この項目では、学校の一つについて説明しています。その他の用法については「大学 (曖昧さ回避) 」をご覧ください。
ボローニャ大学 における1350年代 の講義 風景を描いた写本 挿絵 。日本 の学習院大学 の正面玄関。日本を代表する国立大学 の東京大学 (安田講堂 ) 大学 (だいがく)は、学術 研究および教育 における高等教育機関 。
日本 の現在の学校教育制度 では、高等学校 もしくは中等教育学校 卒業者、通常の課程による12年の特別教育 を修了した者、またはこれと同等以上の学力 を有する者を対象に専門的な高等教育 を行うものとされている。学生の教育課程と修了要件の充足に応じて学位 (短期大学士 、学士 、修士 、専門職学位 、博士 )の学位 授与を行う(なお、学位の名称・定義も国や地域によって異なる)。大学は通例「最も程度の高い学問を学ぶ学校」とされ、最高学府ともいう[ 1] [ 注 1] 。
ルプレヒト・カール大学ハイデルベルク 大学 を単に高等教育機関と定義するならば、紀元前7世紀 創設のタキシラ の僧院 が最古の大学となる。タキシラ僧院では、学位に相当するものが卒業生に与えられていた。世界遺産 のタキシラ 遺跡がある現在のパキスタン のイスラマバード 北西にあったが、6世紀 に街とともに破壊された。古代インド にはかつて学問 の中心地として、タキシラ 、ナーランダ 、ヴィクラマシーラ 、カーンチプラム があったとされる。
紀元前387年 に古代ギリシア の哲学者 プラトン が作ったアカデメイア (アテーナイ )では、数学 、哲学 等が教えられており、十字軍 以降、イスラム世界 を通じて中世ヨーロッパ の大学成立に多大な影響を及ぼした。その他にもギリシアでは、ヒポクラテス の故郷コス島 に医学 校、ロドス島 に哲学の学校があり、アレクサンドリア には博物館 (ムーセイオン )と図書館 (アレクサンドリア図書館 )があった。
中国 では前漢 代の紀元前124年 に官吏養成学校である太学 が設立された。『漢書 』儒林伝に「夏 は校と曰い、殷 に庠と曰い、周 に序と曰う」とある。周代には辟雍 と呼んだともいう。『礼記 』王制篇には「天子命之教然後為學。小學在公宮南之左、大學在郊。天子曰辟雍、諸侯曰頖宮」とある。隋 代以降は国子監 が最高学府としての役割を担った。
5世紀 設立のナーランダ僧院 はインド のナーランダ県 に所在し、仏教 を中心とした学問研究で有名で、仏教だけでなく天文学などの知識も教授していた。学位に相当するものの授与のほかに、今の大学院 に相当するコースもあり、西域 、ペルシア 、アラブ世界 からも人々が学びに来ていた。地元の熱心な仏教徒らの寄進・布施によって運営費や学生らの食費などがまかなわれ、最盛期には学生の数はおよそ1万人、教師数1000人、蔵書数500万冊にも達しており(世界最大級)、建物群は仏教を大切にした歴代の王たちによって増築が重ねられ、キャンパスの広さはおよそ10km×5kmほどにも達し、中央には大きな塔もあった。12世紀頃のイスラム教徒による破壊まで続いた。
6世紀 にはサーサーン朝 ペルシャ にグンデシャープール大学 (ジュンディーシャープール )があった。
日本では、7世紀 の天智天皇 の治世に官僚 養成を目的とした「大学寮 」が創設された。
カロリング朝 では、シャルルマーニュ がアーヘン (現在のドイツ のノルトライン=ヴェストファーレン州 の街)に scola palatina (宮廷学校)という名の学校を作った。アカデミー・ブレクスガタ大学 (Brexgata University Academy) もカロリング朝指導者により、798年 、今のフランス のノワイヨン 近郊に設立された。学者、統治者、聖職者、シャルルマーニュ自身などが参加して、一般市民の教育について、統治者の子どもの(次世代の統治者としての)教育、統治、侵略者からの領地の防衛、浪費を防ぐ術など議論していた。これらの活動は大学 (universitas) の下準備となった。
ヨーロッパ における中世最初の大学は、849年 にビザンツ帝国 アモリア王朝 3代皇帝 ミカエル3世 の摂政 バルダス・マミコニアン (Bardas Mamikonian) によって建てられたコンスタンティノープル大学 (あるいはマグナウラ宮殿の大学)で(次代のマケドニア朝ルネサンス の先駆)、9世紀 にはサレルノ大学 が作られた。
988年 創設のアル=アズハル大学 (966年 設立のモスク に由来)はエジプト のカイロ に所在し、イスラーム法学 、プラトン 、アリストテレス など古代ギリシアの研究が行われ、大学院に相当するコースも行われていた。
大学を近代西欧語の大学(伊 :università 、英 :university 、仏 :université 、独 :Universität )という意味で捉えるならば、その歴史は12世紀 -13世紀 に始まる。もともとはラテン語の "universitas" (ウニベルシタス )を起源とし、学生のギルド(組合)から始まる。世界最初の校則は、学生のギルドから教師達への規則(「学生ギルドに無断で授業を休まない」「学生ギルドに無断で都市からでない」など)として作られた。その後、教師のギルドも作られ、連合体を意味するようになる。ギルド=組合を意味する大学は、学生間で上下関係がなく、日本語の訳語としては「大学」ではなく「組合」とした方が原義に近い[ 注 2] 。ウニヴェルシタスという語はもともと団体全般を指していたが、特に「教師と学生の団体」(Universitas societas magistrorum discipulorumque 大学ハ教師ト学生ノ組合ナリ)を指すようになった[ 2] 。
中世の大学の中でも最初期の代表的なものはイタリアのボローニャ大学 とフランスのパリ大学 である。ボローニャ大学は自由都市国家ボローニャ で生まれた。11世紀末以来、『ローマ法大全 』を研究したイルネリウス をはじめとして多くの法学者が私塾を開いていたボローニャは、法学校のある学都として有名になり、ここに各国から集まってきた学生たちが市民や市当局に対して自分たちの権利を守るために結束して作った組合が大学の起源である。この意味での大学は自然発生的に成立したものであるため、創立年を明確に示すことはできない[ 3] 。一方、12世紀のパリにはノートルダム司教座聖堂付属学校や聖ジュヌヴィエーヴ修道院付属学校をはじめとして多くの学校があり、アベラール もパリでよく講義を行っていた。12世紀末までにこれらの教師たちが権力者の介入に対抗して結集したのがパリ大学の始まりである。私塾の連合体としてのパリ大学がいつ成立したかを明確にすることはできないが、1200年にフランス王の勅許を得、1231年の教皇勅書『諸学の父』によって自治団体として認められた。イングランド のオックスフォード大学 とフランスのモンペリエ大学 もこのように自然発生した大学である[ 4] [ 注 3] 。こうした初期の大学では、何らかの事情により教師と学生が集団で他の都市に移住することがあり、それによってオックスフォード大学からケンブリッジ大学 が、パリ大学からオルレアン大学 が、ボローニャ大学からパドヴァ大学 が生まれた。さらにローマ教皇によってトゥールーズ大学 が、王権によってサラマンカ大学 やナポリ大学 が設立された。14世紀に入ると神聖ローマ帝国の領邦君主らによってプラハ大学 、ウィーン大学 、ハイデルベルク大学 が相次いで創設された。
中世の西ヨーロッパにおいて、大学は、神学部 (キリスト教 聖職者の養成)、法学部 (法律家 の養成)、医学部 (医師 の養成)の3つの上級学部と自由学芸 学部との4学部からなり、専門職 を養成することが大きな役割であった。12世紀から13世紀の間の社会の専門職化の増大に伴って、同様の要求が職業的聖職者に対しても増大した。12世紀以前には、ヨーロッパの知的生活は修道院 に託されていた。修道院は、もっぱら典礼 と祈りの研究に関わっており、少数の修道院が本当の知識人を誇ることができた。教会法 と秘蹟 の研究についてのグレゴリウス改革 の重点化に従って、司教は、教会法に基づいて聖職者を養成するための、さらに説教と神学的議論で使うための論理学や論争、より効果的に財務を管理するための会計学をふくむ教会運営のより世俗的側面においても聖職者を養成するための司教座聖堂学校を組織した。西方ラテン教会圏で中世末までに生まれた多くの大学は、カトリック教会 の後援により、教皇や世俗君主の主導で設立された。これらの大学は、ボローニャ大学やパリ大学が「自生的大学」であるのに対して、「創られた大学」と呼ばれる。
学習は、教会のヒエラルキー 内での昇進に不可欠になり、同じように教師は名声を集めた。しかしながら、需要はすぐに、本質的に一人の教師によって運営されていた司教座聖堂学校の容量を越えた。なお、そのうえ、司教座聖堂学校の学生とより小さい町の市民との間で緊張が高まり、司教座聖堂学校はパリ やボローニャのような大都市へ移転した。
13世紀に、教会における最高位の職務の約半数が修士学位所持者によって占められ(大修道院長、大司教、枢機卿)、次に高位の職務の三分の一以上が修士によって占められていた。加えて、中世最盛期の何人かの偉大な神学者、トマス・アクィナス 、ロバート・グロステスト は、中世の大学の出身者であり、スコラ学 はその産物といえる。中世の大学の発展は、ビザンツやユダヤの学者からのアリストテレスの広くいきわたった再導入や、アリストテレス主義の思想を支持してのプラトン主義や新プラトン主義 の人気の衰えと符合する。
中世の大学は、キャンパスを持たなかった。授業は教会や家のように場所が使える所ならどこでも行われ、大学は物理的な場所ではなく、学生のギルドと教師のギルドが1つにまとまった組合団体として互いに結び付けられた諸個人の集まりだった。この呼称で知られる高等教育機関としての大学は、まさに中世ヨーロッパの産物であり、それ以外の世界各地にあったという古代の教育機関とは直接的な関係はない。
大学は一般に、教師に給料を支払う者に依存する2つのタイプに従って構成されていた。最初にできたタイプはボローニャにおけるもので、学生が教師を雇い給料を支払う。第二のタイプはパリにおけるもので、教師は教会から給料を支払われる。この構造的な違いは他の特徴を作り出した。ボローニャ大学においては学生が全てを運営した。事実しばしば教師は大変な重圧と不利益のもとに置かれた。パリでは教師が学校を運営した。したがって、パリではヨーロッパ中からの教師にとって第一の場所になった。パリでは、教会が給料を払っていたので、主題的な事柄は神学だった。ボローニャでは、生徒はより世俗的な研究を選び、主な主題は法学だった。
大学の研究は学士号のために6年かかり、修士号や博士号のためにはさらに12年に及んだ。最初の6年は、リベラル・アーツ (=自由七科)(算術、幾何、天文、楽理、文法、論理、修辞)を研究する学芸学部 (faculty of the arts) に学んだ。当時ポピュラーな教授法だったスコラ学との緊密な結びつきがあるために、最も重視されたのは論理学だった。
ひとたび学士 (Bachelor of Arts) を取得すると、学生は修士や博士となるべく三つの学部―法学部、医学部、神学部―から1つを選ぶ。神学は学問のうち最も名望のある領域で、かつ最も難しい領域だった。
課程は主題やテーマによってではなく書物に従って設けられる。例えば、ある課程はアリストテレス の書物あるいは聖書 からの書物に基づいてあるかもしれない。課程は選択ではなく、課程の設置は固定され、全員が同じ課程をとらなければならなかった。しかし、どの教師が使用するかにしたがって臨時の選択があった。
学生は大学に14、5歳の時に入った。授業は、午前5時か6時の開始が普通であった。
学生は保護を与えられた。学生に特権を与えたのは、皇帝フリードリヒ・バルバロッサ の勅令ハビタ (英語版 ) によってである。だれも学生に肉体的な危害を与えることを許されず、学生は教会裁判所において犯罪のために審問されるのみであり、従っていかなる身体刑 からも免れていた。このことは学生に都市環境においてとがめなく世俗法を犯す自由を与えた。実際、多くの乱用がなされ、盗み、強姦、殺人は、聖職者でありながらもゆゆしい結果を直視しない学生の間では珍しくはなかった[ 5] 。このことは世俗的権威とともに不安な緊張へと導いた。学生は時々都市を去り何年も戻らないことによって「ストライキ」した。これは、(学生によって始められた)暴動が多数の学生を死に至らしめた後、1229年 のパリ大学でストライキにおいて起こった。学生はストライキしつづけ、二年間戻らなかった。学生は法律上も準聖職者として扱われ[ 6] [ 注 4] 、女性が大学に入学することは許可されなかった。12-13世紀には、大学から大学へ渡り歩いたり、ドロップアウトして浪々の身となった学生が方々で見られた[ 5] 。かれらは教会の定職を得られない放蕩無頼の聖職者で、ゴリアール または遍歴学生 (clerici vaganti) と呼ばれる。
大学の研究のためのポピュラーな教科書は、ペトルス・ロンバルドゥス の『命題集』と言われる。神学生や修士はカリキュラムの一部としてこの教科書について広範な注釈を書くことを要求された。哲学と神学における中世思想の多くは、スコラ的な文献注釈に見出される。なぜならスコラ学は非常にポピュラーな教育法だったからである。
ヨーロッパにおける国際的な卓越性をもつどの大学も神聖ローマ帝国 によって「ストゥディウム・ゲネラーレ 」(Studium Generale)として登録された。この施設の構成員は、異なったストゥディウム・ゲネラーレにおける講義課程をしばしば与えるので、ヨーロッパ中にかれらの知識を広めるよう奨励された。
ハーバード大学 ダラム大学 米国 では1636年 にハーバード大学 (最初はHarvard Collegeとして)が誕生する。
イギリス では、英国国教会 の主導の下、中世 のギルド 的な大学の伝統に従った貴族 による教育が大学で行なわれており、研究は民間のアカデミー で進められ、発表されていた。
フランス では、1806年 に、ナポレオン・ボナパルト によって、かつての地方大学が専門学校へと引き下げられ、新設された帝国大学(L'Université impériale )が指導監督し、国家が国民の教育にあたるというモデルが採用され、研究はやはりアカデミーで進められるものであった。
特に重要なのは、言語学者 でプロイセン の政治家 としても有名だったヴィルヘルム・フォン・フンボルト がその骨格をつくったベルリン大学 である。ベルリン大学は、国家からの「学問の自由」の標語の下に、研究者と学生が自主的な研究に基づき、真理と知識の獲得を目的として、法学 、神学 、医学 といった伝統的な学問領域を軸として、哲学 がこれら3つの学問のみならず、自然科学 を含めたすべて学問の理論的な研究を指導するというモデルを採用した。ベルリン大学は、研究 と教育 の一体化を図るとの革命 的な発想の転換により各国の大学のモデルとなり、その産業形成を支えた[ 注 5] 。19世紀に至ると、歴史学 、社会学 、教育学 、民俗学 など新たな学問分野が生じ、数学 、物理学 、化学 など既存の学問分野も急速な発展を遂げただけでなく、哲学 から心理学 、哲学史 が分離するなどして今日の大学の基本的な諸分野が、ほぼその骨格を現すことになった。
イギリス・アメリカでは大学院教育が重視されるようになる。ジョンズ・ホプキンス大学 はその代表的な大学である。
20世紀 になってからは、欧米 以外の世界の各国でも多くの大学が誕生してくるようになる。
ヨーロッパでは、人文科学 ・社会科学 ・自然科学 でも理論的な学問研究が、大学の主要学部とみなされた。また、経営学 や音楽 、美術 、工学 などでの単科大学 はやや差別的な位置づけをされていた[ 注 6] が、徐々に大学の構成学部として認知されるようになってきた。
21世紀 に入ると、情報科学 、社会福祉 、都市開発 などで従来にはなかったような新しいコンセプトの学部も、世界各国のそれぞれの国内事情に対応して誕生するようになってきた。
大学のガバナンス手法は国により異なるが、ガバナンスの全側面を単一の機関が担う単一制と、二つの機関が分掌する二元制の区別が見られる。ガバナンス機関としては、理事会(大学評議会 (英語版 ) や大学裁判所 (英語版 ) とも呼ばれる)と学術議会 (英語版 ) が主流である。単一制のガバナンスでは理事会のみが存在するケースが多く、二元制では理事会と学術議会が大学運営を分掌する[ 7] 。
世界的な類型には3種類あり、ナポレオン 型、フンボルト 型、アングロフォン 型である。ナポレオン型は大学を国家教育制度の一部として政府が統制し、フンボルト型は、学術的自律を重視し、研究と教育の統合を大学の使命の中心に据える。アングロフォン型は、市民大学の伝統に基づき、学外有識者が主導する統治機関を備えた独立機関としての大学を基本とする[ 8] 。
^ したがって、最高学府=東京大学 とすることは誤用である。 ^ 現在の法律概念でいうところの「社団 」にあたる。社団という概念はもともとはローマ教皇 の破門を契機とするアハト を回避するための概念であった。 ^ ただしハスキンスは、オックスフォード大学 は12世紀後半にパリ大学から枝分かれしたと述べている(『大学の起源』44頁)。 ^ 今日のカトリック教会では助祭 への叙階を以て聖職者となるが、当時は下級聖品に叙階された者も、広義には叙階を求めて剃髪した少年も聖職者の身分であった。大学の学生は下級聖品に叙階されたものであった (Richard Kiekhefer,Magic in the Middle Ages , Cambridge University Press, p. 153)。 ^ アメリカ合衆国のPh.D. の制度がその典型である。 ^ 例えば、ドイツ では単科大学を大学をいうUniversitätよりも格下、もしくは別種のものとしてHochschule(ホッホシューレ )として区別していた。高等教育#ドイツ 。 ^ “東大は「日本の最高学府」ではありません ”. INSIGHT NOW! (2007年10月31日). 2021年11月3日閲覧。 ^ C・H・ハスキンス 『大学の起源』 青木靖三・三浦常司訳、八坂書房、2009年、27-28頁。 ^ 『大学で学ぶ西洋史 [古代・中世]』 ミネルヴァ書房、246頁。 ^ 堀越宏一・甚野尚志編著 『15のテーマで学ぶ中世ヨーロッパ史』 279頁。 ^a b ロベール・ドスール 『中世ヨーロッパ生活誌』 桐村泰次訳、論創社、2014年、324-325頁。 ^ ロベール・ドスール 『中世ヨーロッパ生活誌』 桐村泰次訳、論創社、2014年、305頁。 ^ Enora Bennetot Pruvot; Thomas Estermann (3 July 2018). "University Governance: Autonomy, Structures and Inclusiveness". In Adrian Curaj; Ligia Deca; Remus Pricopie (eds.). European Higher Education Area: The Impact of Past and Future Policies. Springer. pp. 624–638.ISBN 9783319774077 . ^ Michael Shattock; Aniko Horvath; Jürgen Enders (2022). "The State and the Institutions". The Governance of European Higher Education: Convergence Or Divergence?. Bloomsbury Publishing. pp. 9–13.ISBN 978-1-350-29357-1 . C.H.ハスキンズ 青木靖三 著/三浦常司 訳 『大学の起源』(2009年、八坂書房) 吉見俊哉 『大学とは何か』(岩波新書、2011年)ウィキメディア・コモンズには、
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