『君が代 』(きみがよ)は、日本 の国歌 。
君が代の歌詞 は10世紀 初頭に編纂された古今和歌集 に収録された読人知らず の和歌 に由来する[ 1] [ 2] 。古今和歌集は10世紀 初頭に編纂されており、世界の国歌の中で最も古い歌詞とされている。それと同時に、最も短い歌詞であるともされている。
1880年 (明治 13年)に西洋音楽 に基づく曲が与えられ、事実上の日本の国歌とされた。「君が代」の公式な作曲者 は林廣守 とされており、初めて公に演奏されたのは同年11月3日 の天長節 の宮中 であった。
その後、君が代を正式に日本の国歌とする法律 は無かったが、1999年 (平成 11年)の「国旗及び国歌に関する法律 」により正式に日本の国歌となった[ 3] 。
「君が代は千代に八千代にさざれ石 の巌 (いはほ)となりて苔 のむすまで」は、10世紀に編纂された勅撰和歌集『古今和歌集 』巻七「賀歌」巻頭に「読人知らず」として「我君は千代に八千代にさざれ石の巌となりて苔のむすまで」とある短歌を初出としている[ 1] [ 4] [ 5] 。
これが私撰(紀貫之 撰集)の『新撰和歌 』や朗詠 のために藤原公任 が撰した『和漢朗詠集 』(11世紀 成立)などにも収められ、祝賀の歌とされ、朗詠にも供され、酒宴 の際に歌われる歌ともされたものである[ 1] [ 4] [ 6] 。9世紀 にあって光孝天皇 が僧正遍昭 の長寿 を祝って「君が八千代」としているように、「君」は広く用いる言葉であって君主 ・天皇 を指すとは限らなかった[ 1] [ 7] 。
すなわち、「我が君」とは祝賀を受ける人を指しており、「君が代」は天皇にあっては「天皇の治世」を意味しているが、一般にあってはこの歌を受ける者の長寿を祝う意味であった[ 1] [ 2] [ 7] [ 8] 。この歌が利用された範囲は、歴史的にみれば、物語 、御伽草子 、謡曲 、小唄 、浄瑠璃 から歌舞伎 、浮世草子 、狂歌 など多岐にわたり、また箏曲 、長唄 、常磐津 、さらには碓挽歌 、舟歌 、盆踊り 唄、祭礼 歌、琵琶 歌から乞食 の門付 など、きわめて広範囲に及んでいる[ 1] [ 2] 。また、「君が代は千代に八千代に」の歌が、安土桃山時代 の隆達 にあっては恋の小唄であることは広く知られるところである[ 9] 。この様に元来の歌では「君」の語は多義的に用いられた。溝口貞彦は、金子元臣の『古今和歌集通解』が「君は二人称の代名詞で、天子の事ではない」との記述を引いて、もともとは身近な長者など様々な者を指し示していたが[ 10] 、明治以後は一義的に天皇を指して用いられるようになったのであろうと述べている[ 10] 。
国歌としては、1869年 (明治 2年)、軍楽隊 教官だったイギリス人ジョン・ウィリアム・フェントン が日本に国歌がないのを残念に思い、練習生を介して作曲を申し出たことを始まりとしている[ 1] [ 4] 。1880年 (明治13年)、法律では定められなかったが、事実上の国歌として礼式曲「君が代」が採用された。1893年 (明治 26年)に文部省 文部大臣井上毅 によって告示された[ 11] 。そのテーマは皇統の永続性とされる[ 4] [ 12] 。
日本の国歌の歌詞およびその表記は、「国旗及び国歌に関する法律 」(国旗国歌法)別記第二で定められている[ 注釈 1] 。
さざれ石 (賀茂御祖神社 )さざれ石 (千鳥ケ淵戦没者墓苑 )「さざれ石 のいわおとなりてこけのむすまで」とは「小石が成長して大きな岩となり、それに苔 がはえるまで」の意味で、限りない悠久の年月を可視的なイメージとして表現したものである[ 7] 。同様の表現は『梁塵秘抄 』巻一巻頭の「長歌十首」祝に「そよ、君が代は千世(ちよ)に一度(ひとたび)ゐる塵(ちり)の白雲(しらくも)かゝる山となるまで」にもみえる[ 13] [ 注釈 2] 。一方では、小石が成長して巨岩になるという古代 の民間信仰 にもとづいており、『古今和歌集』「真名序」にも「砂(いさご)長じて巌となる頌、洋洋として耳に満てり」とある[ 14] [ 注釈 3] 。
バジル・ホール・チェンバレン イギリスの日本研究家バジル・ホール・チェンバレン は、この歌詞を英語 に翻訳 した[ 15] 。チェンバレンの訳を以下に引用する[ 16] :
Thousands of years of happy reign be thine; Rule on, my lord, till what are pebbles now By age united to mighty rocks shall grow Whose venerable sides the moss doth line. (→汝 ( なんじ ) の治世が幸せな数千年であるようにわれらが主よ、治めつづけたまえ、今は小石であるものが 時代を経て、あつまりて大いなる岩となり 神さびたその側面に苔が生 ( は ) える日まで ) [ 17]
香港 日本占領時期 には、「君が代」の公式漢訳「皇祚」があった。
皇祚連綿兮久長 萬世不變兮悠長 小石凝結成巖兮 更巖生綠苔之祥
皇祚 ( こうそ ) 連綿 ( れんめん ) として久しく長し万世 ( ばんせい ) 変はらず悠 ( はる ) かに長し 小石は凝結して巌 ( いわお ) と成り 更に巌は緑苔 ( りょくたい ) の祥 ( さいわい ) を生ず歌詞の出典は『古今和歌集』(古今和歌集巻七賀歌巻頭歌、題知らず、読人知らず、国歌大観番号343番)である。ただし、古今集のテキストにおいては初句を「我が君は」とし、現在の国歌の歌詞とは完全には一致していない[ 4] [ 7] 。
我が君は 千代にやちよに さざれ石 ( いし ) の 巌となりて 苔のむすまで
文献にみえる完全な一致は、朗詠 のための秀句や和歌を集めた『和漢朗詠集 』の鎌倉時代 初期の一本に記すものが最古といわれる(巻下祝、国歌大観番号775番)[ 4] [ 6] [ 18] [ 19] 。
『和漢朗詠集』においても古い写本は「我が君」となっているが、後世の版本は「君が代」が多い[ 6] 。この「我が君」から「君が代」への変遷については初句「我が君」の和歌が『古今和歌集』と『古今和歌六帖 』以外にはほとんどみられず、以降の歌集においては初句「君が代」が圧倒的に多いことから時代の潮流で「我が君」という直接的な表現が「君が代」という間接的な表現に置き換わったのではないかという推測がある[ 20] 。千葉優子は、「我が君」から「君が代」への転換は平安時代末期ころに進んだとしている[ 21] 。朗詠は、西洋音楽 やその影響を受けた現代日本音楽における、歌詞と旋律 が密接に関ってできている詞歌一致体とは異なり、その歌唱から歌詞 を聴きとることは至難である[ 22] 。
なお『古今和歌六帖』では上の句が「我が君は千代にましませ」となっており、『古今和歌集』も古い写本には「ましませ」となったものもある。また写本によっては「ちよにや ちよに」と「や」でとぎれているものもあるため、「千代にや、千代に」と反復であるとする説も生まれた[ 20] 。
万葉集 などでは「君が代」の言葉自体は「貴方(あるいは主君)の御寿命」から、長(いもの)にかかる言葉であり、転じて「わが君の御代」となる。『古今和歌集』収録の原歌では、上述したように「君」は「あなた」「主人」「君主」など広く用いる言葉であって天皇をさすとは限らない[ 7] 。『古今和歌集』巻七の賀歌22首のうち18首は特定の個人、松田武夫 によれば光孝天皇 、藤原基経 、醍醐天皇 の3人にゆかりの人々にかかわる具体的な祝いの場面に際しての歌である[ 23] 。その祝いの内容は、ほとんどが算賀 であるが出生慶賀もある[ 23] 。これに対し、最初の4首は読人知らずで作歌年代も古いとみられ、歌が作られた事情もわからない。そのうちの1首で、冒頭に置かれたものが「君が代」の原歌である。したがってこの「君」は特定の個人をさすものではなく治世の君(『古今和歌集』の時代においては帝)の長寿を祝し、その御世によせる賛歌として収録されたものと理解することが可能である[ 23] 。
後世の注釈書では、この歌の「君」が天子を指すと明示するものもある。それが、『続群書類従 』第十六輯に収められた堯智の『古今和歌集陰名作者次第』である。同書第1巻の刊行は、万治 元年(1658年 )のことであり、堯智は初句を「君か代ともいうなり」とし、「我が大君の天の下知しめす」と解説しており、これによれば、17世紀 半ばの江戸時代前期において「天皇の御世を長かれ」と祝賀する歌だとの解釈が存在していたこととなる[ 24] [ 25] 。
『古今和歌集』に限らず、勅撰集 に収められた賀歌についてみるならば「君」の意味するところは時代がくだるにつれ天皇である場合がほとんどとなってくる。勅撰集の賀歌の有り様が変化し、算賀をはじめ現実に即した言祝ぎの歌がしだいに姿を消し、題詠歌と大嘗祭 和歌になっていくからである。こういった傾向は院政期 に入って顕著になってくるもので王朝が摂関政治 の否定、そして武家 勢力との対決へと向かうなかで勅撰集において天皇の存在を大きく打ち出していく必要があったのではないかとされている[ 23] 。
「君が代」は朗詠 に供されたほか、鎌倉時代 以降急速に庶民に広まり、賀歌に限らない多様な用いられ方がなされるようになった。仏教の延年舞 にはそのまま用いられているし、田楽 ・猿楽 ・謡曲 などでは言葉をかえて引用された[ 26] 。一般には「宴会の最後の歌」「お開きの歌」「舞納め歌」として使われていたらしく、『曽我物語 』(南北朝時代 〜室町時代 初期成立)では宴会の席で朝比奈三郎義秀 が「君が代」を謡い舞う例[ 27] 、『義経記 』(室町時代前期成立)でも静御前 が源頼朝 の前で賀歌「君が代」を舞う例を見ることができる[ 26] [ 28] 。
『曽我物語』巻第六「辯才天の御事」[ 27]
「何とやらん、御座敷しづまりたり。うたゑや、殿ばら、はやせや、まはん」とて、すでに座敷を立ちければ、面々にこそはやしけれ。 義秀、拍子をうちたてさせ、「君が代は千代に八千代にさゞれ石の」としおりあげて、「巌となりて苔のむすまで」と、ふみしかくまふてまはりしに… 『義経記』巻第六「静若宮八幡宮へ参詣の事」[ 28]
静「君が代の」と上げたりければ、人々これを聞きて「情けなき祐経かな、今一折舞はせよかし」とぞ申しける。詮ずる所敵の前の舞ぞかし。思ふ事を歌はばやと思ひて、しづやしづ賤のおだまき繰り返し 昔を今になすよしもがな 吉野山 嶺の白雪踏み分けて 入りにし人のあとぞ恋しき 安土桃山時代から江戸時代の初期にかけては、性をも含意した「君が代は千代にやちよにさゞれ石の岩ほと成りて苔のむすまで」のかたちで隆達節 の巻頭に載っており、同じ歌は米国ボストン美術館 蔵「京都妓楼遊園図」[六曲一双、紙本着彩、17世紀後半、作者不詳]上にもみられる[ 29] 。祝いの歌や相手を思う歌として小唄、長唄、地歌 、浄瑠璃、仮名草子 、浮世草子、読本 、祭礼歌、盆踊り、舟歌、薩摩琵琶 、門付等に、あるときはそのままの形で、あるときは歌詞をかえて用いられ、この歌詞は庶民層にも広く普及した[ 1] [ 2] [ 4] [ 26] 。
16世紀 の薩摩国 の戦国武将 島津忠良 (日新斎)は、家督 をめぐる内紛 を収めたのち、急増した家臣団を結束させるための精神教育に注力し、琵琶 を改造して材料も改め、撥 も大型化し、奏法もまったく変えて勇壮果敢な音の鳴る薩摩琵琶とした[ 30] 。そして、武士の倫理 を歌った自作の47首に軍略の助言も求めた盲目の僧淵脇了公 に曲をつけさせ、琵琶歌「いろは歌 」として普及させた[ 30] 。島津日新斎作詞・淵脇了公作曲の琵琶歌「蓬莱山」の歌詞は、以下のようなものである[ 30] 。
蓬莱山
目出度やな 君が恵(めぐみ)は 久方の 光閑(のど)けき春の日に 不老門を立ち出でて 四方(よも)の景色を眺むるに 峯の小松に舞鶴棲みて 谷の小川に亀遊ぶ 君が代は 千代に 八千代に さざれ石の 巌となりて 苔のむすまで 命ながらえて 雨(あめ)塊(つちくれ)を破らず 風枝を鳴らさじといへば また堯 舜 (ぎょうしゅん)の 御代も斯(か)くあらむ 斯ほどに治まる御代なれば 千草万木 花咲き実り 五穀成熟して 上には金殿楼閣 甍を並べ 下には民の竈を 厚うして 仁義正しき御代の春蓬莱山 とは是かとよ 君が代の千歳の松も常磐色 かわらぬ御代の例には 天長地久と 国も豊かに治まりて 弓は袋に 剱は箱に蔵め置く諫鼓 (かんこ)苔深うして 鳥もなかなか驚くようぞ なかりける 「君が代」を詠み込んだこの琵琶歌は、薩摩藩 家中における慶賀の席ではつきものの曲として歌われ、郷中教育 という一種の集団教育も相まって、この曲を歌えない薩摩藩士はほとんどいなかった[ 30] 。なかでも、大山弥助(のちの大山巌 )の歌声は素晴らしかったといわれる[ 30] 。
「君が代」は、江戸城 大奥 で元旦 早朝におこなわれる「おさざれ石」の儀式でも歌われた[ 31] 。これは、御台所 (正室)が正七ツ(午前4時)に起床し、時間をかけて洗面・化粧・「おすべらかし 」に髪型を結い、装束を身に付けて緋 毛氈 の敷かれた廊下 を渡り、部屋に置かれた盥 (たらい)のなかの3つの白い石にろうそく を灯し、中年寄が一礼して「君が代は千代に八千代にさざれ石の」と上の句を吟唱すると、御台所が「いはほとなりて苔のむすまで」と下の句を応え、御台所の右脇にいた中臈が石に水を注ぐという女性だけの「浄めの儀式」であった[ 31] 。盥には、小石3個のほかユズリハ と裏白、田作り が丁重に飾られていた[ 31] [ 注釈 4] 。
「國歌君ヶ代発祥之地」碑薩摩バンド が寄宿していた横浜市 の妙香寺 境内に建つ碑 1869年 (明治 2年)4月、イギリス公使ハリー・パークス よりエディンバラ公アルフレッド (ヴィクトリア女王 次男)が7月に日本を訪問し、約1か月滞在する旨の通達があった[ 34] 。その接待掛に対しイギリス 公使館護衛隊歩兵大隊の軍楽隊長ジョン・ウィリアム・フェントン が、日本に国歌 がないのは遺憾であり、国歌あるいは儀礼音楽を設けるべきと進言し、みずから作曲を申し出た[ 1] [ 18] [ 31] 。
当時の薩摩藩砲兵大隊長であった大山弥助(のちの大山巌 )は、大隊長野津鎮雄 と鹿児島少参事大迫喜左衛門 とはかり、薩摩琵琶 歌の「蓬萊山 」のなかにある「君が代」を歌詞に選び、2人ともこれに賛成して、フェントンに示した[ 18] [ 31] [ 35] 。こうしてフェントンによって作曲された初代礼式曲の「君が代」はフェントンみずから指揮し、イギリス軍楽隊によってエディンバラ公来日の際に演奏された[ 31] 。ただし澤鑑之丞 が当時フェントンの接遇係の一人であった原田宗介 から聞いた話では、軍上層部にフェントンの意見を問い合わせたところ、会議中で取り合ってもらえず、接遇係たちに対応が任された。この際、静岡藩 士の乙骨太郎乙 が大奥で行われた正月の儀式「おさざれ石」で使用された古歌を提案し、原田が『蓬莱山』と共通しているとしてこの歌をフェントンに伝えたという経緯となる[ 36] 。
同年10月、鹿児島から鼓笛隊の青少年が横浜 に呼び寄せられ、薩摩バンド (薩摩藩 軍楽隊)を設立する。フェントンから楽典と楽器の演奏を指導され、妙香寺 で猛練習をおこなった[ 37] 。翌年1870年(明治3年)8月12日 、横浜の山手公園音楽堂でフェントン指揮、薩摩バンドによる初めての演奏会で、初代礼式曲「君が代」は演奏される[ 37] 。同年9月8日 、東京・越中島 において天覧の陸軍観兵式の際に吹奏された[ 1] [ 3] [ 38] 。しかし、フェントン作曲の「君が代」は威厳を欠いていて楽長の鎌田真平 はじめ不満の声が多かった[ 1] [ 2] [ 4] のに加え、当時の人々が西洋的な旋律になじめなかったこともあって普及はしなかった。
近代西洋における国歌 は、日本が開国した幕末の時点で外交儀礼に欠かせないものとなっていたため、日本でも国歌の必要性が認識されるようになっていた。1876年 (明治9年)、海軍楽長の中村祐庸 は海軍省 軍務局長宛に「君が代」楽譜を改訂する上申書「天皇陛下ヲ祝スル楽譜改訂之儀」を提出し、その中で国歌の重要性を以下のように述べている[ 1] [ 4] [ 21] 。
「(西洋諸国において)聘門往来などの盛儀大典あるときは、各国たがいに(国歌の)楽譜を謳奏し、以てその特立自立国たるの隆栄を表認し、その君主の威厳を発揮するの礼款において欠くべからざるの典となせり」[ 24] 。すなわち、国歌の必要性はまず何よりも外交儀礼の場においてなのであり、現在でも例えばスペイン 国歌の「国王行進曲 」のように歌詞のない国歌も存在する。当初は "national anthem " の訳語もなかったが、のちに「国歌」と訳された。ただし、従来「国歌」とは「和歌」と同義語で、漢詩に対するやまと言葉 の歌(詩 )という意味で使われていたため "national anthem " の意味するところはなかなか国民一般の理解するところとならなかった[ 24] 。
この意見にもとづき、宮中の詠唱する音節 を尊重して改訂する方向で宮内省 と検討に入り、フェントンの礼式曲は廃止された[ 1] [ 2] [ 3] 。翌年1877年 に西南戦争 が起こり、その間にフェントンは任期を終えて帰国した。
"Japanese National hymn (日本の礼式曲)"譜面の表紙伊勢 の夫婦岩 をデザイン。作曲者としてエッケルト の名がみえる。クルト・ネットー 作(1880年 ) 1880年 (明治13年)7月、楽譜改訂委員として海軍楽長中村祐庸、陸軍楽長四元義豊 、宮内省伶人長林廣守 、前年来日したドイツ人 で海軍軍楽教師のフランツ・エッケルト の4名が任命された[ 1] [ 2] 。採用されたのは林廣守が雅楽 の壱越調 の旋法 で作曲したものであり、これは、実際には、廣守の長男林廣季 と宮内省式部職 雅樂課の伶人奥好義 がつけた旋律 をもとに廣守が曲を起こしたものとみとめられる[ 1] [ 2] 。この曲に改訂委員のひとりフランツ・エッケルトが西洋式和声 を付けて吹奏楽用に編曲した[ 1] [ 18] [ 19] [ 21] [ 35] 。
改訂版「君が代」は、1880年(明治13年)10月25日 に試演され、翌26日 に軍務局長上申書である「陛下奉祝ノ楽譜改正相成度之儀ニ付上申」が施行され、礼式曲としての地位が定まった。同年11月3日 の天長節 には初めて宮中で伶人らによって演奏され、公に披露された[ 1] [ 2] [ 4] [ 19] [ 35] 。調子は、フラット(♭)2つの変ロ調であった[ 3] 。
海軍省所蔵の1880年(明治13年)の原譜に「国歌君が代云々」とあることから、エッケルト編曲による現行の「君が代」の成立時には「国歌」という訳語ができていたことが知られる[ 20] 。
1881年 (明治14年)に最初の唱歌 の教科書である『小学唱歌集 初編』が文部省 音楽取調掛 によって編集され、翌年、刊行された[ 4] 。ここでの「君が代」の歌詞は、現代の「君が代」とは若干異なり、また2番まであった[ 39] 。曲も英国人ウェッブ (英語版 ) が作曲した別曲で、小学校 では当初こちらが教えられた[ 2] [ 39] 。
また、陸軍省 もエッケルト編曲の「君が代」を国歌とは認めず、天皇行幸 の際には「喇叭オーシャンヲ奏ス」と定めており、天覧の陸軍大調練には「オーシャン」が演奏されていた[ 39] 。1882年 (明治15年)、音楽取調掛が文部省の命を受けて「君が代」の国歌選定に努めたが、実現しなかった[ 4] 。ウェッブの「君が代」はあまり普及しなかった[ 4] 。雅楽調のエッケルト編曲「君が代」は好評で、天皇礼式曲として主として海軍で演奏された[ 4] 。
1888年 (明治21年)、海軍省が林廣守作曲、エッケルト編曲「君が代」の吹奏楽譜を印刷して「大日本礼式 Japanische Hymne (von F.Eckert))」として各官庁や各条約国に送付した[ 1] [ 2] [ 4] 。1889年 (明治22年)の音楽取調掛編纂『中等唱歌』にはエッケルト編曲の礼式曲が掲載され、1889年12月29日 「小学校ニ於テ祝日大祭日儀式ニ用フル歌詞及楽譜ノ件」では『小学唱歌集 初編』と『中等唱歌』の双方が挙げられた[ 4] 。ただし、当初は国内でそれを認めていた人は必ずしも多くなかった[ 4] 。
礼式曲「君が代」の普及は、1890年 (明治23年)の『教育勅語 』発布以降、学校教育を通じて強力に進められた[ 4] 。1891年 (明治24年)、「小学校祝日大祭日儀式規定」が制定され、この儀式 では祝祭当日にふさわしい歌を歌唱することが定められた[ 4] 。
1893年 (明治26年)8月12日 、文部省は「君が代」等を収めた「祝日大祭日歌詞竝樂譜」を官報 に告示した[ 2] [ 4] [ 11] [ 19] [ 40] 。ここには、「君が代」のほか、「一月一日」(年のはじめの)、「紀元節」(雲に聳ゆる)、「天長節」(今日の佳き日は)など8曲を制定発表している[ 1] [ 注釈 5] 。「君が代」は、作曲者は林廣守 、詞については「古歌」と記され、調子は「大日本礼式」より一音高いハ調とされ[ 3] [ 40] 、4分の4拍子 であるが休符 は使用されなかった[ 11] 。
1897年 (明治30年)11月19日の陸軍省達第153号で「『君が代』ハ陛下及皇族ニ対シ奉ル時に用ユ」としており、ここにおいて「君が代」はようやくエッケルト編曲の現国歌に統一された[ 39] 。「君が代」は、学校儀式において国歌として扱われ、紀元節 、天長節 、一月一日 には児童が学校に参集して斉唱され、また、日清戦争 (1894年 -1895年 )・日露戦争 (1904年 -1905年 )による国威発揚にともなって国民間に普及していった[ 4] [ 39] 。1903年 (明治36年)にドイツ で行われた「世界国歌コンクール」では、「君が代」が一等を受賞している[ 41] 。ただし、明治時代 にあっては、国歌制定の議は宮内省や文部省によって進められたものの、すべて失敗しており、法的には小学校用の祭日 の歌にすぎなかった[ 1] 。
1912年 (大正 元年)8月9日 、「儀制ニ關スル海軍軍樂譜」が制定され、1914年 (大正3年)に施行された「海軍禮式令」では、海軍における「君が代」の扱いを定めている[ 3] [ 19] 。
第一號 君カ代 天皇及󠄁皇族ニ對スル禮式及󠄁一月󠄁一日、紀元節󠄁、天長節󠄁、明󠄁治節󠄁ノ遙拜式竝ニ定時軍艦旗ヲ揭揚降󠄁下スルトキ
軍艦旗 の掲揚降下とは、朝8時に掲揚し日没 時に降下する、古くからの世界共通の慣習であり、海上自衛隊 でも引き継がれている[ 3] [ 注釈 6] 。軍楽隊が乗船している艦が外国の港湾に停泊している場合は、自国の国歌で掲揚降下をおこなったのち、訪問国の国歌を演奏する習わしとなっている[ 3] 。
「君が代」は、正式な国歌ではなかったものの、国際的な賓客の送迎やスポーツ 関係などで国歌に準じて演奏・歌唱されることが多くなり、とくに昭和10年代 に入るとこの傾向はいっそう顕著となった[ 1] [ 2] 。1936年(昭和11年)に文部大臣となった平生釟三郎 は、ある日、造船所 の見習職工に『君が代』の歌詞を漢字入りで書かせたところ、同音異義語 を充てる者(例:岩音)や誤字が多かったことに気がついた。国歌の歌詞を発音のみで覚え、意味を理解していないのは問題だとして、尋常小学校 の教科書に君が代を掲載するよう指示を出した[ 42] 。その後、小学校の国定修身 教科書に歌詞が掲載されるようになり、「私たち臣民 が『君が代』を歌ふときには、天皇陛下の万歳を祝ひ奉り、皇室の御栄を祈り奉る心で一ぱいになります。」(『小学修身書』巻四)として君が代を歌う意味も掲載されるようになった。また、1941年 (昭和16年)に設立された国民学校 の修身教科書でも「君が代の歌は、天皇陛下のお治めになる御代は千年も万年もつづいてお栄えになるように、という意味で、国民が心からお祝い申し上げる歌であります。」(国民学校4年用国定修身教科書『初等科修身二』)と記された[ 4] [ 43] 。日中戦争 から太平洋戦争 にかけての時期には、大伴家持 の和歌に1937年 (昭和12年)に信時潔 が曲をつけた「海行かば 」も第二国歌のような扱いを受け、様々な場面で演奏・唱和された[ 44] 。
第二次世界大戦後 には、連合国軍総司令部 (GHQ)が日本を占領し、日の丸 掲揚禁止とともに、「君が代」斉唱を全面的に禁止した[ 45] 。その後GHQは厳しく制限しつつ、ごく特定の場合に掲揚・斉唱を認め[ 45] 、1946年 (昭和 21年)11月3日 の日本国憲法 公布記念式典で昭和天皇 ・香淳皇后 出御のもと「君が代」が斉唱された[ 46] 。しかし、半年後の1947年 (昭和22年)5月3日 に開催された憲法施行記念式典では「君が代」でなく憲法普及会 が選定した国民歌 「われらの日本 」(作詞・土岐善麿 、作曲・信時潔)が代用曲として演奏され、天皇還御の際には「星条旗よ永遠なれ 」が演奏された[ 46] 。「君が代」の歌詞について、第二次世界大戦前に「国体 」と呼ばれた天皇を中心とした体制を賛えたものとも解釈できることから、一部の国民から国歌にはふさわしくないとする主張がなされた。たとえば読売新聞 は1948年 (昭和23年)1月25日 の社説において、「これまで儀式に唄ったというよりむしろ唄わせられた歌というものは、国家主義的な自己賛美や、神聖化された旧思想を内容にしているため、自然な心の迸りとして唄えない」とした上で「新国歌が作られなくてはならない」と主張した[ 47] 。
また、「君が代」に代わるものとして、1946年 、毎日新聞社 が文部省の後援と日本放送協会 の協賛を受けて募集・制作した新憲法公布記念国民歌「新日本の歌 」(土井一郎 作詞、福沢真人 作曲)がつくられ、1948年 (昭和23年)には朝日新聞社 と民主政治教育連盟 が日本放送協会の後援を受けて募集・制作した国民愛唱の歌「こゝろの青空 」(阿部勇 作詞、東辰三 作曲)がつくられた。前者は日本コロムビア より、後者は日本ビクター より、それぞれレコード 化されるなどして普及が図られた[ 46] 。1951年1月、日本教職員組合 (日教組)が「君が代」に代わる「新国歌」として公募・選定した国民歌 として「緑の山河 」(原泰子 作詞、小杉誠治 作曲)もつくられた。しかし、1951年 (昭和26年)9月のサンフランシスコ平和条約 以降は、礼式の際などに、再び「君が代」が国歌に準じて演奏されることが多くなった[ 1] [ 2] 。
GHQ占領下の学校・教育現場では、1946年 (昭和21年)の国民学校令施行規則から「君が代」合唱の部分が削除されていた。しかし、文部省 の天野貞祐 文部大臣 による国民の祝日 に関する「談話」などから、1950年 (昭和25年)10月17日 に「学校や家庭で日の丸掲揚、君が代斉唱することを推奨する」との通達が全国の教育委員会 へ行われており、主権回復 後の1958年 (昭和33年)学習指導要領 に「儀式など行う場合には国旗を掲揚し、君が代を斉唱することが望ましい」と記載されたことなどから[ 48] 、学校で再び日の丸 掲揚・君が代斉唱が行われるようになり、これに反対する日本教職員組合 等との対立が始まった。その後、学習指導要領は「国歌を斉唱することが望ましい(1978年 )」、「入学式 や卒業式 などにおいては、その意義を踏まえ、国旗を掲揚するとともに、国歌を斉唱するよう指導するものとする(1989年 )」と改訂され、現在は入学式・卒業式での掲揚・斉唱が義務付けられている[ 49] 。
官報 「国旗及び国歌に関する法律 」「君が代」は事実上の国歌として長らく演奏されてきたが、法的に根拠がないことから法制化が進み、1999年 (平成11年)8月9日 、「国旗及び国歌に関する法律」(国旗国歌法 )が成立し、13日に公布 (号外第156号)され、即日施行 された[ 3] 。日本国政府 の公式見解は、国旗国歌法案が提出された際の同年6月11日 の段階では「『君』とは、『大日本帝国憲法下では主権者である天皇を指していたと言われているが、日本国憲法下では、日本国及び日本国民統合の象徴である天皇と解釈するのが適当である。』(「君が代」の歌詞は、)『日本国憲法下では、天皇を日本国及び日本国民統合の象徴とする我が国の末永い繁栄と平和を祈念したものと理解することが適当である』」としたが、そのおよそ2週間後の6月29日 に「(「君」とは)『日本国憲法下では、日本国及び日本国民統合の象徴であり、その地位が主権の存する国民の総意に基づく天皇のことを指す』『『代』は本来、時間的概念だが、転じて『国』を表す意味もある。『君が代』は、日本国民の総意に基づき天皇を日本国及び日本国民統合の象徴する我が国のこととなる』(君が代の歌詞を)『我が国の末永い繁栄と平和を祈念したものと解するのが適当』」と変更した[ 50] 。
なお、同法案は衆議院 で賛成403、反対86(投票総数489)で1999年(平成11年)7月22日 に、参議院 では賛成166、反対71(投票総数237)で同年8月9日 に、それぞれ賛成多数で可決された。
国旗及び国歌に関する法律 「別記第二」として掲載されているハ調の「君が代」の楽譜には、テンポ の指定や強弱記号がなく、また、本来6カ所あるべきスラー が付されていないなど、不完全なものであった[ 3] 。
君が代に代わる新国歌として、「われら愛す 」や「われらの日本 」、「海ゆかば 」などが構想されたがいずれも頓挫している。
「君が代」は、国旗国歌法 によって公式に国歌とされている。法制定以前にも、1974年 (昭和 49年)12月 に実施された内閣府 ・政府広報 室の世論調査 [ 注釈 7] において、対象者の76.6パーセントが「君が代は日本の国歌(国の歌)としてふさわしい」と回答する一方で、「ふさわしくない」と回答したのは9.5パーセントだった[ 51] 。
なお、日本コロムビア から発売した「君が代」を収録したCDは1999年 までの10年間に全種累計で約10万枚を売り上げ[ 52] 、キングレコード から発売した「君が代」を含むCD『世界の国歌』は改訂盤が発売されるごとに毎回1万数千枚を売り上げている(1999年時点)[ 52] 。
君が代の音楽シート(1888年 ) 国歌としては最短のもののひとつである。曲についてはウガンダの国歌 のメロディーは8小節(不完全小節 を含まず)であり、君が代の11小節よりも短く、演奏時間も30秒程度である[ 53] 。ただし同国歌の歌詞には2番と3番があり、1番に続いて歌われることもあるため、この場合は君が代よりも長くなる。歌詞についてもほとんどの国歌より短いが、スペイン 、サンマリノ 、ボスニア・ヘルツェゴビナ およびコソボ の国歌は公式な歌詞を持たないため、単純に比較することはできない。
君が代には本来は前奏は存在しないが、歌い出しを合わせるために前半二小節(”君が代は…”まで)の演奏のみを前奏として繰り返し流すことが日本では多くの場面で見られる(例えば大相撲 の国歌斉唱など)。この場合(前奏)→(君が代は…)で歌い出しとなる。明治 期から前奏あり・なしは混在しておりもはや慣習となっているため国旗国歌法の違反とはならないとされる[ 54] 。
拍子は4分の4拍子である。
調子は、雅楽 の六調子のうち呂旋に属する壱越調 である。現行「君が代」は、1880年 (明治13年)の初演の際の楽譜(「大日本礼式」)では変ロ調 であったが、1893年(明治26年)の「祝日大祭日歌詞竝樂譜」以降はハ調 となっている[ 3] 。
1888年 (明治21年)のエッケルト編曲「大日本礼式」におけるテンポは、♩=70(1分間に四分音符70拍)と設定されていた[ 3] 。このテンポで演奏すると、演奏時間はだいたい37秒となる。1912年 (大正元年)の「儀制ニ関スル海軍軍楽譜」別冊収載の「海軍儀制曲総譜」の「君が代」にはテンポ 表示がなく、Larghetto (ややおそく)の速度標語が記載されている[ 3] 。1893年 (明治26年)8月の文部省告示「祝日大祭日歌詞竝楽譜」では、♩=69であった[ 3] [ 注釈 8] 。
♩=60で演奏した場合、1拍を1秒とすると44秒となる[ 3] 。旧海軍では軍艦旗 を掲揚降下する際、信号ラッパ 譜の「君が代」(国歌の「君が代」とは別の曲、#関連する楽曲 節の楽譜とサウンドファイルを参照)を45秒で吹奏しており、同じ港湾に軍楽隊が乗り込んだ旗艦 が停泊していた場合、国歌の「君が代」もラッパ譜の「君が代」と同じく45秒で演奏していた[ 3] 。これは、習慣となったものであり、明文化された資料等は確認されていない[ 3] 。なお、♩=50で演奏すると52秒かかり、NHK のテレビ ・ラジオ 放送終了時に演奏されるテンポとなる。
近代オリンピック においては、2014年ソチオリンピック 以降、表彰式で流される君が代(演奏:読売日本交響楽団 )が1分20秒に及ぶスローテンポとなったが[ 3] [ 56] 、これは2012年 頃、国際オリンピック委員会 (IOC)が国旗掲揚のときに統一感を出すためにと、演奏時間を60 - 90秒に収めた国歌音源を提出するよう指示したことに対し、日本オリンピック委員会 (JOC)が応えたことによるという[ 56] 。しかし、2016年リオデジャネイロオリンピック の際に選手から「(長くて)歌いづらかった」と不満が出たことなどから、2018年平昌オリンピック までに音源が差し替えられ、1分4秒の長さに変更された[ 57] 。
作曲家 の團伊玖磨 は晩年に、国歌の必要条件 として、短い事 、エスニックである事 、好戦的でない事 の3条件を挙げ、イギリス国歌 、ドイツ国歌 、「君が代」の3つが白眉 であると評した[ 58] 。なお、「君が代」については同時に、「音楽として、歌曲としては変な曲だが国歌としては最適な曲である。」と記した[ 58] 。
中田喜直 、水谷川忠俊 ら多くの作曲家から、歌詞と旋律が一致していないことが指摘されている[ 22] 。詳しくは中田喜直#人物 も参照
2018年に英国のテレグラフ 紙が、同年のサッカーワールドカップ 出場32か国の国歌ランキングを発表し「堂々と、洗練された、叙情的」として14位 としている。
九州王朝説 を唱えた古田武彦 は自ら邪馬壹国 の領域と推定している糸島半島 や近隣の博多湾 一帯のフィールド調査から次のような「事実」を指摘している[ 59] [ 60] 。
君が
代( だい ) は 千代に八千代に さざれいしの いわおとなりてこけのむすまで
あれはや あれこそは 我君のみふねかや うつろうがせ身( み ) 骸( がい ) に命( いのち ) 千( せん ) 歳( ざい ) という
花こそ 咲いたる 沖の御( おん ) 津( づ ) の汐早にはえたらむ釣( つる ) 尾( お ) にくわざらむ 鯛は沖のむれんだいほや
志賀の浜 長きを見れば 幾世経らなむ 香椎路に向いたるあの吹上の浜 千代に八千代まで
今宵夜半につき給う 御船こそ たが御船ありけるよ あれはや あれこそは 阿曇の君のめし給う 御船になりけるよ
いるかよ いるか 汐早のいるか
磯( いそ ) 良( ら ) が崎に 鯛釣るおきな
— 山誉め祭、神楽歌 糸島 ・博多湾 一帯には、千代の松原 の「千代 」、伊都国の王墓とされる平原遺跡 の近隣に細石神社 の「さざれ石」、細石神社の南側には「井原鑓溝遺跡 」や「井原山 」など地元住民が「いわら=(いわお)」と呼ぶ地名が点在し、また若宮神社 には苔牟須売神(コケムスメ )が祀られ極めて狭い範囲に「ちよ」 「さざれいし」 「いわら」 「こけむすめ」と、「君が代」の歌詞そのものが神社、地名、祭神の4点セットとして全て揃っていること。細石神社 の祭神は「盤長姫(イワナガヒメ )」と妹の「木花咲耶姫(コノハナノサクヤビメ )」、若宮神社 の祭神は「木花咲耶姫(コノハナノサクヤビメ)」と「苔牟須売神(コケムスメ)」であるが「盤長姫命(イワナガヒメ)」と妹の「木花咲耶姫(コノハナノサクヤビメ)」は日本神話における天孫降臨 した瓊瓊杵尊(ニニギ ノ尊)の妃であり日本の神話とも深く結びついている。上記の事から、「君が代」の誕生地は、糸島・博多湾岸であり「君が代」に歌われる「君」とは皇室ではなく山誉め祭神楽歌にある「安曇の君」(阿曇磯良 )もしくは別名「筑紫の君 」(九州王朝 の君主)と推定。
『古今和歌集 』の「君が代」については本来「君が代は」ではなく特定の君主に対して詩を詠んだ「我が君は」の形が原型と考えられるが、古今和歌集 が醍醐天皇 の勅命によって編まれた『勅撰和歌集 』であり皇室から見ると「安曇の君」は朝敵にあたるため、後に有名な『平家物語 』(巻七「忠度都落ち」)の場合のように“朝敵”となった平忠度の名を伏せて“読人しらず”として勅撰集(『千載和歌集 』)に収録した「故郷花(ふるさとのはな)」のように、紀貫之 は敢えてこれを隠し、「題知らず」「読人知らず」の形で掲載した。 糸島 ・博多湾 一帯[ 65] は参考資料[ 66] 」を見るように古くは海岸線が深く内陸に入り込んでおり、元来「君が代」とは「千代」→「八千代(=千代の複数形=千代一帯)」→「細石神社」→「井原、岩羅」と古くは海岸近くの各所・村々を訪ねて糸島半島の「若宮神社」に祀られている「苔牟須売神」へ「我が君」の長寿の祈願をする際の道中双六のような、当時の長寿祈願の遍路(四国遍路のような)の道筋のようなものを詠った民間信仰に根づいた詩ではないかと推定している。なお、『太平記 』には、「君が代」が奉納される山誉め祭の神楽とも関係する、阿曇磯良(阿度部(あどべ)の磯良)の出現について以下のように記述が存在する。
神功皇后 は三韓出兵 の際に諸神を招いたが、海底 に住む阿度部の磯良だけは、顔 にアワビ やカキ がついていて醜いのでそれを恥じて現れなかった。そこで住吉神 は海中に舞台を構えて『磯良が好む舞を奏して誘い出すと 』、それに応じて磯良が現れた。磯良は龍宮から潮を操る霊力を持つ潮盈珠・潮乾珠(日本神話 の海幸山幸神話 にも登場する)を借り受けて皇后に献上し、そのおかげで皇后は三韓出兵に成功したのだという。海人族安雲氏の本拠である福岡県 の志賀海神社 の社伝でも、「神功皇后が三韓出兵の際に海路の安全を願って阿曇磯良に協力を求め、磯良は熟考の上で承諾して皇后を庇護した」とある。北九州市 の関門海峡 に面する和布刈神社 は、三韓出兵からの帰途、磯良の奇魂・幸魂 を速門に鎮めたのに始まると伝えられる。 『古今和歌集』収載「我が君は 千代に八千代に さゞれ石の 巌となりて 苔のむすまで」は「読人知らず」とされているが、実際の詠み人は文徳天皇 の第一皇子惟喬親王 に仕えていたとある木地師 だったとする説がある。それによれば、当時は位が低かったために「読人知らず」として扱われたが、この詞が朝廷 に認められたことから、詞の着想元となったさざれ石 にちなみ「藤原朝臣石位左衛門 」の名を賜ることとなったというものである[ 67] 。
また、上述の堯智『古今和歌集陰名作者次第』では、この歌の詠み人は橘清友 ではないかとしている[ 24] 。
1985年 (昭和60年)2月26日 の閣議で松永光 文部大臣 は文部省の調査で「君が代」には3番まで歌詞があると報告している[ 68] 。それによれば、
君が代
一君が代は 千代に八千代に さゞれ石の 巌となりて 苔の生すまで 二君が代は 千尋の底の さゞれ石の 鵜のゐる磯と あらはるるまで 三君が代は 限りもあらじ 長浜の 真砂の数は よみつくすとも である。このうち二番は源頼政 のよんだ歌、三番は光孝天皇の大嘗祭 に奉られた歌である[ 68] 。
「君が代」は現在に至るまで幅広い著名人によって歌唱・演奏されている。かつての日本ではスポーツの開幕などで君が代の演奏や独唱が行われる機会が少なかったが、TUBE の前田亘輝 が1993年5月15日にJリーグ開幕戦 で披露した[ 52] [ 69] 頃から定着し始め、著名人による独奏や演奏の機会が増加している。
また、君が代の演奏を音楽媒体等に収録して発売した例として以下が挙げられる。
1885年に制定されて旧日本陸海軍 がかつて使用し、現在は海上自衛隊 が使用している曲[ 83] (右の譜例と試聴用サウンドファイル参照) 山口常光 作曲で、陸上自衛隊 が使用している曲[ 84] (右の試聴用外部メディア参照)皇子さま(久保田宵二 作詞、佐々木すぐる 作曲) -上皇明仁 が生まれた時の奉祝の歌のひとつとして発表された。 『7つの連合国国歌によるパラフレーズ』作品96(アレクサンドル・グラズノフ ) - 第1次世界大戦の連合国7か国(ロシア、セルビア、モンテネグロ、フランス、イギリス、ベルギー、日本)の国歌が使用されている[ 85] 。 『日本行進曲 』 -ヨーゼフ・シュトラウス が1862年に作曲した行進曲。この曲の第2主題が改訂版の『君が代』(1880年)からの引用ではないかという説があったものの、第2主題は1800年前後に出版された複数の書籍に掲載されていた旋律であることが判明している(日本行進曲 (ヨーゼフ・シュトラウス)#主題の引用元 を参照)。 『皇軍万歳 』-日本の軍歌、曲の終わりに君が代のメロディが使用されている 『行進曲「日本海海戦」』-軍歌「日本海海戦」の行進曲編曲版。トリオに君が代が使用されている。 ウィキメディア・コモンズには、
君が代 に関連するメディアがあります。
「君が代」(キングレコード、K1-A。1930年)
うまく聞けない場合は、サウンド再生のヒント をご覧ください。 Media:Kimigayo70.mid [ヘルプ /ファイル ] 君が代:演奏のみ。テンポ4分音符70個毎分。初めてテンポの正式記録が記された「大日本禮式」でのテンポによる。 Media:Kimigayo60.mid [ヘルプ /ファイル ] 君が代:演奏のみ。テンポ4分音符60個毎分(終り部分リタルダンド)。旧日本海軍軍楽隊が演奏していたテンポによる。 Media:Kimigayo50.mid [ヘルプ /ファイル ] 君が代:演奏のみ。テンポ4分音符50個毎分。NHKのテレビ・ラジオ放送終了時に演奏されるテンポによる。 ^a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v 高橋(1979)pp.475-476 ^a b c d e f g h i j k l m n 『ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典2』(1973)p.282 ^a b c d e f g h i j k l m n o p q r 海上自衛隊東京音楽隊「国歌『君が代』について」 ^a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v 『世界大百科事典 7』(1988)山住「君が代」p.134 ^ 小沢正夫・松田成穂校注『古今和歌集』(2000)p.148 ^a b c 谷(2008)p. 181 ^a b c d e 佐伯梅友校注『古今和歌集』(1958)p.169 ^ 金子, 元臣『古今和歌集通解 』明治書院、1955年1月1日。https://www.amazon.co.jp/dp/B000JB07Q2 。 ^ 川口久雄『和漢朗詠集』解説(1965)pp.8-44 ^a b 溝口貞彦 (2002). “「君が代」 考” . 二松学舎大学人文論叢 39 : 18-45. https://nishogakusha.repo.nii.ac.jp/records/1241 2024年12月6日閲覧。 . ^a b c 『1893年8月12日官報 』 ^ シロニー(2003)p.30 ^ 志田延義校注『梁塵秘抄』(1965)p.341 ^ 川口久雄『和漢朗詠集』補注(1965)p.283 ^ 小田切『国歌君が代の研究』(1965) ^ Frederic De Garis (1935). We Japanese: Being Descriptions of Many of the Customs, Manners, Ceremonies, Festivals, Arts and Crafts of the Japanese, Besides Numerous Other Subjects . 1 . Yamagata Press. p. 5. https://www.google.co.jp/books/edition/We_Japanese/PFsuAQAAIAAJ?hl=ja&gbpv=1&bsq=%22Thousands+of+years+of+happy+reign+be+thine%22&dq=%22Thousands+of+years+of+happy+reign+be+thine%22 ^ チェンバレン英詞の和訳:シロニー(2003)p.30 ^a b c d 暉峻(1991) ^a b c d e 陸上自衛隊中央音楽隊、他(演奏)『君が代のすべて(KICG 3074) 』キングレコード、日本、2000年。https://amazon.jp/dp/B00005HM29 。 ^a b c 和田(1998) ^a b c 千葉(2005)pp.238-239 ^a b 水谷川忠俊「雅楽研究 君が代の秘密」 ^a b c d 後藤(1974) ^a b c d 小山(1941) ^ 全国大学国語国文学会『国語国文学研究史大成7 古今集 新古今集』三省堂、日本、1960年。 ^a b c 山田孝雄(1956)9章・10章 ^a b 市古貞次・大島建彦校注『曽我物語』(1966)p.257 ^a b 岡見正雄校注『義経記』(1959)p.296 ^ 川口和也(2005) 3章「封印された『君が代』」 ^a b c d e 小田(2018)pp.99-109 ^a b c d e f 小田(2018)pp.116-138 ^ 東京日日通信社 編「国歌『君が代』の由来」『現代音楽大観』日本名鑑協会、1927年、2頁。doi :10.11501/1173920 。 (オンライン版当該ページ 、国立国会図書館デジタルコレクション)^ 小田切信夫『国歌君が代講話』共益商社書店、1929年、25頁。doi :10.11501/1188362 。 (オンライン版当該ページ 、国立国会図書館デジタルコレクション)^ 小田(2018)pp.109-115 ^a b c 内藤(1997) ^ 澤鑑之丞『海軍七十年史談』「国歌「君が代」の歌詞選出の由来」、339~343頁 ^a b 小田(2018)pp.151-167 ^ 小田(2018)pp.168-178 ^a b c d e 小田(2018)pp.231-236 ^a b 弓狩(2004) ^ 金田一春彦・安西愛子編『日本の唱歌』 講談社文庫。[要文献特定詳細情報 ] ^ 国歌「君が代」の意味、教科書で教える『読売新聞』昭和11年7月2日(『昭和ニュース事典第5巻 昭和10年-昭和11年』本編p712) ^ 尾崎(1991)p.260 ^ 堀(2001)pp.25-26 ^a b 大西 2009 , p. 81. ^a b c 辻田真佐憲 『戦時下を「君が代」はいかに生き延びたか 第2回「君が代」が迎えた敗戦 』(幻冬舎plus ) ^ “國民に歌を與えよ”. 読売新聞 朝刊 : p. 1. (1948年1月25日) ^ 小野 2001 , p. 141.^ 「日の丸」「君が代」に関する戦後年表 ^ 「君が代」の政府解釈の矛盾と修身教科書での本当の解釈 アーカイブ 2010年9月9日 -ウェイバックマシン (「日の丸・君が代による人権侵害」市民オンブズパーソン アーカイブ 2009年12月2日 -ウェイバックマシン )^ (日本語 )『年号制度・国旗・国歌に関する世論調査 』(プレスリリース)内閣府 ・政府広報室 、1974年。オリジナル の2009年1月23日時点におけるアーカイブ。https://web.archive.org/web/20090123121340/https://www8.cao.go.jp/survey/s49/S49-12-49-14.html 。2010年7月31日閲覧 。 ^a b c 法制化で注目!君が代CDブレーク? 、ZAKZAK、1999年7月23日。(インターネットアーカイブ のキャッシュ) ^ Uganda National Anthem ^ “『君が代』前奏いる・いらない論争 「歌う」意識現れたためか ”. NEWSポストセブン . 2024年11月24日閲覧。 ^ 海上自衛隊東京音楽隊「国歌『君が代』について」 ^a b リオ五輪の「君が代」に内村選手「すごくゆっくり」 JOC「実は意図してテンポを遅くした」 (ねとらぼ2016年 8月9日 ) ^ “高藤直寿選手が金メダル1号、「君が代」が短いことに気づいた? 変遷の歴史 ”. 朝日新聞GLOBE+ (2021年7月25日). 2021年7月28日閲覧。 ^a b 團『しっとりパイプのけむり』p. 145 ^ 古田(1990) ^ 参考:独創古代|君が代の源流 ^ “参考:NPO法人無形民俗文化財アーカイブズ|福岡県の指定・選択無形民俗文化財リスト ”. 2016年1月30日時点のオリジナル よりアーカイブ。2016年1月4日閲覧。 ^ 参考:YouTube動画|志賀島 志賀海神社 山誉め祭 ^ 参考:志賀海神|社山誉祭 ^ 参考:福岡市の文化財|山ほめ祭 ^ l 参考:我が君地図|糸島・博多湾岸 ^ 馬場崎正博, 宗琢万, 河口洋一 ほか、「歴史的視点から見た干潟環境の変化と人との係わりに関する研究 福岡・今津干潟を例に 」 環境システム研究論文集 2006年 34巻 p.97-103,doi :10.2208/proer.34.97 ^ “さざれ石 ”. 株式会社吉村造園 . 2020年11月27日閲覧。 ^a b 溝口(2005)pp.106-109 ^ “川淵名誉会長がTUBE前田氏と談笑 ”. ゲキサカ (2008年7月29日). 2020年7月20日閲覧。 ^ 地味変|RELEASE|ALBUM ^ 大黒摩季、“Voice Of Japan”名義で「君が代」と新曲「東京 Only Peace」同時配信リリース「日本を愛するいち国民として」 BARKS 2021年7月22日配信 2026年1月4日閲覧。^ 宇宿允人の世界23~ベートーヴェン:交響曲第9番「合唱つき」他 宇宿允人 / フロイデフィルハーモニー 、CDジャーナル。- 2017年2月6日閲覧。^ 世界で最も美しい宇宿允人の「君が代」オーケストラ演奏 、ZAKZAK、2015年7月25日。^ シークレットライブ '99 SAS 事件簿 in 歌舞伎町 SOUTHERN ALL STARS OFFICIAL SITE^ 2000年のライブビデオ『シークレットライブ'99 SAS 事件簿 in 歌舞伎町』収録。 ^a b 2013年のライブビデオ「THE TRUTH」DISC3 Stay Alive Live at Osaka-jo Hall 2012.10.21より。 ^ 平井堅/MTV UNPLUGGED KEN HIRAI タワーレコードオンライン 2021年12月17日閲覧^ 「君が代」吉川久子 YouTube 2021年7月18日配信 2021年10月24日閲覧。^a b c 相沢富蔵(編)「君ケ代」『陸海軍喇叭譜』厚生堂、1897年、1頁。 (国立国会図書館デジタルコレクション で公開されているオンライン版 、2019年6月4日閲覧) ^a b 管楽研究会(編)「陸軍喇叭譜」『軍隊喇叭、喇叭鼓隊教本』管楽研究会、1941年、34頁。 (国立国会図書館デジタルコレクションで公開されているオンライン版 、2019年6月4日閲覧) ^ 「陸軍喇叭譜 敬禮ノ部 君カ代」『標準軍歌集 : 附録・陸海軍喇叭譜』野ばら社 、1934年、附録3頁。 ^ 「海軍喇叭譜 禮式ノ部 君ガ代」『標準軍歌集 : 附録・陸海軍喇叭譜』野ばら社 、1934年、附録18頁。 ^a b 佐々木康之 (2018年7月21日). “自衛艦に響くラッパ君が代 130年前の譜、呉港で今も ”. 朝日新聞デジタル . 2019年6月4日閲覧。 ^a b “陸上自衛隊:サウンド ”. 陸上自衛隊 公式ウェブサイト . 2019年6月4日閲覧。 ^ 『7つの連合国国歌によるパラフレーズ』 の楽譜 -国際楽譜ライブラリープロジェクト 下記の放送局では、放送開始・終了時の局名告知 として君が代と日の丸 を使用している。
NHK総合テレビジョン (NHK総合) - 放送開始・終了時の局名告知のBGMとして君が代を使用している。かつては、NHK教育テレビジョン (NHK Eテレ)でも本曲が使用されていた。(なお現在Eテレにおいても総合テレビジョン同様国歌が流れる。)テレビ大分 (TOS、日本テレビ系列 ・フジテレビ系列 のクロスネット局 ) - 1980年代から1990年代中盤まで局名告知のBGMとして使用していた。テレビ熊本 (TKU・フジテレビ系列) - 開局時から1980年代始めまで局名告知のBGMとして使用していた。ニッポン放送 (JOLF) - 1954年(昭和29年)7月15日の開局時より放送開始時の局名告知のBGMとして使用している。福井放送 (FBC • 日本テレビ系列) - 一時期、ラジオで使用されたことがある。関西テレビ放送 (KTV • フジテレビ系列) - 1960年代の一時期、オープニングで使用された。東アジア 東南アジア 南アジア 中央アジア 西アジア ロシア連邦
その他 関連項目 各列内は五十音順。1 ヨーロッパにも分類され得る。2 アフリカにも分類され得る。3 ウクライナと帰属係争中