| この項目では、イラストレーターについて記述しています。音楽評論家の同名の人物については「和田誠 (評論家)」をご覧ください。 |
| 裁判官の「和田真」とは別人です。 |
| わだ まこと 和田 誠 | |||||||||||
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誠文堂新光社『アイデア=Idea』第13巻第75号(1966)より | |||||||||||
| 生年月日 | (1936-04-10)1936年4月10日 | ||||||||||
| 没年月日 | (2019-10-07)2019年10月7日(83歳没) | ||||||||||
| 出生地 | |||||||||||
| 死没地 | |||||||||||
| 民族 | 日本人 | ||||||||||
| 職業 | イラストレーター エッセイスト 映画監督 | ||||||||||
| ジャンル | 映画 | ||||||||||
| 活動期間 | 1959年 -2019年 | ||||||||||
| 配偶者 | 平野レミ | ||||||||||
| 著名な家族 | 和田精(父) 平野威馬雄(義父) 山本紫朗(伯父) 和田唱(長男) 上野樹里(長男の妻) 和田明日香(次男の妻) | ||||||||||
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和田 誠(わだ まこと、1936年〈昭和11年〉4月10日 -2019年〈令和元年〉10月7日)は、日本のイラストレーター、グラフィックデザイナー、エッセイスト、映画監督。大阪府生まれ。
実父は築地小劇場の創立者メンバーの1人で、のち、ラジオドラマを多数演出し「ラジオの神様」と呼ばれた和田精[1]。日劇レビューで演出家を担った山本紫朗は伯父にあたる[2]。
妻は料理愛好家・シャンソン歌手の平野レミ。長男はロックバンド・TRICERATOPSの和田唱で、その妻は上野樹里。次男の和田率は元電通勤務で、現在は母・平野レミの料理サイト「remy」のクリエイティブ・ディレクター[3]。率の妻は和田明日香。
父である精が勤務していたJOBK(現在のNHK大阪放送局)の当時の赴任地である大阪市東住吉区で生まれる[4]。1943年(昭和18年)大阪市住吉区長池国民学校(現・大阪市立長池小学校)に入学[1]。1945年(昭和20年)、精の失職に伴い3月に一家で精の実家である東京都世田谷区代田に転居。しかし、家族と一人離れて疎開した千葉県で敗戦を迎える。
東京へ戻り世田谷区立代沢小学校3年次に転入し、世田谷区立富士中学校[1]、東京都立千歳高等学校[1](現・東京都立芦花高等学校)、多摩美術大学図案(現・デザイン)科を卒業[1][5]。『グレン・ミラー物語』(1954年)を観て、ジェームズ・ステュアートに似顔絵付きのファンレターを出して、返事で絵を褒められたのが絵を職業にしようと決心した理由の一つだという[6]。1955年(昭和30年)に興和新薬が募集したデザインコンテストでは、宇野亞喜良と同時に1等を獲得した[7][8]。
1959年(昭和34年)に広告制作プロダクションライトパブリシティにデザイナーとして入社し、同年、日本専売公社が発売予定の新商品の紙巻きたばこ「ハイライト」のパッケージデザインコンペに参加し、24歳の若さで勝ち抜き採用される[9]。同製品のデザインは、1964年開業の東海道新幹線の車体の色を決めるときに配色の参考にされた[9][10]。
他にも自社のライトパブリシティおよび、社会党のロゴマークを手掛け[10]、キヤノンや東レといった国内有数の企業の広告デザインを長らく担当した後、1968年(昭和43年)退社。
1964年に灘本唯人、宇野亞喜良、山口はるみ、横尾忠則らと東京イラストレーターズ・クラブを結成[1](70年解散)。
1972年、出会って10日で平野レミと結婚[11][12]。シャンソン歌手としてテレビで歌うレミを見て、ひと目惚れしたのが始まり。当時レミとラジオ番組で共演していた友人の久米宏に紹介を頼んだところ、久米は「レミさんだけはやめた方がいいと思いますよ」と返したという[13][12]。1975年に長男・唱[12]、1979年に次男・率が誕生[12]。1978年には渋谷区に事務所、自宅を構えた[1][14]。
1965年から1995年、矢崎泰久から声をかけられ、雑誌『話の特集』の創刊にかかわり、1995年の休刊までアート・ディレクターをつとめた[1][15]。
退社後はフリーランスとなり、「週刊文春」の表紙や星新一著作の挿絵などを手掛ける。他、星新一・丸谷才一の一連の作品や村上春樹の『アフターダーク』、三谷幸喜や阿川佐和子作品を始め、数多くの装丁を担当する(この縁もあり、阿川や三谷とは交流があった)。「週刊文春」は1977年5月12日号から和田誠の絵を表紙に使用しており、和田の死後も2025年8月28日号まで生前に描いた表紙絵を再掲していた。9月4日号では表紙絵なしで感謝の言葉を載せた[16]。
イラストレーターとしての仕事が知られる一方、『窓ぎわのトットちゃん』など、自身のイラストを用いないデザインも見られる(この縁から黒柳徹子とは交流があり、なかなかテレビ番組に出演しなかったが『徹子の部屋』には出演している)。
通常、書籍のバーコードは裏表紙のカバーに直接印刷されるが、これを嫌い、ISBNの数字のみが表示されたデザインを採り入れている[10]。結果、バーコードは帯に印刷されることが多い[10]。
映画にも造詣が深く、1984年に角川映画として初監督作品である真田広之主演『麻雀放浪記』を手掛け、小泉今日子主演の『快盗ルビイ』など数作品でメガホンをとった。なお、他分野出身の監督が第一、二作連続でキネマ旬報ベストテン入りを果たしたのは唯一である。監督業以外にも『お楽しみはこれからだ』等、映画がテーマのエッセイ集を出している。
1992年、伯父の山本紫朗に国内レビューの黄金時代を取材した内容をまとめた著書『ビギン・ザ・ビギン』をモチーフに、『日劇物語』を映画化する話がもち上がった。脚本を手掛け、クランク・イン寸前まで進んだが、資金不足のため撮影は中止された[17]。
アニメーション作家としての実績もあり、1960年(昭和35年)に久里洋二・柳原良平・真鍋博が「アニメーション三人の会」を結成し、草月ホールで定期的に上映会を行っていた際に、横尾忠則や手塚治虫等と共に参加し、個人制作の作品を発表した。1961年(昭和36年)NHKで放送開始の『みんなのうた』に参加し、初のアニメーション作品『誰も知らない』『ビビディ・バビディ・ブー』『ねこふんじゃった』をはじめ、他9曲の映像を製作した[1]。また、フジテレビ『ゴールデン洋画劇場』のオープニングタイトルを手掛けている[1]。1970年には日本万国博覧会にて住友童話館のパピプッペ劇場で市川崑演出により上演された人形劇『つる』(脚本:和田夏十)、『バンパの活躍』(脚本:谷川俊太郎)のアニメーションを担当した[18]。
2019年10月7日、東京都内の病院にて肺炎のため死去[19]。83歳没。
2020年3月、母校である多摩美術大学に約5万点の資料および作品が寄贈されたことを大学が公表[5][20]。アーカイヴ展示が行われている[21]。
2021年12月17日、渋谷区立中央図書館に自著や装丁を手掛けた本、蔵書や本棚、打ち合わせに使用されたテーブルや椅子などが寄贈され、図書館4階に「和田誠記念文庫」が開設された[22][14]。
2022年4月、ジャズなどのレコード365枚が、生前親交のあった作家の村上春樹の関連資料を収蔵する早稲田大学国際文学館(村上春樹ライブラリー)に寄贈された[23]。
無印は映像が現存する曲。△マークは現存しない曲。▲は映像は現存しないが、音楽之友社発刊の「みんなのうた」楽譜集等に映像が掲載されている曲。
初のアニメ作品を手掛けたものの、その映像はわずかしか現存せず、2011年開始の「みんなのうた発掘プロジェクト」でも、音声曲は提供されたが、映像曲は提供されなかった。
第9回講談社エッセイ賞 | |
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| 第1回 - 第10回 |
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| 第11回 - 第20回 |
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| 第21回 - 第30回 |
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| 第31回 - 第40回 | |
ブルーリボン賞 監督賞 | |
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| 1950年代 | |
| 1960年代 | |
| 1970年代 | |
| 1980年代 | |
| 1990年代 | |
| 2000年代 | |
| 2010年代 | |
| 2020年代 | |
括弧内は作品年度を示す、授賞式の年は翌年(2月) | |