古東スラヴ語 [ 1] (こひがしスラヴご、英語 :Old East Slavic, OES 、古代ロシア語 、古ルーシ語 [ 2] などとも)は、6世紀 から15世紀 にかけて、キエフ・ルーシ とその後継諸国の東スラヴ人 によって使用された言語 。
かつて現在の東ヨーロッパ のウクライナ 、ベラルーシ 、ロシア やポーランド の県の一部で話されており、今日のウクライナ語 、ベラルーシ語 、ロシア語 などに発展した[ 3] とされる(否定説もある[ 4] )。古いロシア文学のモニュメントのほとんどは、古東スラヴ語で書かれている。
この言語はすべての東スラヴ人 にとって各々の国の歴史の一部であることから、以下のように称されることもある[ # 1] 。
古ウクライナ語 (英語 :Old Ukrainian Language, OU 、ウクライナ語 :давньоукраїнська мова) 古キエフ語(英語 :Old Kyivan Language, OK 、ウクライナ語 :давньокиївська мова ) 古ベラルーシ語 (英語 :Old Belarusian Language, OB 、ベラルーシ語 :старажытнабеларуская мова ) 古ルーシ語 (英語 :Old Rus’ian language, Old Ruthenian language, OR 、ベラルーシ語 :старажытнаруская мова 、ウクライナ語 :давньоруська мова )[ 5] 古ロシア語 、古期ロシア語[ 6] 、(英語 :Old Russian, OR 、ロシア語 :древнерусский ) なお、それぞれの訳語の「古」については、「古期」「古代」とも訳すこともある。
古東スラヴ語は、スラヴ祖語 から発展しその特徴を多く引き継いでいる。この言語の進化において特筆すべき現象は、いわゆる充音 又は母音重複(pleophony、Полногласие ポルノグラーシエ:古代スラヴ語の-ра-, -ла-, -ре-, -ле- の形に対して東スラヴ諸語において-оро-, -оло-, -ере-, -ело- となった現象[ 7] )とよばれ、他のスラヴ語群にはない東スラヴ諸語の特徴である。充音の例として、スラヴ祖語の*gordъ (街、居住地)は古東スラヴ語ではgorodъ に、スラヴ祖語の*melko (牛乳、milk)は古東スラヴ語ではmoloko 、スラヴ祖語の*korva (牛、cow)は古東スラヴ語ではkorova となる。
現存する文書記録がわずかであることから、言語としてどの程度まで統一されていたのかを判断するのは難しいが、キエフ・ルーシ を構成していた部族・氏族の数を考慮した場合、古東スラヴ語にはおそらく多数の方言が存在していたものと考えられる。そのため、今日の説は現存している記録だけをもとにした断定的な意見の可能性があり、またこうした記録は、解釈の仕方は複数あるものの、歴史的記録が始まった時点で既に地域的な分化を示している。
時がたつにつれて、分化はさらに進み、現代のウクライナ語 、ベラルーシ語 、ルシン語 、ロシア語 などの祖先となっていったという説が最もよく知られている。ただし、これらの言語の分岐時期については諸説あり、スラヴ基語 から直接的に分岐し6世紀 には別言語になっていたというシェヴェリョフ (英語版 ) の説、キエフ・ルーシの成立した9世紀 には分岐していたというストルミンスキーの説などがある[ 4] 。ロシアとウクライナ、ベラルーシはもともとひとつであったと主張したソ連 では、ルーシの地が分裂した13世紀 から14世紀 以降に言語も分離していき、元来は同一の言語であったとする説が主流であった[ 4] 。いずれにせよ、これらの言語はそれぞれ古東スラヴ語の文法と語彙を多く受け継いでいる。
タタールのくびき を脱し、以前のキエフ・ルーシの領土がリトアニア大公国 とモスクワ大公国 に二分され、それぞれの国で、南および南西部のルーシ語 および北部・北東部の中期ロシア語という別々の文語として発展した。
西スラヴ諸語と南スラヴ諸語と異なり、母音重複が見られる。例えば、西スラブ語:/mle ko/ 東スラブ語:/molo ko/ (牛乳) 教会スラブ語 :/Vla dimir/ 東スラブ語:/Volo dymir/ (ウラジミル)南スラブ語:/gra d/ 東スラブ語:/goro d/ (都市) アクセント のないо は、ウクライナ語のように[о]と読む。ベラルーシ語とロシア語のように[а]と読まない。例えば、東スラブ語:/koróva/ [ko rova](牛) ウクライナ語:/koróva/ [ko rova](牛) ロシア語:/koróva/ [ka rova](牛);ただし、ロシア語の北方方言にはウクライナ語と同様な発音が見られる。 г ・к ・х は、常に硬音 であり、口蓋化 しない。例えば、東スラブ語:/кы ъвъ/か/кы Ѣвъ/ [kɨ jevъ]か[kɪ jivъ](キエフ) ф は、ギリシア系の外来語に文語しか用いられず、/hw/, /h/, /p/として発音する。Εφ ραίμはОх рѣмъか Ех рѣмъ Φ ιλίπποςはП илипъ古東スラヴ語には、キエフ ・チェルニーヒウ を中心とした南方諸語と、ウラジーミル ・ノヴゴロド を中心とした北方諸語が区別される。前者はウクライナ語 ・ベラルーシ語 に、後者はロシア語 に受け継がれていった。
スヴャトスラフの選書[ 9] (1073年)。 現在のベラルーシ 、ロシア 、ウクライナ といった地域が当時ルーシ と呼ばれる国に統一されてからおよそ100年後の988年 、ルーシはキリスト教 を国教として導入し、南スラヴでは典礼語および文語 として古代教会スラヴ語 が使用されることとなった。この古代教会スラヴ語(第一次ブルガリア帝国 のプレスラフ・アカデミーで使用されていたため、古代ブルガリア語ともいう)は、ブルガリア帝国経由でルーシの地にもたらされたが、この時期に文書化された東スラヴ語の量はわずかであり、文字として使用された言語と実際に話された言語の関係について完全に確定させることは困難である。
アラブ や東ローマ の文献に、キリスト教化以前のスラヴ人が何らかの形で文語を使用していたとの言及もある。いくつかの示唆的な考古学的証拠もあるが、実際のところキリスト教化以前に使用されていた文語体については不明である。
ノヴゴロド において聖書 の翻訳などのためグラゴル文字 が導入されたものの、間もなくキリル文字 に取って代わられた。ノヴゴロドで発掘された、カバノキ の皮に記された資料(白樺文書 )は、教会スラヴ語の影響がほとんどない北西部ロシアで10世紀に使用された言語(古ノヴゴロド方言 )を示す重要な資料である。この時期、ギリシャ語からの借用語・借用語句が使われはじめたことも知られており、同時に東スラヴ諸語 への発展の兆しも見ることができる。
1110年頃に書かれた原初年代記 の冒頭部分を以下に引用する。( 1377年ラヴレンチー写本 より)
Се повѣсти времѧньных лѣт ‧ ѿкꙋдꙋ єсть пошла рꙋскаꙗ земѧ ‧ кто въ києвѣ нача первѣє кнѧжит ‧ и ѿкꙋдꙋ рꙋскаꙗ землѧ стала єсть. これはルーシの国がどこから始まったか、誰がキエフにおいて最初に君臨し始めたか、しかしてルーシの国がいかにしてつくられたか、という過ぎし歳月の物語である[ 10] 。 1200年ごろに書かれたイーゴリ遠征物語 (Слово о пълкꙋ Игоревѣ )の冒頭部分。(14世紀プスコフ写本から)
Не лѣпо ли ны бяшетъ братые, начати старыми словесы трꙋдныхъ повѣстій о полкꙋ Игоревѣ, Игоря Святъ славича? Начатижеся тъ пѣсни по былинамъ сего времени, а не по замышленію Бояню. Боянъ бо вѣщій, аще комꙋ хотяше пѣснѣ творити, то растекашется мысію по древꙋ, сѣрымъ волкомъ по земли, шизымъ орломъ подъ облакы. 兄弟たちよ、スビャトスラフの子イーゴリの遠征の悲しい物語は、昔のことばで始めるのがふさわしくないだろうか。この歌は、ボヤンの思いつきによってではなく、いまの時代のやりかたで始められなければならない。ことばの魔術師ボヤンは、だれかに歌を作ろうとすると、考えが木を伝わってひろがる。地上では灰色のおおかみのように、雲のもとでは褐色のわしのように [ 11] 。古東スラヴ語はいくつかの文学を独自に発展させた。しかし、その多くは文体と語彙の面で教会スラヴ語 の影響を受けている。現存する代表的な作品としては、ルーシ法典 、聖人伝 と説教の集成、イーゴリ遠征物語 、そして最も初期の資料である原初年代記 のラヴレンチー写本 (1377年)などがある。
ロシア内戦 中に発見され第二次世界大戦 中に失われたとされるヴェレスの書 は、偽書でなければ、キリスト教化前の唯一の東スラヴの文字資料となっていた。発見時の説明とその後の経緯(写真が現存するとの説もある)のため、その信憑性を疑う言語学者がほとんどである。最初期の古東スラヴ語の資料は、キエフの府主教イラリオン の律法と恩寵についての講話 とされている。この講話には、東スラヴの英雄譚によく取り上げられるウラジーミル1世 への賛辞も記載されている。
オストロミールの福音書 11世紀中ごろ14世紀、ノヴゴロドの子供たちが交わした樺皮写本 11世紀の著述家としてはキエフ・ペチェールシク大修道院 の修道僧フェオドーシイと、ノヴゴロドの主教ルカ・ジジャータがいる。テオドシオスの著作からは当時依然として異教信仰 が盛んであったことが窺い知れる。ジジャータは同時代の著作家達よりもよりその土地の言葉に近い文体を使用し、大仰な東ローマ式の著述を控えた。
また、初期東スラヴの文字資料として、多くの聖人伝、主教伝が存在する。例として、11世紀後期の「ボリスとグレブ 伝」などがある。
年代記者ネストル による原初年代記 の他に、15世紀に編纂されたノヴゴロド第一年代記 [ 12] 、キエフ年代記 、ヴォルイニ 年代記をはじめとした多くの年代記が存在する。
^ 英語表記では、英語 :Old Ruthenian Language (便宜上の訳語: 古ルテニア語 )と呼称されることもある。 ^ ブリタニカ国際大百科事典 19 ティビーエス・ブリタニカ p.513 『ロシア語』の項 ^ 中沢 (2011) , pp17-18^ 亀井『言語学大辞典』pp.529-530 ^a b c 中井 「ウクライナ語小史」p.157 ^ 国民史観にとらわれない中立的な呼称として用いられる。Henryk Paszkiewicz.The making of the Russian nation , 1977. p.138,158. Andriĭ Danylenko.Slavica et Islamica : Ukrainian in context, 2006. p.38. ^ 亀井『言語学辞典』 p.529 ^ 東郷『研究社露和辞典』Полногла́сие の項より ^ Иванова Т. А.Старославянский язык . М.: Высшая школа, 1997. — с. 56. ^ 除村『ロシヤ年代記』856頁 ^ 除村『ロシヤ年代記』3頁より引用 ^ 森安『イーゴリ遠征物語』 165頁より引用 ^ 和田『ロシア史』38頁 ^ 除村『ロシヤ年代記』857頁 この記事にはアメリカ合衆国 内で著作権が消滅した 次の百科事典本文を含む: Chisholm, Hugh , ed. (1911). “Slavs ”.Encyclopædia Britannica (英語) (11th ed.). Cambridge University Press.