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参議

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
この記事には参考文献外部リンクの一覧が含まれていますが、脚注による参照が不十分であるため、情報源が依然不明確です 適切な位置に脚注を追加して、記事の信頼性向上にご協力ください。2017年7月
曖昧さ回避この項目では、日本の官職について説明しています。中国の官職については「参議 (中国)」をご覧ください。

参議(さんぎ)は、日本朝廷組織の最高機関である太政官官職の一つ。四等官の中の次官(すけ)に相当する令外官で、納言に次ぐ。唐名(漢風名称)は宰相相公平章事諫議大夫和訓おほまつりことひと[1]

宮中の政(朝政)に参議するという意味で、朝政の議政官に位置する。

律令制における参議

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四位以上の位階を持つ廷臣の中から、才能のある者を選び、大臣と参会して朝政を参議させたもの[2]。参議以上または三位以上の者を公卿と称しているため、参議の官職にある者は位階が四位であっても公卿に含まれる。

参議に官位相当を定めた詔勅宣旨などが見当たらず、相当位は無い。そのため、位階に応じて行・守を添えることはなく、例えば、参議正二位。参議従四位下と綴る。なお、菅原道真は参議に官位相当の規定が無いことは問題であるとし、官位相当・考禄等を定めるべきと上奏しているが[3]、それに対しての回答の有無は伝わらない。

また、律令法では位階の上下や職事官か否かが重視されたが、四位相当でも就任可能でかつ官位相当がないため職事官とは言えない参議はこの原則に従えば議政官の一員にもかかわらず位署が非参議よりも下になる可能性があったが、多くの公卿はこれに不都合と捉えており(実際、後から編纂された式などは参議を上位者として位置づけている)、位署における参議の位置の問題については平安時代中期以降度々論争になっている[4]

歴史

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文武天皇の代は、大宝律令が制定されると同時期の大宝2年(702年)5月21日に大伴安麻呂粟田真人高向麻呂下毛野古麻呂小野毛野を政治に参議させたのが創始であるが、この頃は彼ら個々に対して政治に「参議」することを命じられたもので、まだ官職名ではなかった。

天平3年(731年)正官として参議が成立。

大同2年(807年)参議は一時廃止され観察使が置かれたが、弘仁元年(810年)復活した。

現任で8人が補任されている傾向があるため、別名を八座やくらのつかさとも称するようになったが、参議の定員を定める詔勅や宣旨が発せられた形跡がなく、折々の都合で人員数は増減した。また、神亀6年(729年)2月から天平3年(731年)8月までと、延暦25年(806年)3月から同年4月まで、一時的に権官として権参議が置かれたほか、大同元年(806年)閏6月には准参議が、天平神護2年(766年道鏡政権下で参議と同格の法参議が置かれ僧侶が任命された。

参議の役割としては、八省卿との兼官、太政官の公卿合議(陣儀)への参加としての性格を有していたが、中世に入ると八省の形骸化が進んだため、儀式・政務における公卿要員としての要素が強くなっていった。

参議任官の条件

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参議に任ぜられるためには、三位の位階を持つか、もしくは四位以上の位階を持ち、かつ以下いずれかの条件を満たす必要があった。

武家官位としての参議

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豊臣政権江戸幕府では大名に授ける官位(武家官位)として用いられた。

加賀前田家のほか、江戸時代には徳川家庶流の一部(初期の越前松平家館林徳川家甲府徳川家)が任ぜられ、「加賀宰相」など、封じられた地名と唐名の「宰相」をつなげて呼ばれた。

明治政府における参議

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明治政府
参議
さんぎ
所属機関太政官
正院明治4年7月29日
太政官(1877年(明治10年)1月18日)
上官大納言
納言(明治4年7月29日)
右大臣(明治4年8月10日
任命天皇
明治天皇
根拠法令職員令[5]
創設1869年8月15日
明治2年7月8日[5]
廃止1885年(明治18年)12月22日[6]
俸給現米700(明治2年8月22日[7]
月給500(明治4年9月2日[8]

明治政府における参議とは、「王政復古」により成立した明治政府の役職。

閣僚にあたる卿より上位で、さらに上位にある右大臣左大臣太政大臣などが実質的権限を持たない場合が多かったため、職掌分担なしに閣僚たちを指導する、いわば集団制の政府首班として位置づけられていた。

1869年8月15日(明治2年7月8日)の官位改正により従来の参議は廃止となり[9]、このとき職員令により新たな太政官の官制を定めて「大臣」、「大納言」と共に明治政府の重職の一つとして改めて「参議」を置いた。このときの参議の職掌は大納言と同じとされていた[5]。大臣と大納言が前議定華族公卿諸侯)出身者で占められる一方で、参議は前参与など薩長土肥の維新功臣から任命されていた。維新功臣同士も一枚岩ではなく、それぞれが利害を主張し対立を続けた。長州藩出身の前原一誠は同藩出身の木戸孝允に嫌われていたため、短期間で参議を辞職している。また、明治3年(1870年)には、当時、能吏として頭角を現しつつあった肥前藩出身の大隈重信(当時は民部大輔大蔵大輔を兼任)の参議昇格を巡り、賛成派の木戸孝允と反対派の大久保利通副島種臣広沢真臣が対立し、大久保らが一時辞表を出す騒動となった。結局木戸が譲歩し、大隈の参議昇格と引き換えに民部大輔と大蔵大輔との兼任を解かれ、民部省の職務に大久保らが関与することになる。

1871年8月29日(明治4年7月14日)の廃藩置県により、華族の大半は一掃され、維新功臣が政府の中核となる。この直前、郡県制への移行の実現のため、兵士を引き連れて上京した薩摩藩出身の西郷隆盛は、木戸孝允一人を参議とし、他の者は省庁に下ることを提案し、大久保らの賛同を得たが、木戸本人に固辞されたため、自身も参議に就任するという妥協に応じて、共に参議に就任した。

その後、藩閥勢力の均衡を図るため、木戸の計らいで大隈と土佐藩出身の板垣退助が参議に就任している。藩の勢力が温存されることを嫌った大久保(当時は大蔵卿)は有司専制体制の確立のため、大蔵省と民部省を統合し、自身が長官を務める大蔵省の権限を強大なものとした。直後に岩倉使節団の一員として大久保は木戸らと共に洋行し国内を留守にすることになり、大蔵省は留守を守る井上馨(当時は大蔵大輔)らによって牛耳られることになる。井上は「今清盛」と呼ばれるほどの権勢で新政府全体をもリードした。

職制上は閣僚代理兼次席に過ぎない大蔵大輔の井上が大きな権力を持つことになったのは、明治初年においては省卿に堂上華族が多く名目的に就任し、次席である大輔の方に実力者が就いて事実上の大臣業務を行っていた名残でもあり、また、大蔵省に膨大な権限が集中していたためでもある。実質的な政府の中心人物であった大久保は、この時期参議を辞して大蔵卿専任となっており、参議、省卿、大輔の間の序列が非常に曖昧になっていた。大隈が民部大輔、大蔵大輔から参議へ、卿を経ずにいわば二階級特進したのも同様の事情であり、しかも当初は大輔と参議を兼任する予定すらあった。

1871年9月13日(明治4年7月29日)に導入された三院制体制下において、正院が設置された。その正院の中に、特に参議の意思決定の場として設けられたのが、太政官内の廟儀における「内閣」であり、後の内閣制度の萌芽となる。ただし、現在の主任の大臣に相当する右院を構成し、正院(内閣・閣議)から除外されていた。この1873年の改革は「内閣」を設置するものであったが、参議は天皇の輔弼は行ないこととされていた[10]。明治6年(1873年)には、大蔵省の強大な権限が問題とされ、江藤新平ら反大蔵省派が勝利し、井上らは辞任。そして制度改革により正院における参議の地位向上が明確なものとなった。

続く明治六年政変においては、西郷や板垣、江藤新平といった有力者が参議を辞任するなど政府の求心力が停止する中、大久保利通は内務省を創設し自身が内務卿となると共に、参議と各省長官を兼任する制度(参議省卿兼任制)を導入し、省卿を内閣に参加させることにより、政府意思の一体化による政治の引き締めを図った。この時点で、それまで大蔵省を中心にしていた大幅な権力が内務省に移管され、その長官(卿)である大久保は以後の政府の実質的な単独首班となる。

1875年明治8年)の大久保・木戸・板垣三者による会談である大阪会議、続く漸次立憲政体樹立の詔により左右両院が廃止され、元老院大審院が設置されるなど大きな制度改革があったが、参議の役割にはさほど変更はなかった(ただし左右大臣の職掌は参議と同等となった)。木戸と板垣は参議に復帰するが、既に参議省卿兼任制により、政府の要職は大久保らによって独占される形となり、木戸や板垣らはその奪回のため参議と省卿の分離を主張するようになった。結局板垣は短期間で参議を辞任したが、木戸は江華島事件以後の国家的危機を憂慮し参議の職に留まった。

大久保の死後、参議の中で頭角を現した伊藤博文は、1880年明治13年)の太政官改革により(太政官六部制)、参議と省卿との再分離を実現し、参議を個々の省務から解放させ、国全体の意思決定に専念する職務に転換させ、「内閣」そのものの強化を図る制度を図った。しかし、大臣の地位を保有する岩倉具視は参議の地位向上を快く思わず、公家出身という身分の高さに由来する天皇との密接な関係を利用し、参議や省卿間の対立を煽ったため、参議と「内閣」の地位向上は思うようには進まなかった。

岩倉の死後、1885年明治18年)、伊藤の提案により太政官制度が廃止され、「内閣職権」などにより新たに内閣制度が発足すると共に参議は廃止される[6]。日本政府は、ここで名実ともに総理大臣を単独首班としていただく組織に移行したが、後に制定された帝国憲法でも、正式に内閣制度が固定化されることはなかった。

参議の一覧

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氏名就任日辞任日出身等備考参議数
副島種臣1869年7月8日1871年7月24日肥前藩0人→2人
前原一誠1870年9月2日長州藩
大久保利通1869年7月22日1871年6月25日薩摩藩2人→4人→3人
広沢真臣1869年7月23日1871年1月9日旧長州藩
佐々木高行1870年2月5日1871年6月25日土佐藩3人→7人→6人→1人
斎藤利行1870年5月15日旧土佐藩
木戸孝允1870年6月10日旧長州藩
大隈重信1870年9月2日旧肥前藩
木戸孝允1871年6月25日1874年5月13日旧長州藩再任1人→3人→5人→4人
西郷隆盛1873年10月24日旧薩摩藩
板垣退助1871年7月14日1873年10月25日土佐藩
大隈重信1881年10月12日旧肥前藩再任
後藤象二郎1873年4月19日1873年10月25日旧土佐藩4人→7人
大木喬任1885年12月22日旧肥前藩
江藤新平1873年10月25日旧肥前藩
大久保利通1873年10月12日1878年5月14日旧薩摩藩7人→8人→9人→8人
副島種臣1873年10月13日1873年10月25日旧肥前藩
伊藤博文1873年10月25日1885年12月22日旧長州藩8人→4人→6人→7人→6人
勝海舟1875年4月25日幕臣
寺島宗則1873年10月28日1881年10月21日旧薩摩藩
伊地知正治1874年8月2日1875年6月10日旧薩摩藩6人→9人
山縣有朋1874年8月2日1885年12月22日旧長州藩
黒田清隆1882年1月11日旧薩摩藩
木戸孝允1875年3月8日1876年3月28日旧長州藩9人→11人→6人
板垣退助1875年3月12日1875年10月27日旧土佐藩
西郷従道1878年5月24日1885年12月22日旧薩摩藩6人→8人→9人
川村純義旧薩摩藩
井上馨1878年7月29日旧長州藩
山田顕義1879年9月10日旧長州藩9人→10人→9人
松方正義1881年10月21日旧薩摩藩9人→8人→7人→11人
大山巌旧薩摩藩
福岡孝悌旧土佐藩
佐々木高行旧土佐藩

参議の年表

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参議院との関係

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第二次世界大戦後、貴族院に代わる上院制度を創設するにあたって、その名称が定められることとなった。「参議院」の名称は小原直が1945年(昭和20年)12月12日に発言し、12月26日の憲法問題調査委員会第6回総会で「両議院ト云ヒタイカラヤハリ衆議院ハソノママニシテ×議院ト云フ風ニシタイ」「参議院位ガイイ」として事実上決定されたという経緯があるが、律令および明治時代の参議との関連については言及されていない[11][12]

脚注

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  1. ^和名抄
  2. ^職原抄』など
  3. ^『菅家文草』巻第九,元慶6年(882年)7月1日条
  4. ^長又高夫「院政期明法学説の形成」『國學院大學日本文化研究所紀要』91号、2003年。/所収:長又『中世法書と明法道の研究』汲古書院、2020年、302-312頁。
  5. ^abc内閣官報局「【第622】職員令並官位相当表 明治2年7月8日」『法令全書』 明治2年、内閣官報局、東京、1887年10月、249-264頁。doi:10.11501/787949NDLJP:787949/161 
  6. ^ab内閣官報局「太政大臣左右大臣参議各省卿ノ職制ヲ廃シ内閣総理大臣及各省諸大臣ヲ置キ内閣ヲ組織ス 明治18年12月22日 太政官第69号達」『法令全書』 明治18年 下巻、内閣官報局、東京、1912年、1044頁。doi:10.11501/787967NDLJP:787967/162 
  7. ^内閣官報局「【第787】官禄定則官禄渡方定則官禄規則 明治2年8月22日 大蔵省(回達)」『法令全書』 明治2年、内閣官報局、東京、1887年10月、309-313頁。doi:10.11501/787949NDLJP:787949/191 
  8. ^内閣官報局「【太政官第457】官禄ヲ改テ月給定則ヲ定ム 明治4年9月2日 太政官(史官)」『法令全書』 明治4年、内閣官報局、東京、1888年10月20日、340-345頁。doi:10.11501/787951NDLJP:787951/207 
  9. ^内閣官報局「【第620】従来ノ百官並受領ヲ廃シ位階ヲ称シ神職僧官ハ旧ニ仍ラシム 明治2年7月8日 行政官(達)」『法令全書』 明治2年、内閣官報局、東京、1887年10月、249頁。doi:10.11501/787949NDLJP:787949/161 
  10. ^内閣制度百年史編纂委員会 (1985). 内閣制度百年史 上巻. 大蔵省印刷局. p. 17. doi:10.11501/12288168 
  11. ^憲法問題調査委員會議事録(テキスト) | 日本国憲法の誕生”. 2025年8月5日閲覧。
  12. ^加藤一彦参議院の意識化された原像形成」『現代法学 = Tokyo Keizai law review : 東京経済大学現代法学会誌 / 現代法学会編集委員会 編』第30巻、国分寺 : 東京経済大学現代法学会、2016年、208-209頁、ISSN 13459821NAID 40020880456 

出典

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関連書籍

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関連項目

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