1898年 | |
| 人物情報 | |
|---|---|
| 生誕 | (1848-10-23)1848年10月23日(嘉永元年9月27日) 武蔵国江戸小石川柳町(現東京都文京区) |
| 死没 | (1900-03-08)1900年3月8日(51歳没) |
| 国籍 | |
| 出身校 | ミシガン大学文理学部(選科生) |
| 学問 | |
| 研究分野 | 英学、社会学 |
| 研究機関 | 東京大学文学部→帝国大学文科大学→東京帝国大学文科大学 |
| 学位 | 文学博士(日本・1888年) |
| 称号 | ミシガン大学名誉文学修士(1886年)[1] 東京帝国大学名誉教授(1900年) |
| 主要な作品 | 『丶山存稿』(1909年) |
| 学会 | 東京学士会院 哲学会 |
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| 外山 正一 | |
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| 内閣 | 第3次伊藤内閣 |
| 在任期間 | 1898年4月30日 -6月30日 |
| 選挙区 | (勅選議員) |
| 在任期間 | 1890年9月29日[2] -1900年3月8日 |
| 在任期間 | 1892年 -1895年 |
牛込区会議員[4] | |
| 在任期間 | 1889年11月 -1897年12月10日 |
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外山 正一(とやま まさかず、1848年10月23日〈嘉永元年9月27日〉 -1900年〈明治33年〉3月8日)は、明治時代の日本の社会学者、教育者。文学博士。号は
東京帝国大学(現東京大学)文科大学長・総長、貴族院議員、文部大臣を歴任した。
父は家禄220俵の旗本で幕府講武所歩兵指南役の外山忠兵衛正義。江戸の小石川に生まれる。幼名は捨八。家族は武芸での功名を望んだが、正一は学問で頭角を表し、13歳で蕃書調所で英語を学び、1864年には16歳にして開成所教授方になるほど、若くしてその英才を謳われる。

勝海舟の推挙により1866年(慶応2年)、中村正直らとともに幕府派遣留学生として渡英、イギリスの最新の文化制度を学ぶ。幕府の瓦解により1868年(明治元年6月)帰国[5]。主家徳川氏の駿府移封に従い静岡学問所教授を務めていたが、抜群の語学力を新政府に認められ、1870年(明治3年)、外務省弁務少記に任ぜられ、森有礼少弁務使の秘書として、南北戦争後の復興期アメリカへ赴任した。1871年(明治4年)、現地において外務権大録になるも、1872年に辞職。奨学金を得てミシガン州アナーバー・ハイスクールを経て、1873年にミシガン大学に入学[6]。哲学と理学を専攻し、1876年(明治9年)に帰国した。
帰国後は官立東京開成学校教授に就任。1877年(明治10年)、同校が東京大学(後の東京帝国大学)に改編されると日本人初の教授となった。ミシガン大学で進化論の公開講義を受けた縁で、エドワード・S・モースを東京大学に招聘した。幕末期から明治初期にかけて欧米で学んだ外山の新知識は当時の政府には重要であった。しかし彼の講義は徹頭徹尾スペンサーの輪読に終始した。これに対し学生たちより『スペンサーの番人』と揶揄された[7]。
1882年(明治15年)、同僚の矢田部良吉、井上哲次郎とともに『新体詩抄』を発表。いずれも習作の域を出ないが、従来の和歌・俳句と異なる新時代の詩の形式を模索し、近代文学に多大な影響を及ぼした。
1887年(明治20年)、東京学士会院会員に任命され、1888年(明治21年)5月には学位令に基づき、小中村清矩、重野安繹、加藤弘之、島田重礼とともに日本初の文学博士となる。
1889年(明治22年)、元良勇次郎(元東大教授)、神田乃武(元東京高商教授)とともに、芝に正則予備校(現在の正則高等学校)を開設。
日本語のローマ字化推進のため「羅馬字会」を結成して漢字や仮名の廃止を唱え、九代目市川團十郎や依田学海らが実践していた演劇改良に参加、西洋列強と伍するためには教育の向上が必要であり、そのためには女子教育の充実と公立図書館の整備を訴えるなど、明治の教育文化活動において幅広く活躍した。また、1899年の読売新聞懸賞東洋歴史画題募集では、外山の「素戔嗚尊」が第一等とされた[8]。
晩年は東京帝大文科大学長(現在の東大文学部長)を経て同総長・貴族院議員、第3次伊藤博文内閣の文部大臣などを歴任。
1900年(明治33年)3月8日、中耳炎からの脳症により死去、享年51。なお前日には日本で初めて、勅旨を以て東京帝国大学名誉教授の称号を授与された(改正帝国大学令第13条に依る)[9]。墓所は谷中霊園。
著作活動も盛んで、『演劇改良私案』(1886)、『日本絵画の未来』(1890)、『日本知識道徳史』(1895)他多数の著書を残し、唱歌『皇国の守り』の作詞(作曲は伊沢修二)も手がけた。

| 学職 | ||
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| 先代 (新設) | 1897年 帝国大学文科大学長 1886年 - 1897年 東京大学文学部長 1881年 - 1886年 | 次代 井上哲次郎 |
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