大宮 エリー(おおみや エリー、本名:大宮 恵里子〈おおみや えりこ〉[1]、1975年〈昭和50年〉11月21日[2] -2025年〈令和7年〉4月23日[3])は、日本の画家、脚本家、CMディレクター、映画監督、作家、エッセイスト、コピーライター、演出家、ラジオパーソナリティ。
大阪府生まれ。小学生の時に翻訳者だった父の転勤に伴い東京都に引っ越した[4][5]。品川区立延山小学校卒業[6]。
元々植物が好きであり、将来は「砂漠でも育つ植物」の研究をし地球を砂漠化から救いたかったという[7]。しかし、理系科目が苦手だったため、学校の先生から「お前は理系の大学に受からない」と言われた。その言葉に疑問を感じ、「数学が0点でも受かるところはないですか?」と質問したところ、「一つだけある。東大だ」[注 1]の言葉を受け、東京大学の受験を決意。桐蔭学園高等学校を卒業後に1年間の浪人を経て、東京大学理科二類に合格。入学後、教授から聞かされたところによると東大入試の数学は実際に0点だったという[8][9]。
植物の研究者を目指して東大に進学したが、在学中に薬の副作用で喘息になり発作に苦しんでいた父を治したいとの思いから薬学部への進学を目指すようになる[10][5]。
進学振分けを経て、念願の薬学部に進学。ところが、前期課程(1・2年次)の教養科目は演劇論や文系科目を多く選択していたため、薬学部の授業に全く付いていけなかった。化学式さえ分からず、研究用のマウスに注射を打つのも苦手であり、薬学は向いていないと考え、文系就職をするに至った[8][11]。
卒業前に薬剤師国家試験を受けるように言われたが、ちょうど受験日がリオのカーニバル当日だったことから「皆がカリカリ勉強しているのに、自分だけが地球の裏側で踊っていたら面白い」と思い、ブラジルに行っていた。そのため、薬剤師免許を持つことはなかった[12]。薬学は「向いていない」と感じ、転向[10]。
その後の就職活動に際しては、商社、自動車メーカー、ガス会社と数々受けて33社に落ちたが[10]、博報堂にOB訪問をしたのをきっかけに「言葉に関わる仕事ができる」広告代理店の仕事に魅力を感じ、電通に入社[13]。
電通に入社後、コピーライターとして従事するが7年で退職[5]。
2006年に独立し、個人事務所である大宮エリー事務所を立ち上げる。同年、初監督作品であるショートムービー『海でのはなし。』がヒットした[14]。
2010年6月29日に、はんにゃのピンチヒッターとして初の『大宮エリーのオールナイトニッポン』を放送。2010年9月16日、ナインティナインのピンチヒッターとして 2回目の放送。2回の単発放送を経てレギュラー化され、2011年1月3日から12月26日まで月曜日のパーソナリティを務めた。
2012年2月3日から2月27日まで、渋谷のPARCOミュージアムにて初めての個展「大宮エリー「思いを伝えるということ」展 造形と言葉のインスタレーション」が開催された。
2021年8月16日、マセキ芸能社との業務提携を発表した[15]。
2022年7月にカードの不正利用に遭うも、8月に全額を取り返すことができた[16]。この年、瀬戸内国際芸術祭2022の参加作品として犬島(岡山市東区)に作品「フラワーフェアリーダンサーズ」を設置。島に咲いていた花をモチーフにした高さ2メートルの立体作品[17]。
2025年4月23日、病気のため死去。49歳没。訃報は大宮エリー事務所が同年4月27日に発表した[3][18]。
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