| ペンネーム | 矢野 武徳[1] |
|---|---|
| 誕生 | 小林 剛己(こばやし ごうき) (1953-02-20)1953年2月20日(72歳) |
| 職業 | 比較文学者、映画史家 |
| 国籍 | |
| 活動期間 | 1977年 - |
| ジャンル | 比較文学、映画史、漫画論、記号学 |
| 主な受賞歴 | 斎藤緑雨賞(1993年) サントリー学芸賞社会・風俗部門(1998年) 伊藤整文学賞評論部門(2000年) 講談社エッセイ賞(2000年) 日本エッセイスト・クラブ賞(2002年) 日本児童文学学会特別賞(2004年) 桑原武夫学芸賞(2008年) 芸術選奨文部科学大臣賞(2014年) 鮎川信夫賞(2019年) |
| デビュー作 | 『リュミエールの閾 映画への漸進的欲望』 |
| 配偶者 | 垂水千恵 |
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四方田 犬彦(よもた いぬひこ、1953年2月20日 - )は、日本の比較文化学者、映画史家、評論家。大阪府大阪市天王寺区出身。東京大学大学院人文科学研究科比較文学比較文化専攻博士課程中退。本名は四方田 剛己(よもた ごうき)。旧姓は小林。妻は台湾日本文学研究者の垂水千恵。母方の遠縁に岡田節人がいる[2]。
大学入学当初は、由良君美の一般教養ゼミに所属、宗教学科時代は柳川啓一に師事、大学院では佐伯彰一に師事。専攻は比較文学、映画史、漫画論、記号学。本人は「映画評論家ではない」と否定しているが、肩書が用いられることがある。『漫画原論』(1994年)では、漫画特有の手法や法則を緻密に分析した。他の著書に『月島物語』(1992年)、『映画史への招待』(1998年)、『土地の精霊』(2016年)など。
本来は「四方田 丈彦」(よもだ たけひこ)を筆名として用いるつもりだったが、出版社に「四方田犬彦」と誤植され、そのまま筆名にしたという説があるが、『待つことの悦び』(青玄社、1992年)所収「ぼくの本当の名前」ではこの説は間違いであると述べ、カール・パーキンスの「マッチボックス」の一節「I'll be a little dog till your big dog comes」に由来すると説明している。しかし『ハイスクール1968』では、1968年に映画『2001年宇宙の旅』を観た感想を800字にまとめて、ファン雑誌に投稿して掲載された際、気取って筆名を「丈彦」にしたが、誤植で「犬彦」にされたと明記している[3]。
大阪市天王寺区の聖バルナバ病院に生まれる。父はダイハツの輸出部門に勤務する商社員。1953年から1956年まで西宮市今津浜田町で育つ。両親共に本籍は島根県。母方の祖父は弁護士会会長・四方田保であり、大阪府箕面市の中心部(箕面町平尾)に敷地3000坪の豪邸を構えていたという。祖父の最初の妻の四方田柳子は、平塚らいてうの同級生で、大正期の婦人運動の資料にあらわれる人物だった(四方田の祖母・美恵は、柳子の死別後の、祖父の次の妻)[4]。
1956年、母方の祖父が持っていた箕面市半町の家作に転居。箕面市立南小学校に入学したが、1963年3月、東京都世田谷区下馬町の社宅に転居。目黒区立五本木小学校に越境入学する。このころ貸本漫画『墓場鬼太郎』『忍者武芸帳』に熱中。1964年、小学校で2年上級の原将人から、その弟を介して、創刊まもない『ガロ』を借り受けて夢中になる。中学受験塾である日本進学教室では国立二組(国立中学受験組)に属し、成績1位や優秀賞をたびたび受賞。1965年4月、東京教育大学附属駒場中学校に入学。1967年の春休みに高校課程の数学を独学で全て修了したと自称。同年7月、東京都杉並区下高井戸(現:杉並区浜田山)に転居。
父は母方の教養に自分が及ばない屈折から妻子に暴力をふるい、離婚。裁判で母が勝訴し、四方田姓となる[5]。
1969年、教駒全共闘のバリケード封鎖に参加するも、首謀者が半日で解除したことに失望し、高校を中退するつもりで銀座二幸のケーキ工場で働いたが、のち復学。この当時の体験は『ハイスクール1968』に詳述されているが、同窓生の鈴木晶、金子勝、矢作俊彦、大谷行雄らから嘘を書くなと抗議を受けた[6]。
1971年3月に東京教育大学附属駒場高校を卒業、駿台予備校で浪人生活を送る。ここでは奥井潔の講義に強い印象を受けた。1972年3月、両親の離婚に伴って小林姓から四方田姓となり、武蔵野市吉祥寺南町に転居。4月、東京大学教養学部文科三類に入学。文学部宗教学科に進学する。宗教学科の同級に島田裕巳、渡辺直樹(後の『週刊SPA!』編集長。1991年には四方田と組み、同誌で「カッコいい在日韓国人」の特集を編集)、上級には植島啓司、中沢新一、中原俊がいた。
大学在学中に平野共余子、沼野充義らと映画同人誌「シネマグラ」(1977年-)の同人として映画批評を始める。1979年から1年間、建国大学校師範大学の日本語教師としてソウルに滞在。1980年秋、東京大学大学院博士課程を休学してロンドンに滞在、このときロレンス・ダレルとジャン=リュック・ゴダールに偶然出会う。同年、江藤淳の秘書(助手)になる話を断る。
1983年6月、垂水千恵との結婚に伴って横浜市港北区仲手原に転居。1984年、自著『映像の招喚』を澁澤龍彦に送り激励の手紙を受け取る。1984年-1985年、雑誌『GS たのしい知識』(冬樹社)の編集委員(3号まで)として、浅田彰、伊藤俊治らと同誌の編集に関わる。また、赤瀬川原平の『路上観察学会』の創設にも参加。
1987年3月から1年間、コロンビア大学特別研究員就任に伴ってニューヨーク市マンハッタンに滞在[7]。1988年4月に横浜市の旧居へ戻ったが、垂水の台湾留学に伴って、東京都中央区月島の築50年の三軒長屋に単身移住(以後、垂水とは別居生活に入る)。1994年3月、明治学院大学を休職してボローニャに移住、ボローニャ大学に客員研究員として勤務。1995年に日本へ戻り、東京都港区高輪の伊皿子アパートメントに転居。2004年春、文化庁の文化交流使節としてテルアヴィヴに移住してテルアヴィヴ大学で客員教授を半年間務めた後、ベオグラードに移り、民族学博物館に籍を置きつつ、コソヴォのプリシュティナ大学分校で客員教授を務める。帰国後、2005年に東京都新宿区矢来町へ移住。同年から黒澤明記念ショートフィルム・コンテスト審査委員を務める。
2007年、日本財団の援助を受け、APIフェローとして夏に2ヶ月間ジャカルタのシネマテク・インドネシアに滞在し、インドネシアの怪奇映画を研究。2008年2月から4月までAPIフェローとしてバンコクのチュラロンコン大学に滞在し、タイの怪奇映画について研究。ジョグジャカルタのガジャ・マダ大学でAPIフェローとして東南アジアの怪奇映画について発表。2010年1月から3月、ノルウェーのオスロ大学にて日本文化についての講義を行った[8]。
漫画研究では、最も愛する漫画家である水木しげると白土三平の2人に特に力を注ぐ。1994年に発表した大著『漫画原論』では、20世紀の初頭から世紀末に至るまでのほぼ全方位の日本漫画を、吹き出し・コマ割り・ベタ塗りなど画面の構成や描写の技法などの観点から、徹底して分析した。漫画を形成する重要な要素でありながらそれまでほとんど注目されて来なかった、漫画特有の文法や法則や表現方法を実に緻密に読み解き、高い評価を獲得した[要出典]。
映画研究では、北野武、押井守、黒沢清、原節子、李香蘭等、日本映画を重点的に研究。日本映画とアジア各国との重要な関係性にも注目している。明治学院大学では、映画史、映画理論を講じ、門下には平沢剛、木村紅美、山本直樹(カリフォルニア大学サンタバーバラ校准教授)、大嶺沙和、崔盛旭などがいる。
また、初期の作家研究で中上健次を論評の対象とした、生前の中上とも親交があった。
その他にも、国内外の小説、詩歌、叙事詩、演劇、アート、音楽、マイノリティ文化、食、旅行などを評論対象として、幅広い分野での著作活動を行っている。鹿島茂からは、『星とともに走る』の書評において「永遠の高校生」と評された[9]。
建国大学校に勤務した経験があり、韓国文化、韓国文学、韓国映画にも造詣が深い。1979年、朴正煕独裁下の韓国に留学し、対日協力詩人とされる金素雲に会っており、長らくどちらかと言えば保守的と見られていたが、1990年代から左派的な言動が増えてきた。ただし、1991年に柄谷行人・田中康夫らが行った、知識人たちの「湾岸戦争関与」に反対しての『湾岸戦争に反対する文学者声明』には勧誘されたが参加せず、逆に参加者たちを批判した[要出典]。
2009年1月、共著等も含む「著作100冊到達」を記念して、それまでの99冊からの自選ベスト集『濃縮四方田』[10]を彩流社から刊行。同種の著書に2000年刊の『マルコ・ポーロと書物』(枻出版社)がある。(執筆予定の18冊の予告も入れている)
須賀敦子翻訳賞選考委員。
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