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外木場義郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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(2022年5月)
外木場 義郎
「CARP Legend Game 2022」に出場した外木場
(2022年3月21日、MAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島
基本情報
国籍日本の旗日本
出身地鹿児島県出水市
生年月日 (1945-06-01)1945年6月1日(80歳)
身長
体重
175 cm
78 kg
選手情報
投球・打席右投右打
ポジション投手
プロ入り1965年
初出場1965年4月21日
最終出場1979年10月14日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
コーチ歴
野球殿堂(日本)
殿堂表彰者
選出年2013年
得票率76.3%(29票)
選出方法競技者表彰(エキスパート部門)
この表について
この表はテンプレートを用いて表示しています。編集方法はTemplate:Infobox baseball playerを参照してください。

プロジェクト:野球選手  テンプレート

外木場 義郎(そとこば よしろう、1945年6月1日 - )は、鹿児島県出水市出身の元プロ野球選手投手)・コーチ解説者

現役時代は、セントラル・リーグ(セ・リーグ)の広島カープでエースとして活躍、1975年には球団史上初のリーグ優勝に貢献した。2リーグ制以降のプロ野球で、3回のノーヒットノーラン(うち完全試合1試合)を達成した唯一の投手である。

来歴

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薩摩郡東郷町(現・薩摩川内市)にて5人きょうだいの3番目として生まれた。父親がバス会社の事務職をしていていた為転勤族であった。現さつま町の盈進小学校時代に遊びでソフトボールを始める。出水市に転居し出水市立出水中学校に入学後、野球部監督の上垣侃から誘われ、この時に小学生の頃から好きだった野球を始めた。最初は野手だったが、強肩を買われて中学1年の終わり頃に投手に転向。この時にカーブを習得した[1]

高校は県内の各強豪校から勧誘があったが、野球のために勉強がおろそかになってはいけないとして、地元の進学校・鹿児島県立出水高等学校に進学。1学年先輩の野村投手との二枚看板で1・2年時は3度の県大会準優勝に貢献。1963年、3年生ではチームの大黒柱となり、夏の県大会で準々決勝、準決勝ともに完投勝利。同年の夏の甲子園県予選で決勝に進出するが、鹿児島高のエース・竹之下五十三(のち西鉄)と投げ合い0-1で惜敗、甲子園出場を逃した[1]。卒業後は電電九州に進み[2]。、1964年都市対抗に出場。1回戦でリリーフとして登板するが、北海道拓殖銀行に敗れた。

村山実に憧れを抱き[3]阪神タイガースのスカウトが来ていたら必ず入団していたとされるが阪神からの誘いはなかった[2]。そして広島カープ大洋ホエールズ近鉄バファローズ東映フライヤーズの4球団からプロ入りの打診を受ける。結局、セ・リーグ希望であったことと、九州地方出身者が多かった理由[4]、また同じ鹿児島県日置市出身で当時広島に所属していた投手の鵜狩道夫から誘いの電話をもらったことで[2]、1964年9月に広島へ入団。

入団当時、外木場は曲がり落ちるカーブに自信を持っていたが、直球もエースの大石清を除けば引けを取るとは思わなかった。一方で、社会人野球時代は制球力に自信を持っていたがプロ入り後は周りに負けたくないとの気負いが力みに繋がり、制球がままならなくなってしまったという[5]。投手コーチの藤村隆男は体力を付けるためにランニングを重視し、投球練習が終わると、野手の打撃・守備練習が終わるまでひたすら走らされた。しかし、この時の走量がのちの自分を作ったと外木場自身が回想している[6]

1965年10月2日に膝を痛めた大羽進に代わり急遽登板[7]。そのプロ2度目の先発となった阪神戦で、外木場は憧れの村山と投げ合って僅か1四球を与えただけのノーヒットノーランでプロ初勝利を飾った[3]。新人選手のノーヒットノーランは過去3人目であったが、初勝利と同時の記録は史上初めてであった[8]。この年は閉幕までにもう1勝を挙げるが、以後2年間は0勝、2勝と伸び悩んだ。

1967年オフにはトレードの噂も出るようになったため、外木場は呼び出された際に新監督の根本陸夫に真意を問うたところ、発破をかけるために呼んだとして「来季も一軍でやってもらう」との返事があった[6]。後日、「あの人が監督として広島に来なかったら、自分はどうなっていたことか」などとして、根本を「一番の恩師」と呼んで感謝の思いを語っている[9]

1968年になると、それまでのランニングが実を結んで下半身が安定し、春のキャンプからオープン戦にかけて自分でも驚くほど制球力が向上して直球のスピードが増した[6]。この年、外木場は根本監督から安仁屋宗八とともに先発の柱を任せられる[要出典]。シーズン2度目の先発となった4月14日大洋戦で完封勝利を収めるとそのまま波に乗り、21勝、防御率1.94の好成績を挙げて最優秀防御率のタイトルを獲得する。23勝を挙げた安仁屋とともに、広島の史上初のAクラス入りに大きく貢献した。また、同年の9月14日の大洋戦では2回目のノーヒットノーランを完全試合で達成、この試合ではリーグタイ記録となる16奪三振も記録している[10][注釈 1]

その後も先発投手の軸として活躍し、1976年までの9シーズンで8度の二桁勝利を記録する。

1972年4月29日巨人戦では史上2人目となる3回目のノーヒットノーランを達成する[11]。プロ野球史上、3度のノーヒットノーランを達成したのは沢村栄治と外木場の二人のみであり、2リーグ制以降の投手としては唯一の達成者である[3]

1974年は18勝、防御率2.82(リーグ7位)の好成績を挙げた。

1975年の春のキャンプを前に、外木場は新監督のジョー・ルーツに呼ばれ41試合の登板と最低でも20勝を求められる[12]。ルーツからは、オープン戦に入るまで投げ込みは3,4日に一度、オープン戦に入ってからは公式戦と同じ中三日の登板パターンを作る、なるべく無駄な投球はせず肩を大事にする、などアメリカ式合理主義を叩き込まれた[13]。ルーツは4月末に退任するが、外木場は投手陣の柱として20勝を挙げ、チーム初優勝に大きく貢献するとともに最多勝最多奪三振沢村賞のタイトルを獲得した。同年の阪急ブレーブスとの日本シリーズでは第1戦に先発。1回に3点を先制されるが、その後は9回途中まで好投し延長13回引き分けに持ち込んだ。外木場も第4戦でも先発として起用され、延長13回を投げきるがまたもや引き分けに終わった。

1976年後楽園球場が人工芝となった記念でシーズン開幕前に12球団トーナメント戦が開催されることになり、気温に低い時期での登板は出来ず、首脳陣に登板回避を訴えるも受け入れられず、霧雨の中での投球を続けたところ、右肩の肩板を損傷した[14]。その年は誤魔化しながらも、10勝を挙げる。

その後は、全国各地の病院を回るも、仮に手術しても打撃投手並みのボールしか投げられなくなると診断され、手術には踏み切らず、1979年オフ、当時西武ライオンズ監督で、広島時代の恩師であった根本より「やれるだけやれるって見ないか?」と誘いを受けるが、妻のカープで終わるのもいいんじゃないかという言葉を受け、現役引退した。

引退後は、1980年から1990年は同球団の二軍投手コーチを務めた。土井正三に請われ[15]1991年から1993年までオリックス・ブルーウェーブ二軍投手コーチ、1994年から1995年までカープアカデミーのコーチ、1996年から1999年は再び広島の二軍投手コーチを務めた。一度も一軍のコーチはせず、一貫して二軍のコーチを務めた。

2000年から2005年までは中国放送解説者を務め、2006年からは広島市のプロ育成野球専門学院で後進の指導に当たっていた。外木場はこの際、アマチュア野球を統括する日本野球連盟の規定により引退から25年経った2004年自由契約の手続きを取ったために話題となった。

2013年にエキスパート部門表彰で野球殿堂入りした[16]

2015年~2023年まで、NHKラジオ第一「おはよう中国」(中国地方ローカル月曜~金曜 7:40~7:58)のプロ野球情報(不定期)のコーナー担当(電話出演)を務める。

プレースタイル

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外木場はオーバースローからの豪速球と縦に鋭く割れるカーブを武器とした[17]。外木場の投げるカーブは、堀内恒夫などに見られるタイミングを外すカーブとは異なり、メジャーリーグにおいて "power curve" と呼ばれる、曲がりの鋭さで打者を翻弄するものであった。高橋慶彦によると、外木場のカーブの切れは凄まじく、高田繁巨人)が面食らって尻もちをついたことがあるという[18]

田淵幸一への頭部死球~耳あて付きヘルメットの義務化へ

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1970年8月26日の対阪神戦(甲子園)で、外木場は当時2年目だった田淵幸一の左こめかみに死球を与え、田淵は耳から流血して救急車で病院に搬送された[19]。このシーズン、外木場は田淵に12打数6安打4本塁打とカモにされていて、田淵を苦手にしている外木場からすれば、「胸元の厳しいところを突かなければ抑えられない」というプレッシャーがあった[19]。この試合の最初の打席も、ヒジに死球を与えていた。なお、これ以降、外木場は田淵に対して内角高めを攻めきれなくなってしまったという[14]

この一件は球界に大きな衝撃を与え、耳あて付きのヘルメットが義務化となった[19]。しかし、この措置に衣笠祥雄は、「耳あて付きのヘルメットをかぶると視界が遮られ、逆に頭部付近のボールから逃げられなくなる」と主張。機構側も衣笠の主張を一部認め、プロで一定年数を満たした選手に限り、耳あて無しのヘルメットの着用が許可されたという[19]王貞治も同様の理由で耳あて無しのヘルメットを着用していたとされる[19]

人物・エピソード

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外木場は気性の強い選手であり、ノーヒットノーランを初めて達成した時のインタビューで「こういう記録を達成した人は意外と短命」との記者からの声に「何ならもう一度やりましょうか」と答え[3][20]、後に二度も達成することになった。外木場が完全試合を達成した日の試合は、後に広島で捕手として入団する達川光男が球場で観戦していた[21]

詳細情報

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年度別投手成績

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W
H
I
P
1965広島16721121----.66719051.130112103400981.410.82
196625200001----.00013332.12651101231014133.661.14
1967221020023----.40030178.15051714572026232.650.86
1968454019622114----.6001169302.11982283662602078651.940.93
1969433915111120----.3551216304.122624844922322101912.691.02
1970393013421314----.481893228.116928496111573074672.640.95
19713721200912----.429665155.114520475101131080673.891.24
1972412911311115----.423936230.22002360271581093863.351.13
1973443110301219----.387998249.01992374451600181732.641.10
19744638214218163--.5291236310.125934856919600105972.821.11
19754140173220130--.6061174287.024029897919330105942.951.15
197625236201050--.667607144.1136195212863071633.941.30
197765000120--.3339921.1262100141014135.571.69
1978143000130--.25011023.12241812141017155.871.71
197910000000------31.000000000000.000.00
通算:15年44531811827111311383--.48797302419.11926239691447616782038687752.881.08
  • 各年度の太字はリーグ最高

タイトル

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表彰

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記録

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初記録
  • 初登板:1965年4月21日、対読売ジャイアンツ2回戦(広島市民球場)、9回表に5番手で救援登板・完了、1回無失点
  • 初奪三振:1965年9月5日、対読売ジャイアンツ21回戦(広島市民球場)、8回表に須藤豊から
  • 初先発:1965年9月23日、対サンケイスワローズ26回戦(広島市民球場)、2回2/3を無失点
  • 初勝利・初完投勝利・初完封勝利:1965年10月2日、対阪神タイガース20回戦(阪神甲子園球場) ※ノーヒットノーラン(後述参照)
  • 初セーブ:1974年6月12日、対阪神タイガース10回戦(阪神甲子園球場)、9回裏に2番手で救援登板・完了、1回無失点
  • 初本塁打:1968年7月10日、対読売ジャイアンツ13回戦(後楽園球場)、高橋明からソロ本塁打(通算2本塁打)
節目の記録
その他の記録
  • ノーヒットノーラン:3回 ※史上33人目(3度の達成は史上2人目)
    • 1965年10月2日、対阪神タイガース20回戦(阪神甲子園球場) ※史上41度目
    • 1968年9月14日、対大洋ホエールズ18回戦(広島市民球場) ※史上49度目(史上10人目の完全試合)
    • 1972年4月29日、対読売ジャイアンツ2回戦(広島市民球場) ※史上57度目
  • オールスターゲーム出場:6回 (1968年 - 1970年、1972年、1974年、1975年)

背番号

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  • 38 (1964年9月に入団直後の対阪神オープン戦のみ)[22]
  • 14 (1965年 - 1979年)
  • 73 (1980年 - 1993年)
  • 80 (1996年 - 1999年)

関連情報

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出演番組

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脚注

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注釈

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  1. ^この記録は、2022年佐々木朗希千葉ロッテマリーンズ)が完全試合で19奪三振を記録するまで、NPBにおける「ノーヒットノーランでの最多奪三振記録」でもあった[3]

出典

[編集]
  1. ^ab阪神の村山実に憧れた…沢村賞投手、元広島・外木場義郎。強豪校の誘いを蹴り、公立の進学校から甲子園を目指した。あと一歩だった”. 南日本新聞 (2026年1月27日). 2026年1月29日閲覧。
  2. ^abc入るならセ・リーグ。長嶋茂雄、王貞治相手に投げるチャンスがある…ドラフトがない時代。沢村賞投手・外木場義郎は鵜狩道夫の誘いで広島入りを決めた”. 南日本新聞 (2026年1月28日). 2026年1月29日閲覧。
  3. ^abcde小林雄二 (2022年4月27日). “球団唯一の完全試合を達成した外木場義郎。生涯3度の“ノーノー”はプロ野球史上最多【カープ歴代記録列伝#2~完全試合含む3度のノーヒットノーラン~】”. HIROSHIM ATHLETE MAGAZINE WEB. https://www.hiroshima-athlete.com/articles/-/3036 2022年5月22日閲覧。 
  4. ^松永郁子 2002, p. 140.
  5. ^Number(編) 1986, p. 169.
  6. ^abcNumber(編) 1986, p. 170.
  7. ^高橋安幸 (2019年11月28日). “カープ伝説のエース・外木場義郎が 明かした「完全試合」達成の心境|プロ野球|集英社 スポルティーバ 公式サイト web Sportiva page2”. web Sportiva. 2021年11月5日閲覧。
  8. ^松永郁子 2002, p. 141.
  9. ^「トレード? お前は先発ローテーションの投手だ」…次期監督・根本睦夫の言葉が敗戦処理の広島・外木場義郎を変えた 1968年の21勝、完全試合へ”. 南日本新聞 (2026年1月30日). 2026年2月1日閲覧。
  10. ^松永郁子 2002, p. 145.
  11. ^【4月29日】1972年(昭47) 伝説の右腕と2人だけ 外木場義郎3度目の大記録 - スポニチArchived 2015年12月17日, at theWayback Machine.
  12. ^Number(編) 1986, p. 167.
  13. ^Number(編) 1986, p. 168.
  14. ^abNumber(編) 1986, p. 172.
  15. ^野村貴仁『再生』角川書店、2016年、p.74
  16. ^“広島で活躍の大野、外木場氏が殿堂入り”. サンケイスポーツ. (2013年1月11日). https://megalodon.jp/2013-0111-1644-47/www.sanspo.com/baseball/news/20130111/npb13011116260003-n1.html 2013年1月11日閲覧。 
  17. ^カープ伝説のエース・外木場義郎が明かした「完全試合」達成の心境
  18. ^【真相告白】年間被本塁打数歴代1位!池谷さん本人が納得の理由を語ってくれました【池谷公二郎】【沢村賞投手】【広島カープ】【カープOBを回る旅】 - YouTube
  19. ^abcde二宮清純「田淵幸一、“頭部死球”の産物」”. 現代ビジネス (2013年6月7日). 2020年8月14日閲覧。
  20. ^高橋安幸 (2019年11月28日). “カープ伝説のエース・外木場義郎が 明かした「完全試合」達成の心境 (3/6ページ)”. web Sportiva. 2021年11月5日閲覧。
  21. ^【達川光男連載#5】見せ場のない捕手はつまらない「なんでこんなことせにゃあ、いけんのや」”. 東スポWEB (2024年1月30日). 2024年1月31日閲覧。
  22. ^迫勝則『カープ不朽のエース物語』南々社、2025年6月23日。 

参考文献

[編集]

関連項目

[編集]

外部リンク

[編集]
 
業績
競技者表彰
1960年代
1970年代
1980年代
1990年代
2000年代
プレーヤー
2000年代
2010年代
2020年代
エキスパート
2000年代
2010年代
2020年代
特別表彰
1950年代
1960年代
1970年代
1980年代
1990年代
2000年代
2010年代
2020年代
新世紀
2000年代
1940年代
1950年代
1960年代
1970年代
1980年代
1990年代
2000年代
2010年代
2020年代
1947年制定。記述のない年は該当者なし。
1950年代
1960年代
1970年代
1980年代
1990年代
2000年代
2010年代
2020年代
20世紀
21世紀
1930年代
1940年代
1950年代
1960年代
1970年代
1980年代
1990年代
2000年代
2010年代
2020年代
脚注

ノーヒットノーラン達成投手のみ記載。
完全試合達成投手についてはTemplate:日本プロ野球完全試合達成者を参照。

1950年代
1960年代
1970年代
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1960年代
1970年代
1980年代
1990年代
2000年代
2010年代
2020年代
1991年にタイトル制定
1960年代
1970年代
1980年代
1990年代
2000年代
2010年代
 
セントラル・リーグ ベストナイン(1回)
1950年代
1960年代
1970年代
1980年代
1990年代
2000年代
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2020年代
1950年代
1960年代
1970年代
1980年代
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2010年代
2020年代
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