| 大字吐鯤保 | |
|---|---|
| 大字 | |
吐鯤保川における木材流送 (1926年) | |
北緯46度39分08秒東経141度54分34秒 / 北緯46.652286度 東経141.909346度 /46.652286; 141.909346座標:北緯46度39分08秒東経141度54分34秒 / 北緯46.652286度 東経141.909346度 /46.652286; 141.909346 | |
| 国 | |
| 地方行政官庁 | |
| 支庁 | 真岡支庁 |
| 郡 | 本斗郡 |
| 市町村 | 本斗町 |
| 人口情報(1931年(昭和6年)時点[1]) | |
| 人口 | 674 人 |
| 世帯数 | 87 世帯 |
| 設置日 | 1924年(大正13年)1月25日[2] |
| 廃止日 | 1949年(昭和24年)6月1日 |
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吐鯤保(とこんぼ)は、樺太本斗郡本斗町にかつてあった大字および集落[3]。成立から消滅に至るまで、一貫して字吐鯤保、字吐鯤保沢、字南浜の3字により編成される大字であった[3]。かつては土金保とも記された[4]。旧ロシア帝国領ミナミトコンボ・トコンボ一帯、旧樺太本斗郡本斗村のち本斗町大字本斗の一部、現ロシア連邦サハリン州ネベリスク管区(ロシア語版)ネベリスク・カザケヴイッチ(ロシア語:Казакевич)・コルホーズノエ(ロシア語版)一帯に相当する[5][6]。
樺太西海岸、本斗町の南東部、吐鯤保一円に位置していた[7][8]。南は内幌村越内沢と接し、牛荷川流域・椎内川上流流域と各々水嶺を共有していた[8]。東は留多加村の多蘭川流域と接し、北は大字本斗字鳥舞沢と並ぶ[8]。そして西は字吐鯤保の狭小地を隔てて日本海に面していた[8]。広袤は東西5里余、南北2里で面積は約8方里であった[8]。
吐鯤保は大半が山地によって占められており、吐鯤保川沿岸のわずかな平地に集落が分布していた[9]。地質はほぼ全域が第三紀層であり、含炭層が沢口の吐鯤保炭田およびそこから5里離れた場所にある雨龍炭田で露頭していた[9]。また、海岸から14、15町の辺りには含油層もあった[9]。
気候は本斗市街地よりも夏冬ともに温暖であり、降雪は例年、本斗市街地より20日くらい遅れていた[10]。なお、本斗郡郷土誌(1931年発行)によれば、本斗市街地の降雪は1921年から1925年まで平均して10月19日に始まるとされるため、11月初旬から中旬あたりに初雪を迎えていたと考えることができる[11]。
字南浜は旧ロシア帝国領ミナミトコンボ、字吐鯤保は旧ロシア帝国領トコンボに相当する[6]。現在は字南浜がロシア連邦サハリン州ネベリスク管区(ロシア語版)ネベリスクに、字吐鯤保がロシア連邦サハリン州ネベリスク管区カザケヴイッチに、字吐鯤保沢がロシア連邦サハリン州ネベリスク管区コルホーズノエ(ロシア語版)となっている[5][6]。
大字吐鯤保は1924年(大正13年)の成立から1949年(昭和24年)の消滅に至るまで一貫して以下の3字を擁していた。
和名「吐鯤保」は明治44年3月21日内閣告示第2号「樺太ニ於ケル地名左ノ通󠄁改正ス」により、1911年(明治44年)3月21日に旧称のトコンボから改称される形で命名された[13]。トコンボの地名の由来は諸説あるため、以下に列挙する。
以下は1931年(昭和6年)時点における大字吐鯤保における施設である。
字南浜や字吐鯤保に漁業場が設けられており、サケやマス、ニシンが収穫されていた[28][29]。ニシンについては吐鯤保のみならず、本斗や越内といった場所でも盛んに漁が行われていたようであるが、1906年(明治39年)から1912年(大正元年)に至るまで不漁が続き一時は将来の展望を憂えるほどであった[28]。しかし、1913年(大正2年)以降はニシンの回遊が好転し、盛んにニシン漁が行われるようになった[28]。
以下に1931年(昭和6年)時点における吐鯤保の居住人口・戸数と本籍人口・戸数を記載する[1]。
| 大字 | 居住 | 本籍 | ||
|---|---|---|---|---|
| 戸数 | 人口 | 戸数 | 人口 | |
| 吐鯤保 | 87戸 | 674人 | 24戸 | 165人 |
なお、吐鯤保は全国各地から住民が集まって形成された集落であるため、1931年(昭和6年)時点では未だ、風俗習慣と呼ぶべきものはないと本斗郡郷土誌では述べられている[30]。
教育機関としては公立吐鯤保尋常小学校と私塾(朝鮮人学校)が存在していた[31]。吐鯤保尋常小学校は1931年時点で学級数1、児童数58名を擁し、朝鮮人学校は児童数7名を擁していた[31]。