外国語学部日本語学科助手。
1984年頃、民俗学の新たな方向性を期して、大月は同じ研究者の佐藤健二のほか吉見俊哉、小川徹太郎、重信幸彦とともに「都市のフォークロアの会」を結成、80年代後半にかけて活動を行う[3][4]。この会の活動を通じた『消えるヒッチハイカー──都市の想像力のアメリカ』(後出の著書の節を参照)の翻訳出版は、その後の「都市伝説」という用語の伝播に資している。
1991年には第一空挺団に、町山智浩(当時宝島編集者)と共に体験入隊して記事を書いている[5]。
1993年10月、国立歴史民俗博物館民俗研究部社会伝承第一部門助教授。1997年3月、退職。職場に呼んでくれた人との軋轢が退職の原因だと語っている[6]。同年4月、国際日本文化研究センター客員助教授。2000年3月、国際日本文化研究センター客員助教授終了。
2007年、札幌国際大学人文学部現代文化学科教授に就任するが、2020年6月に懲戒解雇となったため、同年8月、札幌地裁に地位保全と損害賠償を求める民事訴訟を起こす。2023年2月、一審札幌地裁で勝訴[7]。同12月に和解成立し復職。2024年3月で定年退職。
競馬評論や民衆文化、文学成立の時代習俗などをテーマに異色のフィールドワークを展開する。既存の民俗学には非常に批判的である。また、ジャン・ハロルド・ブルンヴァンの『消えるヒッチハイカー』を翻訳することで、「都市伝説」の概念を日本に紹介した。浅羽通明と共に、呉智英の思想的影響を受けている。早稲田大学法学部の同級生の浅羽とは80年代末から90年代初期にかけては非常に親密であった。当時の大月と浅羽は著書『少女民俗学』などの著者である大塚英志の「擬似民俗学的評論」を批判するなどしていた。漫画にも詳しく、『BSマンガ夜話』の司会を務めた[8]。
「新しい歴史教科書をつくる会」(以下、「つくる会」)には1996年の創会時に漫画家の小林よしのりへの共感から入会し[9]、1998年2月には2代目の事務局長になったが、その翌年、会長の西尾幹二から解任される。神経症が原因での活動休止を経て療養した直後の脱退(除名勧告)であった。
大月は「つくる会」の活動が完全な右寄りになることを問題視しており、「つくる会」のシンポジウムにおいて「と学会からトンデモ史研究者(原田実)を呼ぶ」「イベントとして餅まきを行う」など、会側のイデオロギーからずれた活動を続けたことが問題視されたようである[10]。
2007年から札幌国際大学で教授として教鞭を執っていたが、2020年6月29日に懲戒解雇処分を受けた[11][12]。
大月自身の説明によると、同大学では2019年度から日本語能力が十分でない留学生の不適切な受け入れが指摘されていたが[13]、前学長の城後豊や大月などが是正を求めて執行部と対立していたという[14][15][16]。
大月は懲戒解雇処分は不当だとして札幌国際大学を相手取り教授としての地位の確認などを求めて提訴した。2023年2月16日、札幌地方裁判所は「解雇は合理的な理由を欠き、社会通念上相当でない」として、大月の請求を全面的に認めた[17][18]。同年12月27日、札幌高等裁判所で和解が成立した。和解内容は明らかにされていない[19][20]。