| 塩川正三 しおかわ しょうぞう | |
|---|---|
| 生年月日 | 1893年8月22日 |
| 出生地 | (現・大阪府東大阪市) |
| 没年月日 | (1958-03-06)1958年3月6日(64歳没) |
| 出身校 | 大阪府立八尾中学校卒業 (現・大阪府立八尾高等学校) |
| 前職 | 実業家 |
| 所属政党 | 自由党 |
| 子女 | 長男・塩川正十郎 |
| 当選回数 | 3回(公選1回) |
| 在任期間 | 1937年7月10日 -1938年7月12日 1946年1月11日 -1947年3月10日 1947年4月5日 -1951年4月4日 |
布施町長 | |
| 在任期間 | 1932年7月 - 1937年3月 |
布施町会議員 | |
| 在任期間 | 1929年 - ? |
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塩川 正三(しおかわ しょうぞう、1893年〈明治26年〉8月22日[1] -1958年〈昭和33年〉3月6日[2])は、日本の政治家。大阪府布施市(現・東大阪市)長(初代、5代、6代、3期)。財務大臣、衆議院議員を務めた塩川正十郎は長男[3]。
大阪府渋川郡布施村(のち中河内郡布施町→布施市、現・東大阪市)出身[1]。大阪府立八尾中学校(現・大阪府立八尾高等学校)卒[1]。1915年(大正4年)、共栄組社長となり[1]、1929年(昭和4年)、布施町会議員となる[4]。同年3月から1932年(昭和7年)7月まで布施町助役を務めた[5]。同月、布施町長となる[5]。1937年(昭和12年)3月に町長を退任した[5]。同年4月1日、布施市が発足した[6]。同年7月10日、市長に就任した[7][8]。布施市長は翌1938年(昭和13年)7月12日まで務めた[7][8][9]。戦後の1946年(昭和21年)1月11日、布施市長に復帰した[1][8]。翌1947年(昭和22年)3月10日に退任した[8]。同年の市長公選で、社会党の鈴木義仲と共産党候補と争いこれを制して当選し、公選初代市長となる[1][10]。同年4月5日に就任した[8]。1951年(昭和26年)4月4日に退任した[8]。
同年4月23日の選挙では自由党公認で立候補したが、社会党公認の鈴木に敗れて落選した[10][11]。
※当日有権者数:82,072人 最終投票率:87.3%(前回比:-pts)
| 候補者名 | 年齢 | 所属党派 | 新旧別 | 得票数 | 得票率 | 推薦・支持 |
|---|---|---|---|---|---|---|
| 鈴木義仲 | 55 | 日本社会党 | 新 | 35,674票 | 50.9% | - |
| 塩川正三 | 57 | 自由党 | 前 | 32,582票 | 46.5% | - |
| 岩井正三郎 | 41 | 無所属 | 新 | 1,868票 | 2.7% | - |
この間、大阪興機、近畿鉱業、近畿商工各社長、大阪市長会、近畿市長会各会長、全国市長会副会長などを務めた[1]。同年、塩川建材社長に就任[1]。このほか布施厚生保護理事長、PL教団顧問、大阪共同募集会副会長などを歴任した[1]。
1955年(昭和30年)の第27回衆議院議員総選挙において大阪4区から自由党公認で立候補したが落選した[12]。1958年死去。
| 官選 | |
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| 公選 | |