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吉井勇

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
吉井 勇
1955年
誕生吉井 勇(よしい いさみ[1]
1886年10月8日
日本の旗日本東京府芝区高輪
死没 (1960-11-19)1960年11月19日(74歳没)
日本の旗日本京都府京都市
墓地青山霊園
言語日本の旗日本
国籍日本の旗日本
最終学歴攻玉社卒業
早稲田大学専門部政治経済科中退
活動期間1908年 -1960年
ジャンル短歌戯曲小説随筆
文学活動耽美派
代表作歌集『酒ほがひ』(1910年)
ゴンドラの唄』(1915年)
デビュー作「午後三時」(1909年)
親族吉井友実(祖父)
吉井幸蔵(父)
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吉井 勇(よしい いさむ、1886年明治19年)10月8日 -1960年昭和35年)11月19日)は、明治末期から昭和中期の日本の歌人劇作家小説家である[2]。元伯爵華族)。宮中歌会始選者、日本芸術院会員。本名の読み仮名は「よしい いさ[1]

“いのち短し、戀(こひ)せよ、少女(をとめ)”の歌詞で知られる『ゴンドラの唄』の作詞者[3]。北原白秋らと「パンの会」を結成。石川啄木らとは雑誌「スバル」を発行して耽美派の拠点とした。京都の祇園を愛し、「祇園歌人」の異名で呼ばれた。人生享楽の世界を歌った代表作『酒ほがひ』(明治43年)のほか、『祇園歌集』(大正4年)、『人間経』(昭和9年)、『天彦』(昭和14年)などがある。

経歴

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生い立ち

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維新の功により伯爵となった旧:薩摩藩士吉井友実を祖父、海軍軍人で貴族院議員も務めた吉井幸蔵を父に、東京芝区高輪に生まれた[4]

幼少期を鎌倉材木座の別荘で過ごし、鎌倉師範学校付属小学校に通う(現:横浜国大附属鎌倉小学校)。1900年4月に東京府立第一中学校(現:都立日比谷高校)に入学するが、落第したため日本中学(現在の日本学園中・高)に転校した。漢学塾へ通い、『十八史略』『文章軌範』などを習う。この頃『海国少年』に短歌を投稿して1位となった。

その後、攻玉社(現:攻玉社中・高)に転じ、1904年に同校卒業。卒業後には胸膜炎(肋膜炎)を患って平塚の杏雲堂に入院するが、鎌倉の別荘へ転地療養した際に歌作を励み、『新詩社』の同人となって『明星』に次々と歌を発表。北原白秋とともに新進歌人として注目されるが、翌年に脱退する。

1908年早稲田大学文学科高等予科(現在の早大学院高に相当)に入学する。途中専門部政治経済科に転ずるも中退した。

歌人として

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吉井勇歌碑(轟の滝
吉井勇歌碑(護王神社

大学を中退した1908年の年末、耽美派の拠点となる「パンの会」を北原白秋、木下杢太郎石井柏亭らと結成した。

1909年1月、森鷗外を中心とする『スバル』創刊となり、石川啄木平野万里の3人で交替に編集に当たる。啄木とは同学年だったこともあり、特に親しかった。3月に戯曲『午後三時』を『スバル』に発表。坪内逍遥に認められ、続々と戯曲を発表して脚本家としても名を上げる。1910年、第一歌集『酒ほがひ』を刊行。翌年には戯曲集『午後三時』を刊行し、耽美派の歌人・劇作家としての地位を築いた。

1915年11月、歌集『祇園歌集』を新潮社より刊行。装幀は竹久夢二、この頃から歌集の刊行が増える。歌風は耽美頽唐であり、赤木桁平から「遊蕩文学」であるとの攻撃を招いた。歌謡曲ゴンドラの唄』(中山晋平作曲)の作詞を手がけ、大衆の間に広く流行した。1919年11月、里見弴田中純久米正雄らと『人間』を創刊。1934年からの土佐猪野々(現:香美市)での隠棲生活を経て1938年に京都府京都市に移り、歌風も大きく変化していった。

晩年

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戦時下の1945年(昭和20年)2月、京都の馬町空襲をきっかけに富山県婦負郡八尾町へ疎開し、当地で終戦を迎えた。戦後まもなく京都市内への転入が叶わず、同年10月、知人の招きで京都府綴喜郡八幡町(現:八幡市)月夜田の宝青庵(ほうじょうあん、浄土宗)に仮寓[5]。八幡町在住時代は谷崎潤一郎川田順新村出と親交をもった。1947年(昭和22年)6月9日昭和天皇が京都に行幸(昭和天皇の戦後巡幸)した際には、4人で京都大宮御所に召し出され座談会に参加した[6]。後日、勇は文楽座行幸にも陪観の栄を得た[7]

1948年(昭和23年)1月に歌会始選者、同年8月には日本芸術院会員に推挙された[8]。同月、八幡町から京都市内(上京区油小路元誓願寺頭町)へ転居する[8]

1949年(昭和24年)10月21日、吉井を含む日本芸術院会員8人が皇居に招かれ、午餐の御陪食を賜る。食後のお茶の席で与謝野鉄幹の思い出について語る[9]

1960年(昭和35年)11月19日、胃癌から転移した肺癌のため京都大学医学部附属病院で死去。葬儀・告別式(同月30日)は祇園花街に程近い建仁寺僧堂で営まれ、祇園関係の女性が列をなして故人に別れを告げた[10]。谷崎潤一郎によれば、勇の訃報に接した馴染みの芸妓が「なんで菊の花になっておしまいやしたんえ」と嘆いたと伝える[11]。戒名は大叡院友雲仙生夢庵大居士[12]。墓所は東京・青山の青山霊園にあり、分骨が比叡山に納められた[13]

没後

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吉井勇記念館(高知県香美市)

1997年平成9年)5月、原稿、書簡、愛用品などが長男滋より京都府立総合資料館(現:京都府立京都学・歴彩館)に寄贈された[14]

2003年平成15年)、ゆかりのある高知県香美郡香北町(現:香美市)猪野々に香北町立吉井勇記念館が創立された(現:香美市立吉井勇記念館)。開館以来、勇の功績を顕彰して、毎年「吉井勇顕彰短歌大会」が開催されている[15]

2015年(平成27年)3月26日、勇が猪野々に建てた草庵『渓鬼荘』(けいきそう)が国の有形文化財に登録された[16]

家族

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最初の妻・徳子は、伯爵・柳原義光(歌人・柳原白蓮の異母兄)の次女。14歳年下の徳子とは1921年(大正10年)に結婚し、翌年には長男の滋を授かったが、夫婦互いの性格が「余りにかけ離れて」(勇)いたため円満な家庭を築くことができなかった。事実上の別居生活ののち、友人の仲介もあって神奈川県で再度同居を試みたものの関係修復には至らず、徳子が東京で独居中だった1933年(昭和8年)11月、ダンス教師と有閑夫人らの不倫事件(「ダンスホール事件」、俗にいう「不良華族事件」)が各紙で大きく報道され、徳子が斡旋役をつとめていたことが明らかになった[17]。取調べを受けた徳子はその供述のなかで、勇の親しい文士仲間の賭博を暴露して、不倫事件とは別の「文士賭博」にまで事件を飛び火させた[17]。翌月、徳子は華族の礼遇を停止、勇も「監督不行届き」を問われて訓戒処分となり、「隠居」の決意を紙上で表明する[18][注釈 1]。1年後、高知県香美郡在所村(現:香美市)猪野々の山里に隠棲した勇は、のちに徳子と離婚した[注釈 2]

1937年(昭和12年)、18歳年下の国松孝子(タケ、1904-1995)と事実上の結婚生活を始めた。孝子は芸者の母を持つ女性で、浅草仲見世に近い料亭「都」の看板美人と謳われていた。昔は竹という名だったが、結婚時に孝子に変えた[19]。竹は震災前後の頃は浅草で一番の人気の娘で、吉井はじめ、菊池寛久米正雄沢田正二郎坂本紅蓮洞ら店の常連客たちが「お竹さん結婚反対同盟」を結成したほどだったが、上野のヤマモトという喫茶店経営者に嫁入りしたのち婚家を飛び出し、再び「都」で働いていた[20]

同年、孝子を高知市築屋敷(現:上町)の古びた家に迎えた勇は、翌1938年(昭和13年)、宮内省から従三位への昇叙を受けた[21]。訓戒処分の名誉回復ともとれるこの出来事をきっかけに、翌月には京都市左京区北白川へ転住し、本当の意味での再出発を始めることとなる[22]

孝子と結ばれたことは、運命の神様が私を見棄てなかつたためといつてもよく、これを転機として私は、ふたたび起つことができたのである。
吉井勇、私の履歴書[23]

長男の吉井滋(よしい しげる、大正11年生まれ)は両親の離婚後、勇の弟妹に育てられた[24]。叔父友春の影響で野球をはじめ、野球一筋の人生を送る[24]。戦時中は学徒出陣横須賀武山海兵団に入団[24]。終戦翌年、学習院高校(旧制)野球部キャプテン(1番キャッチャー)として出場した第9回高等学校野球選手権大会で初優勝を果たした[24]。卒業後は後楽園野球場(のちの後楽園スタヂアム、現東京ドーム)に就職、読売ジャイアンツ9連覇した当時は支配人を務めていた[24]1959年6月25日プロ野球天覧試合の実現に蔭で尽力したことで知られる。1999年(平成11年)に紺綬褒章を受章した[24]

その他

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  • 早稲田大学政治経済科に進んだ頃には、父・幸蔵の資産をあてにして毎夜「紅灯緑酒の巷」を彷徨う放蕩息子となっていた。幸蔵は、1927年(昭和2年)に没したが、その際には「その道に秀でよ」との言葉を残した[25]
  • 京都市東山区祇園白川沿いには、鞍馬石でつくられた「かにかくに 祇園はこひし寝(ぬ)るときも 枕のしたを水のながるる」の歌碑がある[26]。勇が古希を迎えた1955年11月8日(実際の誕生日からは一月遅れ)に建てられた。毎年、祇園甲部舞妓が歌碑に白菊を手向けて勇をしのぶ「かにかくに祭」が行われている。
  • 井原西鶴を愛読、一部作品を現代語訳、戦前に春秋社「現代語西鶴全集 第7巻」を、戦後は創元社「西鶴好色全集」(全4巻)を刊行、数作が文庫再刊されている(下記参照)。
  • 太宰府天満宮本殿裏手にある「お石茶屋」前には勇が詠んだ歌碑がある。
  • 2012年3月、与謝野鉄幹に宛てた書簡(1905年8月11日投函)が発見され、短歌58首が記されていた紙の署名「吉井いさむ」が鉄幹の朱によって本名の「勇」と直されていた事実が判明。新詩社発行の「明星」1905年(明治38年)5月号では「吉井いさむ」となっていた筆名が同年9月号では「吉井勇」と変更されているが、与謝野鉄幹が名付け親だったことが明らかになった[27]
  • 京都市下京区の喫茶ソワレには、よく来店していたことから、店頭に「珈琲の香にむせびたるゆふべより 夢見るひととなりにけらしな」の自筆歌碑がある。
  • 8代目桂文楽の口癖のひとつ「長生きするのも芸のうち」は吉井勇から言われた言葉であると自著『あばらかべっそん』で明かしている[28]

著書

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  • 『酒ほがひ』昂発行所、1910年
  • 『午後三時 戯曲集』東雲堂、1911年
  • 『水荘記』東雲堂、1912年
  • 『夜 戯曲』春陽堂(現代文芸叢書)1912年
  • 『恋人』たちばなや、1913年
  • 『昨日まで』籾山書店、1913年
  • 『恋愛小品』籾山書店、1913年
  • 『ねむりぐさ 漫画漫筆』大屋書店、1913年
  • 『恋慕流し』植竹書院(現代和歌選集叢書)1915年
  • 『片恋』籾山書店、1915年
  • 『初恋』籾山書店、1915年
  • 『祇園歌集』新潮社、1915年
  • 『東京紅燈集』新潮社、1916年
  • 『未練』阿蘭陀書房、1916年
  • 『仇情』通一舎、1916年
  • 『俳諧亭句楽』通一舎、1916年
  • 『黒髪集』千章館、1916年
  • 『明眸行』天弦堂書房、1916年
  • 『舞姿 祇園画集』長田幹彦共著中沢弘光画 阿蘭陀書房、1916年
  • 『新訳 絵入伊勢物語竹久夢二画 阿蘭陀書房、1917年/新装版・国書刊行会、2011年
  • 『祇園双紙』新潮社、1917年
  • 『麻の葉集』平和出版社、1917年
  • 『髑髏尼 脚本』平和出版社、1917年
  • 『狂芸人 戯曲』春陽堂、1917年
  • 『河霧』春陽堂(自然と人生叢書)1918年
  • 『鸚鵡石 歌集』玄文社、1918年
  • 『草珊瑚 自歌自釈』東雲堂、1918年
  • 『一代女西鶴物語』春陽堂、1918年
  • 『毒うつぎ』南光書院(歌集叢書)1918年
  • 『句楽の話』玄文社、1918年
  • 『旅情』新潮社、1919年
  • 『河原蓬 歌集』春陽堂、1920年
  • 『浮世絵の顔 新錦絵帖 一の巻』大鐙閣、1920年。北野恒富
  • 『吉井勇選集』アルス名歌選、1921年。与謝野晶子
  • 『髑髏舞』新潮社(現代脚本叢書)1921年
  • 『生霊』日本評論社出版部、1921年
  • 『句楽の死』金星堂名作叢書 1922年
  • 『狂へる恋』新潮社、1922年
  • 『杯』玄文社、1924年
  • 『夜の心』プラトン社、1924年
  • 『暁鐘』四紅社、1925年
  • 『最後の接吻・劇場入口の半時間・鴎の死骸』春陽堂(ラヂオドラマ叢書)1925年
  • 『墨水十二夜』聚芳閣、1926年
  • 『恋ぐさ 自歌自釈』交蘭社、1926年
  • 『新釈百人一首夜話』交蘭社、1926年
  • 『悪の華』宝文館、1927年
  • 『生ひ立ちの記 歌ものがたり集』不二書房、1928年
  • 『玉蜻 歌集』交蘭社、1928年
  • 『鸚鵡杯 歌集』太白社、1930年
  • 『短歌入門』誠文堂文庫、1932年
  • 『人間経 歌集』政経書院、1934年、角川書店(飛鳥新書)1947年
  • 『娑婆風流』岡倉書房、1935年
  • 『わびずみの記』政経書院、1936年
  • 『天彦 歌集』甲鳥書林、1939年
  • 『洛北随筆』甲鳥書林、1940年
  • 『風雪 歌集』八雲書林、1940年
  • 『相聞歌物語』甲鳥書林、1940年
  • 『遠天 歌集』甲鳥書林、1941年
  • 『短歌歳時記』臼井書房、1942年
  • 『雷 歌随筆』天理時報社、1942年
  • 『朝影 歌集』墨水書房、1943年
  • 『百日草』桜井書店、1943年
  • 『歌境心境』湯川弘文社、1943年
  • 『蓮月 戯曲』大雅堂、1943年
  • 『玄冬』創元社、1944年
  • 『京洛史蹟歌』大雅堂、1944年
  • 『旅塵』桜井書店、1944年
  • 『寒行 歌集』養徳社、1946年
  • 『流離抄』創元社、1946年
  • 『墨宝抄』鎌倉文庫、1947年
  • 『定本吉井勇歌集』養徳社、1947年
  • 『不夜庵物語』星林社、1947年
  • 『市井夜講』新月書房、1947年
  • 『残夢』創元社、1948年
  • 『恋愛名歌物語』創元社、1951年
  • 好色一代女角川文庫、1952年。現代語訳
  • 『蝦蟆鉄拐』中央公論社、1952年
  • 『吉井勇歌集』新潮文庫 1952年、復刊1994年
  • 『吉井勇歌集』岩波文庫 1952年、復刊1995年ほか
  • 源氏物語 現代語縮訳版』創元社、1952年/平凡社(新装版)、2011年。蓬田やすひろ
  • 『東京・京都・大阪 よき日古き日』中央公論社、1954年/平凡社ライブラリー(改訂版)、2006年
  • 吉井勇全歌集』中央公論社、1955年/中公文庫(改訂版)、2016年
  • 『形影抄 歌集』甲鳥書林、1956年
  • 『京の歌ごよみ』ダヴィッド社、1957年
  • 『京都歳時記』修道社、1961年
  • 吉井勇全集』全8巻 番町書房、1963年-1964年。木俣修
  • 定本 吉井勇全集』全9巻 番町書房、1977年-1978年。復刊・日本図書センター、1998年
  • 『現代語訳好色一代男岩波現代文庫、2015年

関連書籍

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脚注

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[脚注の使い方]

注釈

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  1. ^事件後に爵位を「返上した」ともいわれてきたが、返上した事実はどこにも見あたらない(細川光洋 2021, pp. 50–51)。5年後の昭和13年、従三位に昇叙(9月15日付)した際の御璽捺印の詔書にも「正四位伯爵吉井勇」と記されている(細川光洋 2021, pp. 394–397)。
  2. ^妻鳥季男編の年譜では1935年(昭和10年)12月に離婚(高知県立文学館 2000, p. 33)。細川光洋 (2021, p. 407)編の略年譜では1948年(昭和23年)1月に離籍。

出典

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  1. ^ab維新史料編纂会『現代華族譜要』 日本史籍協会、1929年、698頁。
  2. ^「総合資料館だより:No.127」京都府立総合資料館、2001年5月
  3. ^吉井勇作詞曲「ゴンドラの唄」”. 香美市役所 (2012年12月25日). 2025年8月21日閲覧。
  4. ^漂泊の歌人 吉井勇香美市
  5. ^吉井勇『東京・京都・大阪』平凡社平凡社ライブラリー 581〉、2006年、218頁。
  6. ^宮内庁『昭和天皇実録第十』東京書籍、2017年3月30日、351頁。ISBN 978-4-487-74410-7 
  7. ^吉井勇『東京・京都・大阪』平凡社〈平凡社ライブラリー 581〉、2006年、237、238頁。
  8. ^ab高知県立文学館 2000, pp. 34.
  9. ^宮内庁『昭和天皇実録第十』東京書籍、2017年3月30日、920頁。ISBN 978-4-487-74411-4 
  10. ^高知県立文学館 2000, p. 26.
  11. ^『ふるさと文学さんぽ 京都』真銅正宏監修、大和書房、2012年、81頁。
  12. ^岩井寛『作家の臨終・墓碑事典』(東京堂出版、1997年)355頁
  13. ^高知県立文学館 2000, pp. 34、37.
  14. ^細川光洋 2021, p. 12.
  15. ^第22回吉井勇顕彰短歌大会・受賞作品”. 香美市役所 (2025年3月1日). 2025年8月27日閲覧。
  16. ^吉井勇記念館に隣接する「渓鬼荘」が国の登録有形文化財になりました!”. 香美市役所 (2015年3月25日). 2025年7月22日閲覧。
  17. ^ab細川光洋 2021, pp. 44–45.
  18. ^細川光洋 2021, pp. 49–50.
  19. ^『遊草の二人 潤一郎と勇』真下五一、学芸書林、1977、p147
  20. ^『月夜に傘をさした話』正岡容、幻戯書房、2018、p261-262
  21. ^細川光洋 2021, p. 395.
  22. ^細川光洋 2021, p. 398.
  23. ^日本経済新聞社編『私の履歴書:文化人 1』日本経済新聞社、1983年、318頁。
  24. ^abcdef高知県立文学館 2000, p. 28.
  25. ^千田稔『華族総覧』講談社現代新書、2009年7月、581-582頁。ISBN 978-4-06-288001-5 
  26. ^京(みやこ)の橋しるべ 第3号”. 京都市. 2020年6月5日閲覧。
  27. ^朝日新聞デジタル:歌人・吉井勇、鉄幹が名付け親 直筆短歌58首から判明
  28. ^レファレンス事例詳細”. レファレンス協同データベース. 国立国会図書館 (2012年12月13日). 2025年7月23日閲覧。

参考文献

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関連項目

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外部リンク

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日本の爵位
先代
吉井幸蔵
伯爵
吉井(友実)家第3代
1926年 - 1947年
次代
(華族制度廃止)
芸妓
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