| 古牧 こまき | |
|---|---|
| 国 | |
| 地方 | 中部地方(甲信越地方) |
| 都道府県 | 長野県 |
| 自治体 | 長野市 |
| 旧自治体 | 古牧村 |
| 面積 | 6.61km² |
| 総人口 | 26,296人 (推計人口、2023年3月1日現在) |
| 人口密度 | 3,978.21人/km² |
| 隣接地区 | 第三地区、吉田地区、芹田地区、三輪地区、朝陽地区、大豆島地区 |
| 長野市役所古牧支所 | |
| 北緯36度38分56.9秒東経138度13分7.9秒 / 北緯36.649139度 東経138.218861度 /36.649139; 138.218861座標:北緯36度38分56.9秒東経138度13分7.9秒 / 北緯36.649139度 東経138.218861度 /36.649139; 138.218861 | |
| 所在地 | 〒381-0037 長野県長野市西和田1-12-1 |
| リンク | 古牧支所公式ページ |
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古牧(こまき)は長野市中東部の地域。4の国道と3の県道が通り、長野市街地のベッドタウンとして発展してきた。本項ではかつて概ね同地域に所在した上水内郡古牧村(こまきむら)についても述べる。
村名「古牧」の由来ははっきりしないが、『古牧誌』によれば、1889年(明治22年)に誕生した村名をどうするかで、各村の代表者で意見がなかなかまとまらなかった。困った末に西尾張部の物知り、林幸平(今釈迦とも呼ばれていた)に聞いたところ、「聖徳太子がこの辺を牧場として馬を飼われたともいわれ、また『吾妻鏡』その他の古い史料にも、この辺一帯が牧場であったことが記されている。それゆえ、古い牧場すなわち古牧が適切であろう」と提言した。皆は賛成し、「古牧村」と決定したという[1]。
1888年~1995年は『長野市誌 第8巻』[2]による。2000年以降は長野市町別人口及び世帯数[3]の各年1月1日のデータである。明治から昭和10年(1935年)頃まではゆるやかな増え方で、長野市近郊の農村として大きな変化は見られなかった。その後、第二次大戦後から増加が始まり、1951年には五分一・中村間に市営住宅ができた。これが古牧地区の団地の初めである。それから1959年頃から古牧の市街化が進んだ。人口増加率は市内有数である[1]。
1992年(平成4年)には古牧小学校のマンモス校解消のため、南高田に緑ヶ丘小学校ができた[1]。増加ペースは近年鈍化しているが、2020年時点ではまだ微増を続けている。
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| 長野市 | |||||||||||||||||||||||||
| こまきむら 古牧村 | |
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| 廃止日 | 1923年7月1日 |
| 廃止理由 | 編入合併 長野市、吉田町、芹田村、三輪村、古牧村 →長野市 |
| 現在の自治体 | 長野市 |
| 廃止時点のデータ | |
| 国 | |
| 地方 | 中部地方(甲信越地方) |
| 都道府県 | 長野県 |
| 郡 | 上水内郡 |
| 市町村コード | なし(導入前に廃止) |
| 総人口 | 4,138人 (国勢調査、1920年) |
| 隣接自治体 | 長野市 上水内郡吉田町、芹田村、三輪村、朝陽村、大豆島村 |
| 古牧村役場 | |
| 所在地 | 長野県上水内郡古牧村 |
| 座標 | 北緯36度38分56.9秒東経138度13分07.5秒 / 北緯36.649139度 東経138.218750度 /36.649139; 138.218750 (古牧村) |
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しなの鉄道の北しなの線が地区内を通過するが、駅は所在しない。
| 長野地域 | |
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| その他地域 | |