| 塩川 正十郎 しおかわ まさじゅうろう | |
|---|---|
| 生年月日 | (1921-10-13)1921年10月13日 |
| 出生地 | |
| 没年月日 | (2015-09-19)2015年9月19日(93歳没)[1] |
| 死没地 | |
| 出身校 | 慶應義塾大学経済学部経済学科卒業 |
| 前職 | 三晃代表取締役社長 布施青年会議所理事長 布施市助役 弘容信用組合常務理事 日本武道館会長 東洋大学理事長・総長 関西棋院理事長 自由国民会議代表 国民政治協会会長 |
| 所属政党 | 自由民主党(森派) |
| 称号 | 正三位 東大阪市名誉市民 経済学士(慶應義塾大学・1944年) |
| 親族 | 父・塩川正三(元布施市長) 孫・塩川憲史(大阪府議会議員) |
| 公式サイト | 塩川正十郎の政見(2003年2月2日時点のアーカイブ) |
| 内閣 | 第1次小泉内閣 第1次小泉第1次改造内閣 |
| 在任期間 | 2001年4月26日 -2003年9月22日 |
| 内閣 | 宮澤内閣 |
| 在任期間 | 1991年11月5日 -1992年12月12日 |
| 内閣 | 宇野内閣 |
| 在任期間 | 1989年6月3日 - 1989年8月10日 |
| 内閣 | 第3次中曽根内閣 |
| 在任期間 | 1986年9月9日 -1987年11月6日 |
| 内閣 | 鈴木善幸内閣 |
| 在任期間 | 1980年7月17日 -1981年11月30日 |
その他の職歴 | |
(福田赳夫内閣) (1976年12月24日 -1977年11月28日) | |
(旧大阪4区→) 大阪13区 当選回数 11回 (1967年1月30日 -1996年9月27日) (2000年6月26日 - 2003年10月10日) | |
総裁:橋本龍太郎 (1995年 -1996年) | |
総裁:海部俊樹、宮澤喜一 (1990年3月 - 1991年11月) | |
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塩川 正十郎(しおかわ まさじゅうろう、1921年〈大正10年〉10月13日 -2015年〈平成27年〉9月19日[2])は、日本の政治家。位階は正三位。
自由民主党から立候補し衆議院議員(11期)。この間財務大臣(第2代)、自治大臣(第42代)、国家公安委員会委員長(第52代)、内閣官房長官(第50代)、文部大臣(第108代)、運輸大臣(第52代)、自由民主党総務会長などを歴任。
財団法人国民政治協会(自民党の政治資金団体)会長、財団法人自由国民会議(同党の党友組織)所属。
その他、東洋大学総長、財団法人関西棋院理事長、特定非営利活動法人武士道協会理事長、『ベストヒット歌謡祭』(旧『全日本有線放送大賞』)実行委員会名誉会長なども務めた。
愛称は「塩爺」(しおじい)。
大阪府中河内郡布施村(現在の東大阪市)で生まれる。父は旧布施市市長の塩川正三で、大阪府立八尾中学校(現大阪府立八尾高等学校)出身。郷里の高等学校にでも進学するつもりだったところ、父から「田舎の学校へ行ったってしょうがない。都会の、それも慶應へ行け。慶應へ行くんだったら、経済じゃないか。それ以外は、あかんぞ」と言われ慶應義塾大学経済学部経済学科へ入学[3]。在学中、学徒出陣により出征する。大学では高橋誠一郎の講義を熱心に聴講し、登山にも熱中した。
終戦後、会社を設立し経営者となる。1957年(昭和32年)布施市青年会議所理事長、1958年(昭和33年)弘容信用組合理事、1964年(昭和39年)布施市役所の助役[4]、東大阪市合併協議会事務局長[5]を経て1967年(昭和42年)の第31回衆議院議員総選挙で旧大阪4区から立候補し当選、衆議院議員となる(当選同期に山下元利・増岡博之・河野洋平・中尾栄一・藤波孝生・武藤嘉文・坂本三十次・塩谷一夫・山口敏夫・水野清など。)。当選後は福田派に入会し、福田赳夫内閣の発足時には内閣官房副長官に抜擢された。

党内では森喜朗、三塚博、加藤六月らと共に安倍派四天王と称され、安倍晋太郎の総裁就任が悲願だった。税制など経済政策に精通しており、地価税を導入した時の党税調会長として知られる。塩川も鈴木善幸内閣で運輸大臣として入閣したのを皮切りに文部大臣(第3次中曽根内閣)、内閣官房長官(宇野内閣)、自治大臣・国家公安委員会委員長(宮澤内閣)を務めた。選挙では中選挙区時代に10回連続当選したが、小選挙区比例代表並立制導入後初めての選挙である第41回衆議院議員総選挙では重複立候補を辞退し、大阪13区から立候補した。しかし、新進党の新人である西野陽に破れ、現職の党総務会長ながら落選の憂き目を見る。2000年の第42回衆議院議員総選挙で当選し、国政に復帰した。
2001年自由民主党総裁選挙で森派の後輩・小泉純一郎の選対本部長を務める。塩川も同選挙に立候補していた亀井静香に「もともと亀井君も同じ清和会にいたんだから、この際、小泉にしてやってくれんかね」と頼み、そこで亀井は議員投票の前に小泉と9項目の政策協定を結んで辞退した(しかし9項目の1つにあった人事は両派で相談して決めるという項目がいきなり反故にされた)[6]。塩川はその後、成立した第1次小泉内閣で財務大臣に就任した。最重要ポストの財務相には財界人などの名が取り沙汰されており、塩川の就任は全くの予想外で、女性・民間人・若手を多く起用して「驚天動地」と評された人事の中で逆にサプライズの一つとされた[7]。金融実務や党税調会長の経験を生かし、小泉構造改革の旗振り役を務めた。第1次小泉第1次改造内閣でも留任、第1次小泉第2次改造内閣発足時に退任すると第43回衆議院議員総選挙にも立候補せず、政界から引退する。
「塩爺」で第18回新語・流行語大賞のトップテン入りとなる[8]。
小泉首相とは「30年来の朋友」(2001年の小泉内閣メールマガジン)という間柄で[注 1]、青木幹雄と組んで党内融和を説く森元首相とは一線を画し、小泉首相の後見人として影響力を行使した。
日本相撲協会運営審議委員会委員、東洋大学総長、財団法人尾崎行雄記念財団顧問、財団法人国民政治協会会長、自由国民会議代表、時代を刷新する会会長(三代目)、ベストヒット歌謡祭実行委員会名誉会長を務めた。また『産経新聞』にて毎月第3木曜日にコラム「塩爺のよく聞いてください」(2008年4月 - 2013年2月)を連載していた。
2004年には東洋大学において国際交流ならびに外国人留学生の育成を対象とした奨学金『塩川正十郎奨学金』を創設した[9]。
2015年9月19日午前10時15分、肺炎のため大阪市内の病院で死去した[1][10]。93歳没。塩川の葬儀では小泉元首相が弔辞を読み上げた。日本国政府は、塩川に正三位追叙と銀杯一組の追贈を閣議決定した[11]。

群馬県邑楽郡板倉町にある東洋大学板倉キャンパス内に塩川正十郎の銅像が、東京都文京区にある東洋大学白山キャンパス内に胸像がある。これは、塩川が同大学の理事長を務めたことによるもの。なお、塩川は他界するまで東洋大学総長を務めた。
父は旧布施市市長の塩川正三。大阪大学名誉教授(応用化学)の塩川二朗は弟。長男の塩川耕士は近鉄バス社長[20]。孫の塩川憲史は大阪府議会議員。
塩川家は和歌山県の粉河寺が所有する国宝の粉河寺縁起絵巻に登場する長者の末裔とされており[21]、粉河寺の山門には正三の名義で寄進が行われたことを示す石碑がある。
甥の一人は大学で一気飲みを強要された後、急性アルコール中毒で急死した。朝日新聞への投書でこの風潮に問題提起している[22]。
| 議会 | ||
|---|---|---|
| 先代 橋口隆 | 1979年 - 1980年 | 次代 野中英二 |
| 公職 | ||
| 先代 宮澤喜一 | 第2代:2001年 - 2003年 | 次代 谷垣禎一 |
| 先代 吹田愰 | 第42代:1991年 - 1992年 | 次代 村田敬次郎 |
| 先代 吹田愰 | 第52代:1991年 - 1992年 | 次代 村田敬次郎 |
| 先代 小渕恵三 | 第50代:1989年 | 次代 山下徳夫 |
| 先代 藤尾正行 | 第109代:1986年 - 1987年 | 次代 中島源太郎 |
| 先代 地崎宇三郎 | 第52代:1980年 - 1981年 | 次代 小坂徳三郎 |
| 先代 鯨岡兵輔 | 1976年 - 1977年 | 次代 森喜朗 |
| 党職 | ||
| 先代 武藤嘉文 | 自由民主党総務会長 第37代:1995年 - 1996年 | 次代 森喜朗 |
| 先代 西岡武夫 | 自由民主党税制調査会長 1990年 - 1991年 | 次代 武藤嘉文 |
| 学職 | ||
| 先代 田中栄次 | 東洋大学理事長 第23-27代:1988年 - 2000年 | 次代 菅野卓雄 |
| その他の役職 | ||
| 先代 山口信夫 | 第10代:2009年 - 2015年 | 次代 大橋光夫 |
| 先代 細田吉蔵 | 第3代:2007年 - 2015年 | 次代 臼井日出男 |
| 先代 坂本三十次 | 第7代:1998年 - 2007年 | 次代 松永光 |
国民政治協会会長 | |
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