この項目では、日本の国号の一つについて説明しています。1982年公開の映画については「大日本帝国 (映画) 」をご覧ください。
大日本帝国 大日本帝󠄁國 国歌 :君が代 [ 4] (事実上) 準国歌:海行かば [ 5] (非公式) 公用語 日本語 (事実上)首都 京都 →(東京奠都 )→東京府 →東京都 (事実上)天皇 1867年 - 1912年 明治天皇 1912年 - 1926年 大正天皇 1926年 - 1947年 昭和天皇 内閣総理大臣 1885年 - 1888年 伊藤博文 (初代)1946年 - 1947年 吉田茂 (第45代)面積 昭和初期の領土 675,405.78[ 6] km² 人口 1920年 (大正9年)[ 7] 77,700,000人 1933年 (昭和8年)90,396,034人 1935年 (昭和10年)国勢調査97,700,000人 1940年 (昭和15年)[ 7] 105,200,000人 変遷 明治維新 1868年 (明治 元年)大日本帝国憲法 発布1889年 (明治 22年)2月11日 第一次世界大戦参戦 1914年 (大正 2年)8月23日 第二次世界大戦参戦 1941年 (昭和 14年)12月8日 第二次世界大戦 敗戦 1945年 (昭和 20年)8月15日 日本国憲法 施行1947年 (昭和 22年)5月3日 通貨 日本円 台湾銀行券 朝鮮銀行券 時間帯 UTC +8(西部標準時 、1896 - 1937) UTC+9(中央標準時 )(DST :なし) 現在 内地 日本 ロシア (南樺太・千島列島)外地 中華民国 (台湾) 大韓民国 (朝鮮) 朝鮮民主主義人民共和国 (朝鮮)租借地 中華人民共和国 (関東州)信託統治領 ミクロネシア連邦 (南洋諸島)マーシャル諸島 (南洋諸島)パラオ (南洋諸島)北マリアナ諸島 (南洋諸島)占領地 #第二次世界大戦での占領地 ^ 紀元は神話 の伝承による。なお明治5年太政官布告第342号の現在における効力については議論がある。たとえばレファレンス協同データベース管理番号K111102123642[1] ^ 「大日本帝国」の国号が用いられたのは遅くとも1935年 の外務省決定から1947年 まで。 ^ この旗が法令上の国旗と明記されたのは1999年(平成11)8月9日の国旗・国歌法 による。明治時代には太政官布告 で定められた国旗は3つ存在し、政府 は商船旗としてこの旗を推奨していた。 ^ この歌が法令上の国歌と明記されたのは1999年(平成11)8月9日の国旗・国歌法 による。 ^ 「海ゆかば 」NHK放送史2024年11月22日 ^ 大日本帝国統計年鑑第59回(内閣統計局、東京統計協会、昭和16(1941))[2] 、国立国会図書館デジタルライブラリ ^a b Taeuber, Irene B.; Beal, Edwin G. (January 1945). “The Demographic Heritage of the Japanese Empire”. Annals of the American Academy of Political and Social Science (Sage Publications ) 237 : 65. doi :10.1177/000271624523700108 . ISSN 0002-7162 . JSTOR 1025496 .
大日本帝国 (だいにっぽんていこく、だいにほんていこく、旧字体 :大日本帝󠄁國 、英語 :Empire of Japan )とは、大日本帝国憲法 下[ 1] [ 2] で使用された日本 の国号 である[ 3] 。
この国号は江戸時代 末期(幕末 )に外交文書に使用され始め、公式には1947年 (昭和 22年)まで使用されていた。ただし、日本の正式な国号は過去から現在まで一貫して法的に確定しておらず、「大日本帝国」もまた法令上規定された正式な国号という位置づけではない。
大日本帝国憲法 下における日本の領土は時系列的に推移し、現在の領土のほか、南樺太 ・千島列島 ・朝鮮 ・台湾 を含み、また関東州 ・南洋諸島 などの幾つかの租借地 ・委任統治 領が存在した(#国土 の項目を参照)。
以下は国号としての大日本帝国を解説し、また大日本帝国憲法 下の日本について記述する。
憲法原本での国名 大和王権 成立後、漢字 文化が取り入れられると初め中国 、朝鮮 側の呼称である「倭 」を自国の表記として使用することが多かったが、やがて自国を「日本 」、あるいは「倭」を「和」と表記することが増え、701年(大宝元年)の大宝律令 では日本の国号が使用された[ 4] 。「倭」や「日本」に「大」を冠する慣習は古代から国内向けの美称として存在するが、対外文書においては江戸時代 末期(幕末 )まで見られなかった[ 5] 。「帝」と言う文字は説文解字 に依れば「諦 」と同義であり、天下の王(諦)と同義であるとある。角川新字源改訂版によれば「帝」の文字は象形であり、地上に降りた神が寄りかかるための机の形をかたどったものであり、宇宙の最高神の意を表すとする[ 6] 。この意味では西欧の「empire」の語源であるインペラトル (諸民族・諸軍団に対する命令権)よりも、ポンティフェクス・マクシムス (最高神祇官 )のほうが語義に近い。「帝国」という文字そのものは隋 代『文中子・問易』や日本書紀 など古典にも散見される表現であったが、いずれも「徳をもって治める国」あるいは天皇の所在を意味する語であり、近代国家の語義としての国家の政体を表示するものではなかった[ 7] 。後者の語義としての「帝国 」の語は江戸時代後期にオランダ語Keizerdomの翻訳のために採用された造語であり[ 注釈 1] 、それ以前の時代に漢語として定着した言葉ではなかった[ 8] 。国学系統では「皇国」という語が比較的早期から使われているものの「帝国 」という語は幕末まで見られなかった[ 8] 。
対外的な国号に「大」を冠したり「帝国」を使用するようになったのはいずれも幕末のことであり、1854年(嘉永7年)にアメリカ合衆国 と批准し、開国 の皮切りとなった日米和親条約 では、前文において「帝国日本」(英文では"Empire of Japan")の国号が初めて使われた(各条文では「日本国 Japan」表記)[ 9] 。また、同年にイギリス と批准した日英和親条約 では、条約の正式名称では「日本国(日本国大不列顚国約定)」としたが[ 10] 、本文の「日本大君」を英文では"His Imperial Highness the Emperor of Japan"と表記し[ 11] 、日本側の約文(概要)では江戸幕府を「大日本帝国 政府」と表記した[ 12] 。
さらに、1858年7月29日(安政5年6月19日)米国と調印した日米修好通商条約 では、本文に「帝国大日本」の国号が使われた[ 13] ほか、脇坂中務大輔 は肩書きを「大日本帝国 外国事務老中 」とした[ 14] 。同様に、10月9日(安政5年9月3日)フランス と調印した日仏修好通商条約 でも、本文は「日本国」だったが[ 15] 、間部下総守 と脇坂中務大輔はやはり「大日本帝国外国事務老中」の肩書で花押 を残している[ 16] 。万延元年遣米使節 の正使新見正興 、副使村垣範正 、監察小栗忠順 は1860年 (万延元年)、日米修好通商条約を批准した安政五年条約批准条約交換証書[ 17] 上で、日本側を「大日本帝国大君 の全権」と記した。
このように、江戸幕府 は開国後に「大日本帝国」の国号を使い始めたが、国号表記は条約によってまちまちであり「日ノ本」「日本」「日本国」「帝国日本」「帝国大日本」「日本帝国」「大日本皇御国」などの表記も使用され、一定しなかった[ 18] [ 19] 。
明治天皇 は1868年 1月3日 (慶応 3年12月9日 )、王政復古 を宣言。1871年(明治4年)に鋳造された国璽 には「大日本国璽」と刻まれ、1874年(明治7年)の改鋳に際しても印文は変更されず、今日に至るまで使用されている。1873年(明治6年)6月30日に在日本オランダ公使からの来翰文邦訳で「大日本帝国天皇陛下ニ祝辞ヲ陳述ス」と記述され[ 20] 、1889年(明治22年)2月11日には大日本帝国憲法 (明治憲法、帝国憲法)が発布され、1890年(明治23年)11月29日、この憲法が施行されるにあたり大日本帝国 という国号を称した[ 21] 。初め伊藤博文 が明治天皇に提出した憲法案では日本帝国 であったが、憲法案を審議する枢密院 会議の席上、寺島宗則 副議長が、皇室典範案に大 日本とあるので文体を統一するために憲法も大 日本に改めることを提案。これに対して憲法起草者の井上毅 書記官長は、国名に大の字を冠するのは自ら尊大にする嫌いがあり、内外に発表する憲法に大の字を書くべきでないとして反対した。結局、枢密院議長であった伊藤博文の裁定により「大日本帝国 」に決められた[ 22] 。しかし憲法 18条以下に見られるように(「日本」臣民の権利義務)この呼称が国号として唯一のものとして明確に確定したわけではなかった。
大日本 という表記は「オオヤマト」としては古来から用いられており、明治時代に国名として初めて使用されたという訳ではない。一方「帝国」は隋 代の『文中子・問易』を初出とし「徳を以て治める国」とされた[ 23] 。『日本書紀 』にも「帝国」に「みかど」の訓を当てた用例があるが[ 24] 、天皇の所在を意味する用語であり、今日の「帝国 」とは必ずしも一致しなかった[ 25] 。一方で、天皇が統治する国という意味で「皇国」「スメラミクニ」(皇御国)が使われていた。これらは政治や思想、主義、規模等に基づく「Empire」(帝国) とは本来一線を画していたが、幕末以降に欧米列強の影響を受け、日本側も"Empire"の訳語としての「帝国 」を意識するようになった[ 8] 。
帝国憲法の半公式の英訳(伊東巳代治 訳)では「Empire of Japan」と訳され「大」の意味合いはなかった。当時は国名へのこだわりがなく、帝国憲法と同時に制定された皇室典範 では日本帝国 、大日本国 と表記し、外交文書では日本 、日本国 とも称しており、国内向けの公文書 でも同様であった。その後、世界情勢の悪化などにより国名への面子に対するこだわりが表面化した1935年(昭和10年)7月、外務省 は外交文書上「大日本帝国」 に表記を統一することを決定した[ 26] 。国号 を参照。
第二次世界大戦 後、日本政府が1946年 2月8日 に連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ/SCAP) に提出した憲法改正要綱では国名について「大日本帝国」と記載していたが、2月13日、GHQ/SCAP民政局長 のコートニー・ホイットニー により憲法改正要綱の不受理通知とGHQ/SCAP草案が吉田茂 外務大臣及び松本烝治 国務大臣らに手交され、その草案の仮訳以降は国名は日本国 と記載されるようになり、のち国号に関して1946年7月23日時点における第1次吉田内閣 の公式見解として「従来現行憲法(当時は大日本帝国憲法下)においても特に我が国の国号を一定する意味で「大日本帝国」という名称が用いられたものとは考えていない」ものとされた[ 27] 。
その後1947年(昭和22年)5月3日に施行された日本国憲法 により日本は憲法上「日本国」の名称を用いることとなるが、現在においてなお日本の正式な名称を規定する法令等は存在せず、国号の呼称については慣習によるものとされている[ 28] 。
日本水準原点標庫上部エンタブラチュア のフリーズ 部分に菊紋 と共に右から「大日本帝国」と刻まれている。 通称 では帝国 と呼び、また皇国 とも称した。日本海海戦 での「皇国ノ興廃此ノ一戦ニ在リ」が有名。日本 や日本国は通称としてだけでなく公文書 にも使用された。現在「帝国」の文字が公的機関に記されているのは東京都千代田区に所在する日本水準原点標庫 のみである。民間では帝国データバンク 、帝国劇場 (通称「帝劇」)、帝国ホテル 、帝国書院 などがある。
2004年 (平成16年)に東京地下鉄 (東京メトロ)が運営を引き継いだかつての営団地下鉄も、運営者の正式名称は「帝都 」(帝国の首都の意)を冠した帝都高速度交通営団 であり、京王電鉄 も社名変更前は「京王帝都電鉄」(大東急 解体の際に旧京王電気軌道と旧小田急電鉄 帝都線(帝都電鉄 )だった路線を引き継ぎ設立したことによる名称)であった。他業界ではテイケイ が「帝国警備保障」、帝人 が「帝国人造絹糸」、テイボー が「帝国制帽」、合併前の国際石油開発帝石 が「帝国石油」、日本エア・リキード が「帝国酸素」などと、それぞれ「帝国」を冠していた。
東京大学 、京都大学 などの帝国大学令 に基づいて設立された大学は、現在においても旧帝大 と呼ばれる。また、同様に「大日本」の文字が使用されている企業もある(例:大日本印刷 、大日本除虫菊 )。
歴史学においては時代区分 それ自体が議論の対象であり、「大日本帝国」と公称された時代をひとまとめの時代として記述する論文も少なからず存在するものの、通例この時代を近世 ・近代 として記述するのが一般的である。この項目で記述されるべき内容は膨大であり、別の記事(日本近代史 、あるいは幕末 、明治 、大正 、昭和 など)を参照されたい。
大日本帝国憲法下の日本の国土は、完全な領有権を有する領土のほか、領土に準じる区域として、他国から借り受けた租借地、国際連盟 に統治を委任された委任統治 区域があった。この他、行政権及び自国民への裁判権を有する一部統治区域 があった。
明治憲法下においては、関東大震災直後ノ詔書(大正12年9月12日詔書)で「東京 ハ帝国ノ首都」とされている。東京は大日本帝国の首都として帝都 と称され、宮城(きゅうじょう、皇居 )が所在し、内閣、各省、枢密院、大審院が位置し、帝国議会 が開かれ、戦時には大本営 が置かれた。
その一方、元来からの「みやこ」は、維新初期の政情を背景に天皇の東行を東京奠都 とされた経緯から、京都は都としての地位が継続し、高御座 は京都御所 に安置され即位の礼 や大嘗祭 が行われていた[ 29] 。この「みやこ」の地位の議論を背景に言語学者や百科事典編纂者らは慎重に「帝都」「首府」と表現し首都 の用語の採用を回避したが、議会を始め一般には首都 の語は流通していた。もっとも現代のように「一国の首府」としての首都の意味として確定していたわけではなく地方の中核都市としての首都・主都の用法も一般的であった。
日清戦争中 には天皇の行幸にともない広島 には行在所や大本営が置かれ、ここで帝国議会が開かれたため、臨時の首都を務めたとも言える。また太平洋戦争 (大東亜戦争 )で本土決戦 になる場合を想定し、天皇と大本営を長野県 松代町 の地下壕(松代大本営 )に移す計画があり実際に部分的な準備も行われたが、当初は天皇自身が反対したこともあり、また本土決戦が行われることなく終戦したため実現しなかった。
大日本帝国の国土(昭和期)1.内地 2.台湾 2'.新南群島 3.樺太 4.朝鮮(以上領土)5.関東州 6.満鉄附属地 7.南洋群島 大日本帝国の地形図(1918年11月) 大日本帝国憲法 (明治憲法)の形質の観点では、明治憲法には領土規定がなく、ヘルマン・ロエスレル の案の段階で領土は自明のものであり、また国体に関わり議院に属していないものだとして領土規定が立ち消えたのであるが、実際にはロエスエルの認識とは異なり日本の領土は北(樺太・北海道)も南(琉球)も対外政策は不安定な中にあった。明治政府にとって好都合であったことは確かで、露骨なものとしては「我カ憲法ハ領土ニ就イテ規定スル所ナシ、諸国憲法ノ或ハ領土ヲ列挙スルト甚タ異レリ、サレハ我ニ在リテハ、領土ノ獲得ハ憲法改正ノ手続ヲ要セス」(上杉慎吉 「新稿・憲法述義」1924年P.143)と解されていた[ 30] 。
比較法学 の観点では、当時の国法学の観点では「国土」という確定された領域は国土学によって理論的に整除され、その結果を憲法に記述することが慣行となっていた。1831年のベルギー憲法、1848年プロイセン憲法、1871年ドイツ帝国憲法 のように第一条に国土条項を記述するのが通例で、領土条項を欠いた憲法はなんらかの事情があり、その点で大日本帝国憲法は異例であった。石村修はこの点について江戸時代における長期の鎖国体制や地政学的特性に着目する。西欧型の植民地経営の特徴は、自国の法がおよぶ範囲を限定し殖民会社に軍備・司法・行政・外交の特権を付与することで、国家も直接植民地支配の煩わしさから解放されることになり、そこでは軍事警察力による暴力的な支配権力が不可欠であり、法的には内地と区分された(外地 )という枠組みが形成されるにいたった。19世紀のヨーロッパは国家主権が欠落した空間に宗主国の主権が及ぶことを想定しながら、直接的な責任逃れの法理が適用されることを期待して「外地 」(overseas territories)という領土を作り出したとする[ 31] 。
領土は完全な領有権を有する区域であり、内地 、樺太 (後に内地に編入)、台湾 、朝鮮 からなる。このほか一時遼東半島 を領土としたことがあった。各領土の来歴は下記の通り。領土面積は最大675,000km2 [ 32] 。各領土の概要は下記の通り。
内地 日本列島及び周辺の島嶼からなり、現在の日本国の領土とほぼ一致する。内地の来歴は以下の通り。 この他以下の島々を内地に編入した。北大東島 ・南大東島 :1885年調査隊を派遣し国標を建設。同年沖縄県編入(公文録明治18年内務省ノ部)。硫黄島 ・北硫黄島 ・南硫黄島 :1891年小笠原島庁の所轄とする(明治24年勅令第190号)。南鳥島 :1898年小笠原島庁の所管とする(明治31年(1898年)東京府告示第58号)。魚釣島 ・久場島:1895年沖縄県 の所管とし標杭建設を決定(明治28年内甲第2号閣議決定)。現在は尖閣諸島と呼ばれる。沖大東島 :1900年沖縄県に編入(明治33年沖縄県告示第95号)。竹島 :1905年島根県 に編入(明治38年島根県告示第40号 )。中ノ鳥島 :1908年小笠原島庁の所管とする(明治41年東京府告示第141号)。その後再発見できず、1946年水路図誌から削除。沖ノ鳥島 :1931年東京府 小笠原支庁の管轄とする(昭和6年内務省告示第163号)。 樺太 日持 が訪れる等、古くは鎌倉時代 から日本との関わり(参照:蝦夷管領 安東氏 )があり、江戸時代 は松前藩 の陣屋 やアイヌ などとの交易場所(参照:場所請負制#運上屋 )なども設けられていたが、幕末 の混乱期に樺太島仮規則 などの不平等条約 でロシア との雑居地とされた後、1875年、千島樺太交換条約 によりロシアに譲渡。1905年、日露戦争 (樺太作戦 )で占領 し、同年のポーツマス条約 (日露講和条約、明治38年勅令号外)により北緯 50度以南を割譲 させ回復。1943年内地に編入した(昭和18年法律第85号)。樺太庁 を参照。第四代台湾総督 児玉源太郎 台湾 台湾本島と澎湖島 を日清戦争 で占領し、1895年、下関条約 (日清講和条約、明治28年勅令号外)により、清国 に割譲させて獲得。1938年、新南群島(現在の南沙諸島) を台湾高雄市 に編入した(昭和14年台湾総督府令第31号、台湾総督府告示第122号)。日本統治時代の台湾 の項を参照。 遼東半島 (奉天半島)日清戦争で占領し、1895年、下関条約により清国に割譲させて獲得したが、三国干渉 を受けて、同年中の奉天半島還付ニ関スル条約 (明治28年勅令号外)により返還した。この間、ごく短期ではあるが、領土であった。日露戦争 後のポーツマス条約 により半島の権益がロシアより譲渡されたが、これは領土割譲ではなく満洲善後条約 を通じて清国から租借 したものであった。 朝鮮 1910年、韓国併合ニ関スル条約 (明治43年条約第3号)により、天皇が大韓帝国皇帝から統治権を譲与されるという形式で併合(二重帝国)。韓国ノ国号ヲ改メ朝鮮ト称スルノ件 (明治43年勅令第318号)により朝鮮に改称した。朝鮮の統治は天皇の委任を受けた総督が行い、内閣総理大臣を通じ天皇に上奏裁可を受けるものとした(朝鮮総督府官制3条)。日本統治時代の朝鮮 の項を参照のこと。 租借地は領土とは異なり、潜在主権を租貸国が有し、租借期限があり、また在来の住民に日本国籍が与えられない。中国から関東州 と一時膠州 (青島 )を租借した。
関東州 遼東半島先端の大連 ・旅順 近辺。ロシアの租借地だったが、日露戦争で占領。1905年、ポーツマス条約により清国の承諾を条件に租借権を譲り受け、日清間満洲ニ関スル条約(明治39年勅令号外)により清国の承諾を得て租借した。租借期限は1923年までだったが、1915年に中華民国との南満洲及東部内蒙古ニ関スル条約(大正4年条約第3号)により1997年まで延長された。1932年の満洲国の成立に伴い、満洲国の一部を租借する形式に改定した(ポツダム宣言 受諾により1945年に失効)。 膠州 山東半島 南岸の青島 近辺。ドイツ帝国 の租借地だったが、第一次世界大戦 で占領。1920年同盟及聯合国ト独逸国トノ平和条約 (大正8年条約第1号)により租借地とするが、2年後の山東懸案解決ニ関スル条約 (大正11年条約第3号)により中華民国に返還。南洋群島 西太平洋赤道以北の広い範囲に散在する島々。ドイツ領であったが、第一次世界大戦で占領、1920年同盟及聯合国ト独逸国トノ平和条約 (大正8年条約第1号)により、国際連盟 の委任 に基づき統治する委任統治区域とした。日本が国際連盟を脱退すると、連盟との関係における委任統治の根拠は薄くなったが、1933年3月16日「帝国の国際連盟脱退後の南洋委任統治の帰趨に関する帝国政府の方針決定の件」を閣議決定し、委任統治はヴェルサイユ条約での批准事項であることを盾に引き続き委任統治を行った。なお国際連盟への統治に関する年次報告は1938年まで行っている。 南満洲鉄道 初代総裁後藤新平 南満洲鉄道附属地 (満鉄附属地)南満洲鉄道 (満鉄)の線路両側数十メートル程度の地帯、及び駅周辺の市街地や鉱山 等からなる。満鉄に関するロシアの権利を1905年のポーツマス条約 で譲り受けた際に、その一部として鉄道附属地 における行政権を獲得した。行政権の他、治外法権に基づき日本人に関する裁判権も有した。1937年、行政権を満洲国 に移譲すると共に、治外法権 を撤廃した(昭和12年条約第15号)。租界 専管租界を1897年杭州 と蘇州 に、1898年天津 と漢口 に、1901年重慶 に、それぞれ開設した。また、上海 の共同租界 に参加していた。北京 には正式な租界ではないが、事実上の共同租界として機能した公使館区域があった。このほか沙市 、福州 、廈門 に租界を設置する権限があったが設置しなかった。租界では行政権を行使するほか、治外法権に基づき日本人に関する裁判権も有した。1943年、中華民国(汪兆銘政権 )に対し租界を還付し治外法権を撤廃した(昭和18年条約第1号、同第2号)。 大日本帝国の人口密度(大正9)。 大日本帝国の人口密度(昭和15)。 大日本帝国憲法下の日本で大日本帝国の国籍を有する者を日本人 、日本国民 、日本臣民 といった。大日本帝国憲法では日本臣民 の名称が使用されている。国籍の要件は国籍法 (明治32年法律第66号)で規定された。下のいずれに属するかによって法制度上異なる取り扱いを受けることがあった。
内地人 内地人 とは戸籍法 (明治31年法律第12号)の適用を受ける国民である。現在の日本国民にほぼ相当する。内地人には華族 、士族 、平民 の別があり、華族は貴族院 議員たる資格を有するなど特殊な地位にあったが、士族と平民の間に差異はなく、法的にも1914年(大正3年)に族籍記載が撤廃された。1947年の戸籍法改正により、これらの別は完全に消滅した。樺太人 樺太人 は樺太の在来住民であり、樺太ニ施行スヘキ法令ニ関スル件(明治40年法律第25号)などの法令では土人 と呼ばれた。また樺太土人 ともいう。樺太人は日本国籍を有しなかったという説(百瀬後掲書)もあるが、当時の憲法学書では日本国籍を有するものとしていた(美濃部後掲書)。樺太人のうち8割近くが樺太アイヌ であり、他にニヴフ 、ウィルタ (当時の通称はオロッコ族)などがいた。1932年、樺太アイヌが内地人になり(昭和7年勅令第373号)、他は1943年の樺太の内地編入(昭和18年法律第85号)の際に内地人になった。台湾人 台湾人 は台湾 の在来住民である。本島人 ともいう。1895年台湾割譲の際に大日本帝国国民になった。戸籍法の適用を受けず、民籍という籍を有した。本島人のうち9割が漢民族 、1割が高砂族 である。行政上は日本国との平和条約 の発効により日本国籍を喪失したものとして扱われたが、判例上は日本国と中華民国との間の平和条約 の発効により日本国籍を喪失したとされている(平和条約国籍離脱者 )。朝鮮人 朝鮮人 は朝鮮の在来住民である。1910年 の韓国併合の際に大日本帝国国民になった。戸籍法の適用を受けず、民籍という籍を有した。朝鮮人のうち旧大韓帝国 の皇族は王公族 、一部の両班 や韓国併合に功績のあった者は朝鮮貴族 に封じられた。これらの人々は1947年、外国人登録令 により、外国人扱いの朝鮮籍 に組み込まれ、1952年、日本国との平和条約 の発効により日本国籍(旧大日本帝国籍)を喪失した(平和条約国籍離脱者)。法令等では、台湾戸籍令(1905年)、民籍法(1909年、大韓帝国)のち朝鮮戸籍令(1923年)などにもとづく台湾戸籍や朝鮮戸籍に所属する「帝国臣民」であり、内地人を「戸籍法ノ適用ヲ受クル者」と称したのに対して、内地人以外の日本国民を総称して「戸籍法ノ適用ヲ受ケザル者」などと言った(例:兵役法 23条、同52条)。なお、公式文書でも、「内地人」、「台湾人」、「朝鮮人」などと表記された[ 33] 。
正式な領土とされなかった統治区域の在来住民は、日本国籍が与えられず、国民として扱われなかった。
国際連盟 からの委任統治区域であった南洋群島 の在来住民を島民 といった。島民は国籍がなかった。島民の大部分はカナカ族 であり、他にチャモロ族 がいた。
租借地である関東州や満鉄附属地の在来住民は当初清国 籍、後に中華民国 籍を経て、1932年に満洲国 が建国された後には暫行民籍法 (1940年、満洲国籍に準じるもの)[ 34] が導入された。内国や台湾・朝鮮からの移住者は内国戸籍や台湾・朝鮮の民籍と二重登録されるなどした。租界の在来住民は清国籍・中華民国籍とみなされた。これらの大部分は漢民族 である。
明治憲法下の統治機構 明治の日本の統治機構は太政官 制から内閣 制、1890年の大日本帝国憲法 (以下、明治憲法)施行による立憲君主国家へと推移した。明治憲法上は国家元首である天皇 が統治権全体を掌握する建前であったが(憲法第4条 )、実質上は国家の各機関が権限を分掌していた。これは「統治構造の割拠性」といわれる[ 35] [ 36] [ 37] 。「明治憲法体制下においては、天皇は、親政をとらず、内閣等の輔弼に従って名目的な統括者として権力を行使する存在であった」「各輔弼機関は分立的・割拠的であったため、その調整は事実上、元老 に委ねられていたが、元老 の消滅に伴い、実質的な統治の中心が不在となってしまった」[ 38] 「戦前の統治構造における割拠性については改めて言及するまでもなかろう。明治22年の内閣官制、非連帯責任制の採用、統帥権の独立、枢密院・貴族院の存在等々、幾多の障壁が内閣の一体性の確保を阻害していた」[ 39] のである。
統治権に関する天皇の権限は国務大臣 の輔弼(補佐)に基づいて行使された(憲法第55条 )。内閣 は国務大臣で組織され(内閣官制 第1条)、帝国憲法上天皇大権 とされた権限は原則として内閣の決定に基づいて行われた。
内閣総理大臣 は国務大臣の首班であり、重要決定事項を天皇に報告し、その了解に基づいて行政を統制した(内閣官制第2条)。内閣総理大臣の選任方法については、明文の規定はなく、元老 (のち重臣 )と呼ばれる有力者たちが内閣総理大臣を選んだ。現行法 のように国会議員である必要はなく、元老や軍人などからも任意に任命された。内閣総理大臣は帝国憲法上の地位がなく政治上の地位が極めて不安定であったとの論がしばしば提起されるが内閣官制 や公文式 ・公式令 の規定により相当の権限が確保されており、大臣の罷免 はあらたな内閣の組閣として実質的に可能であり[ 40] 、閣内不一致による内閣総辞職 は法令上の義務ではなく、あくまで議会政治において事後的に成立した慣例であった。
天皇 の実際の役割は、内閣の決定に従ってこれに形式的な裁可を与えて国家意思を確定することであった(機務六条 )。ただし、天皇は単なる傀儡ではなく、当時のイギリス国王など他の立憲君主 と同様、政治上の決定に関与していた(伊藤之雄 )。天皇の側近には、侍従長 や内大臣 などがおり、特に内大臣は昭和期に天皇の政治秘書として活動した。その他、皇室の事務については宮内大臣 が輔弼した。なお、内大臣と宮内大臣は国務大臣ではなく内閣に関与しない。天皇は帝国憲法に定める通り立憲主義を重んじ、国政に直接関与し、自身の意志のみによってこれを左右することを許さなかった。
立法権は、天皇が帝国議会 の協賛(同意)に基づいて行った(憲法第5条 )。帝国議会は貴族院 ・衆議院 の二院制であり、貴族院は皇族 華族 と勅任議員(元官僚など)で組織され、衆議院 は公選された議員から組織された(憲法第33条 、第34条 、第35条 )。
帝国議会は法律 の制定について協賛(同意)する権限を持った(憲法第37条 )。国民の権利・義務に関わる事項は原則として法律によらなければ(すなわち帝国議会の同意がなければ)侵害されなかった(憲法第2章)。また、帝国議会は毎年の予算 に対しても協賛権を持った(憲法第64条 )。予算が不成立の場合は前年度の予算が施行されるが(憲法第71条 )、前年度予算では行政が成り立たないため、帝国議会の予算審議が内閣の死命を制することとなり、これにより政党内閣 への道が開かれた。ただし、他の立憲諸国と比較すれば、以下の点で議会の権限は弱かった。
政府は法律の定めのない事項につき独立命令 により法規を定める権限を有した(憲法第9条 )。 国際条約の締結に関しては天皇大権 に属すとされ帝国議会の協賛は不要であった(憲法第13条 )。 教育関係の規定は、国民の権利義務に関わる事項であっても、法律ではなく勅令で定められる慣習があり、帝国議会の協賛は不要であった。 皇室典範 改正については帝国議会の協賛は不要であった(憲法第74条 )。憲法改正については帝国議会に発案権がなかった(憲法第73条 )。 もっとも、これらの事項に関しても政府が自由に裁量できるものではなく、帝国議会の代わりに枢密院 の審議を経る必要があった。枢密院は天皇の諮詢(相談)を受けて重要な国務を審議する機関にすぎないが(憲法第56条 )、これらの事項に関して事実上の拒否権を有した。枢密院は行政への関与を禁じられたが(枢密院官制 第8条)、しばしば政府に干渉した。
司法権は天皇の委任により裁判所が行った(憲法第57条 )。民事刑事の裁判については、大審院 を頂点とする通常裁判所が裁判したが(裁判所構成法)、欧州大陸型の司法制度に倣って、行政訴訟は特別の行政裁判所 が扱った(憲法第61条 、行政裁判法 )。
東郷平八郎 陸海軍の統帥(憲法第11条 )は国務大臣の輔弼の外に置かれ、統帥部が担当した(統帥権 の独立)。統帥部は陸軍 の参謀本部 と海軍 の軍令部 が並立し、戦時に両者は形だけ統合して大本営 が置かれた。統帥部は内閣を経ないで天皇に決定を求める帷幄上奏 権という特権を有した。陸軍大臣と海軍大臣は、国務大臣であるとともに統帥機関としての地位も有し、やはり帷幄上奏権を行使したほか、帷幄上奏を通じて統帥に関する勅令 の決定を求め、これに副署 する権限を有した。この勅令は総理大臣の副署を要しなかったが、1907年の公式令 制定によって全ての勅令に総理大臣の副署が必要になると、勅令とは別に「軍令 」という法形式を新設し(明治40年軍令第1号)、陸海軍大臣のみが副署する権限を保った。
この統帥権の独立によって陸海軍に対するシビリアンコントロール が機能せず、その結果軍部の独走を助長し、国内の混乱及び諸外国との軍事的衝突をいたずらに広める結果となった[ 41] 。
内地以外の国土を総称して外地 あるいは植民地 (殖民地)などという。外地には朝鮮総督府 、台湾総督府 、樺太庁 、関東庁 、南洋庁 といった官庁が置かれ、統治が委任された。これら外地官庁の要職は内地人で占められていた。外地官庁が定める法令は、法律に相当する規定であっても帝国議会の協賛を要しなかった。外地にも日本内地に準じた地方自治制度が導入され、朝鮮人や台湾人[ 42] を含めた外地住民による地方議会議員の公選制が行われていた。
大日本帝国は1920年1月10日に発足した国際連盟 の常任理事国 であり、1933年3月27日(正式には1935年3月27日)に脱退するまで大きな役割を果たしてきた[ 43] 。
ロシア革命 に反対して起こった内戦 に日本も関与し、以下の地域を占領した。
北樺太 シベリア出兵 時に発生した尼港事件 を受け、1920年7月29日から1925年5月15日までの約5年間、日本のサガレン州派遣軍 による保障占領 下にあった。1925年(大正14年)1月20日の日ソ国交樹立 に伴って撤退。シベリア シベリア出兵で占領し、傀儡政権樹立を画策するものの、国際的な批判を浴びて撤収。 1870年 から1942年 までの軍事勢力版図(ロシア出兵、南洋諸島等を含まず 概観図) 勢力範囲は1938年時点で 1,984,000㎢[ 44] とする研究がある。日中戦争中の1940年にフランス領インドシナに進軍し、1941年にはイギリス やオランダ、アメリカ合衆国 に対して宣戦布告 (米国及英国ニ対スル宣戦ノ詔書 )を行い太平洋戦争 が勃発。日本は東亜新秩序 をもとに大東亜共栄圏 の建設を目標に掲げ、これらの国や植民地へ本格的に進出し占領地を拡大した。
満洲事変 や日中戦争 で進出した中国大陸や、大東亜戦争で米英仏蘭の植民地 だった地域を次々占領 すると、次々と独立 政権を樹立した。しかし連合国の反撃や日本の敗戦 により、独立宣言は無効とされた国が多い。
中国大陸 満洲国 (1932年3月1日 - 1945年8月18日)蒙古聯合自治政府 (1939年9月1日 - 1945年8月9日)中華民国 (1940年 - 1945年)1940年より前に消滅した親日政府
フランス領インドシナ アメリカ自治領フィリピン イギリス領ビルマ ビルマ国 (1943年8月1日 - 1945年3月27日)イギリス領インド 大日本帝国憲法 を有権解釈する伊藤博文 『憲法義解 』によれば、日本の政体は武家政権や明治の維新、憲法の制定による議会の開設など変化はあるものの、国体 については神武天皇による日本肇国の当初から日本は天皇を中心とした国体 の一貫性を保持していると解釈されていた[ 45] 。
次いで日本の戦前と戦後との相関については、「国家の同一性」として議論された複数の事例がある。まず、日本国憲法を出すにあたっての勅語[ 46] がある[ 47] 。また、「新憲法は旧憲法の廃止ではなくその改正であり、いわんや憲法改正の前後にわたって国家の同一性には変更がないのであるから、旧憲法下の法令が原則として新憲法下においてもその侭引きつがれ、有効に存続することは何人も疑わないところであ(る)」との政府見解が示されている[ 48] 。
^ 1789年(寛政元年)刊行のヨーロッパ地誌『泰西輿地図説』(朽木昌綱 )で、オランダ語 「Keizerdom」の訳語として「帝国 」が初めて登場した[ 7] 。1810年(文化7年)刊行の蘭和辞典『訳鍵』(藤林淳道)でも、「帝国」が訳語として採用された[ 7] 。 ^ 大日本帝国憲法は1890年 (明治 23年)11月29日 に施行され、第二次世界大戦 敗戦後の1947年 (昭和 22年)5月3日 、日本国憲法 の施行に伴い失効するまで効力を有した ^ 「大日本帝国憲法 」『ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典』。https://kotobank.jp/word/%E5%A4%A7%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%B8%9D%E5%9B%BD%E6%86%B2%E6%B3%95 。 エラー: {{Cite Kotobank }}の使用で|access-date=が指定されていません。 ^ 「大日本帝国 」。https://kotobank.jp/word/%E5%A4%A7%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%B8%9D%E5%9B%BD 。コトバンク より2024年7月6日閲覧 。 ^ 前野みち子 2006 , p. 27-28.^ 前野みち子 2006 , p. 28-30.^ 角川新字源改訂新版「帝」[3] ^a b c 長沼美香子 2015 , p. 40-42. ^a b c 前野みち子 2006 , p. 44. ^ 法令全書 - 国立国会図書館デジタルコレクション^ 水野筑後守 、永井岩之丞 、ゼームス、スチルリング (1854年10月14日). “日本国大不列顚国約定(日英和親条約) ”. 国立国会図書館デジタルコレクション . 2022年3月18日閲覧。^ Sir James Stirling, Mezio-no Chekfu-no Kami, Nagai Evan Ocho (1854年10月14日). “Anglo-Japanese Friendship Treaty ”. wikisource . 2022年3月18日閲覧。 ^ “日本国大不列顛國約定(日英和親条約) ”. データベース「世界と日本」 . 政策研究大学院大学・東京大学東洋文化研究所 (1854年10月14日). 2022年3月18日閲覧。 ^ 法令全書 - 国立国会図書館デジタルコレクション^ “幕末将軍家の銀印見つかる 国家元首の意思示す ”. 日本経済新聞 (2019年12月12日). 2018年8月20日時点のオリジナル よりアーカイブ。2018年8月20日閲覧。 ^ 水野筑後守、永井玄蕃頭 、井上信濃守 、堀織部正 、岩瀬肥後守 、野々山鉦蔵 、バロン、グロス (1858年10月9日). “日本国仏蘭西国修好通商条約 ”. 国立国会図書館デジタルコレクション . 2022年3月18日閲覧。 ^ 有利浩一郎 (2019年1月). “日仏修好通商条約、その内容とフランス側文献から見た交渉経過(8) ~日仏外交・通商交渉の草創期~ ”. 財務省. 2022年3月18日閲覧。 ^ 近代デジタルライブラリー - 万延元年遣米使節図録(田中一貞 編、1920年)[4] ^ 前野みち子 2006 , p. 52.^ 条約締結ノ手続、形式及其他ノ先例雑件 16.条約ニ於ケル本邦ノ国号ニ関スル件 -外務省 アジア歴史史料センター^ 国立公文書館アジア歴史資料センター「在本邦和蘭公使・領事来翰 自明治元年/(1)和蘭公使館来翰 和文」“1.在本邦和蘭公使・領事来翰 自明治元年/(1)和蘭公使館来翰 和文 自明治元年/元年来 ”. 2014年8月29日閲覧。 ^ 同憲法第一条「大日本帝国は万世一系の天皇之を統治す」 ^ 枢密院会議筆記明治21年(1888年)6月18日午後。 ^ 「主義」の流布と中国的受容― 社会主義・共産主義・帝国主義を中心に -陳力衛 『成城大學經濟研究』 (199), 31-58, 2013-01,NAID 110009577486 ^ 『日本書紀』欽明天皇 ^ 「帝国」言説と幕末日本 ―蘭学・儒学・水戸学そして幕末尊攘論― - 桐原健真^ 外務省条約局作成(昭和11年5月)「我国国号問題二関スル資料」(外務省記録「条約ノ調印、批准、実施其他ノ先例雑件」所収)。外務省外交史料Q&A[5] 「戦前の日本では、国号の英語標記を "Japan" から "Nippon" に変更しようとする動きがあったそうですが、このことに関する史料はありますか。」 ^ 昭和21年7月23日提出『衆議院議員田中伊三次外一名提出憲法改正案に関する質問主意書に対する答弁書』。 ^ 大辞林大日本帝国 ^ 旧都については旧皇室典範 (昭和22年5月2日廃止)第11条では「即位ノ礼及大嘗祭ハ京都ニ於テ之ヲ行フ」と規定され典憲の上で配慮されていた。この点について、伊藤博文 「皇室典範義解」は「維新の後明治元年8月27日即位の礼を挙行せられ臣民再ひ祖宗の遺典を仰望することを得たり13年車駕京都に駐まる旧都の荒廃を嘆惜したまひ後の大礼を行ふ者は宜く此の地に於てすへしとの旨あり勅して宮闕を修理せしめたまへり本条に京都に於て即位の礼及大嘗祭を行ふことを定むるは大礼を重んし遺訓を恪み又本を忘れさるの意を明にするなり」と説明している。枢密院議長伊藤伯著「帝国憲法皇室典範義解」(国家学会刊行 明治22.6.1)P.157-158 ^ 石村修、「憲法における領土 」法制理論 39 pp.158-185, 2007-03. 新潟大学法学会hdl :10191/6089 ,ISSN 0286-1577 ^ 「植民地法制の形成-序説-」石村修(専修大学法科大学院 第6回東アジア法哲学会シンポジウム)[6] ^ 1924年に台湾で使用された地理教科書によれば「我が大日本帝国はアジア州の東部に位して、太平洋中に長くつづいている大小数千の島々と、朝鮮半島から成り立っています。島の主なものは本州、四国、九州、台湾、北海道本道、樺太です。全国の面積は4万三千余方里で凡そその三分の一は本州、三分の一は朝鮮、残り三分の一はその他の地方です」。韓炫精、「教科書における帝国の風景 」『研究室紀要』2014年7月 40巻 p.203-217,ISSN 0285-7766 , 東京大学大学院教育学研究科基礎教育学研究室、脚注12・1方里≒15.423平方キロメートル。 ^ 『海外各地在留本邦人人口表. 昭和6年10月1日現在』(者:外務省通商局第三課 [編]。出版者:外務省通商局)の『例言』(昭和7年12月に通商局第三課が記したもの)に「2. 本表ニハ海外在留本邦内地人ノ「国別人口」、「在外公館別男女人口」、「職業別人口」及「明治三十七年乃至昭和六年ニ於ケル比較数」ヲ集録シタリ 朝鮮人及台湾人ニ付テハ其ノ多数カ在外公館ニ対シ正規ノ登録ヲ為ササル為在留者ニ対スル正確ナル計数ヲ得難ク仍而本表ニハ現ニ登録済ミノ者の数ヲ掲ケタリ」と書かれている。『海外各地在留本邦人人口表. 昭和13年10月1日現在』(著者:外務省調査部第二課 [編]。出版者:外務省調査部)の『例言』(昭和14年10月に外務省調査部第二課が記したもの)にも「三、朝鮮人及台湾人ハ其ノ多数カ在外帝国公館ニ対シ正規ノ登録ヲ為ササル為メ在留者ニ対スル適確ナル計数ヲ得難ク本調書ニハ現ニ登録済ミノ者人口ノミ掲記セリ」と書かれている。 ^ ただし満洲国には国籍法が存在しなかったため、法的な「満洲国民」は存在しなかった。満洲国#国籍法の不存在 を参照のこと。 ^ この概念の先駆は辻清明 である。第一論文「統治構造における割拠性の基因」の初出は『国家学会雑誌』58巻1号(昭和19年)、「新版・日本官僚制度の研究」1969年序ⅲ~ⅳページ。 ^ 西本筆、「文部行政の歴史的研究序説 」『北海道大学教育学部紀要』1990年2月 54巻 p.97-111(P.98), 北海道大學教育學部。 ^ 辻の階統制と割拠性についての解説としては 小西徳慶、「日本におけるセクショナリズムと稟議制の源流-「日本社会」論を前提として- 」『政經論叢』 2011年3月 79巻 3-4号 p.115-160NAID 120005258999 , 明治大学政治経済研究所。 ^ 政治の基本機構のあり方に関する調査小委員会(第五回)八木秀次 参考人[7] [8] ^ 大河内繁男、「統合調整機能の強化:総合管理庁講想と総務庁 」『上智法學論集』 1985年 28巻 1-3号 p.133-154,NCID AN00115768 , 上智大學法學會 ^ 第二次近衛内閣は松岡外相を罷免できないため総辞職したと注目されるが、直ちに第三次内閣を組織しており、事実上の内閣改造を行うことが出来、法制上で瓦解する義務があったわけではない。佐々木雄一「明治憲法体制における首相と内閣の再検討」(年報政治学、70巻、2019)[9] [10] P.257 ^ 中曽根康弘、石原慎太郎共著『永遠なれ日本』(PHP研究所 2001年)p.115 ^ 戦間期台湾地方選挙に関する考察 台湾研究フォーラム^ 第2版,世界大百科事典内言及, 日本大百科全書(ニッポニカ),百科事典マイペディア,ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典,旺文社世界史事典 三訂版,旺文社日本史事典 三訂版,デジタル大辞泉,世界大百科事典. “国際連盟とは ”. コトバンク . 2021年12月30日閲覧。 ^ Harrison, Mark (2000). The Economics of World War II: Six Great Powers in International Comparison . Cambridge University Press. p. 3. ISBN 9780521785037 . https://books.google.com/books?id=ZgFu2p5uogwC 2016年10月2日閲覧。 ^ 大日本帝国憲法 の制定は、明治憲法起草者の意図としては、日本古来の伝統的な不文憲法(「立憲独裁制」)が成文化され「立憲君主制」に改正されたものであると解釈され、帝国憲法は欽定憲法という点で建国以来の国体と法的に連続し、江戸時代の武家政権から政体は変わったものの、天皇独裁という日本の政治体制の根幹(国体 )は一貫して維持されてきたという結論と結びついたものと解釈されていた。穂積八束 「新憲法ノ法理及憲法解釈ノ心得」(上杉慎吉編、穂積八束博士論文集、大正2)[11] p.p.1-10。直接の引用は宇都宮純一『内田貴・法学の誕生 ─ 近代日本にとって「法」とは何であったか』を読む(金沢法学、筑摩書房2018.3)[12] PDF-P.12^ 日本国憲法公布の勅語(1946年11月3日) ^ 第107回参議院内閣委員会2号昭和61年10月30日飯田忠雄 (発言番号80) ^ 「政令201号の効力について(法務総裁説明)」昭和23年9月3日閣議決定[13] ^ タクシーの謎・・・なぜ大手4社は「大日本帝国」?(裏読みWave) - 日本経済新聞電子版(2013年10月25日)^ “東京四社営業委員会 ”. 東京四社営業委員会. 2023年9月12日閲覧。 ^ “外交史料 Q&A 昭和戦前期 ”. 2013年3月5日閲覧。 ^ “NHK NEWS WEB 『イースター島が日本に? 外交“公”文書が歴史を作る』(2018年4月26日) ”. NHK (2018年4月26日). 2020年1月25日時点のオリジナル よりアーカイブ。2018年4月28日閲覧。
思想・政策方針 天皇
象徴 政治 身分 政府
軍事
歴史
経済 領域
関連施設 1 :国土 では無い租借地 及び委任統治領 も含む。2 :「外地」という概念は共通法 上は用いられていなかった。3 :共通法上第1条では内地に包含されていた。だがその一方で、法的特例措置を設ける権限が1943年 まで与えられていた。カテゴリ