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原博実

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
原 博実
2014年の原博実
名前
愛称ヒロミ、アジアの核弾頭[1][2]
カタカナハラ ヒロミ
ラテン文字HARA Hiromi
基本情報
国籍日本の旗日本
生年月日 (1958-10-19)1958年10月19日(67歳)
出身地栃木県那須塩原市
身長183cm[3][1]
体重80kg[3][1]
選手情報
ポジションFW
利き足左足
ユース
1974-1976日本の旗矢板東高校
1977-1980日本の旗早稲田大学
クラブ1
クラブ出場(得点)
1981-1992日本の旗三菱重工 / 三菱自動車 192(65)
通算192(65)
代表歴2
1978-1988日本の旗日本75(37)
監督歴
1998-1999日本の旗浦和レッズ
2002-2005日本の旗FC東京
2007日本の旗 FC東京
1. 国内リーグ戦に限る。2007年12月23日現在。
2. 2007年12月23日現在。
■テンプレート■ノート■解説■サッカー選手pj

原 博実(はら ひろみ、1958年10月19日 - )は、日本の元サッカー選手、サッカー指導者サッカー解説者栃木県那須塩原市(旧・黒磯市)出身[4]。2022年より大宮アルディージャフットボール本部長、2025年より代表取締役社長。

スポーツアナウンサーの原大悟は実子[5]

選手経歴

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小学5年生時からサッカーに傾倒し[6]黒磯中学校時代には既に長身を活かしたヘディングを得意としていた[7][8]1974年矢板東高校へ進学し、栃木県選抜として国体でベスト4入り[8]。当時は西ドイツのFWウーヴェ・ゼーラーのプレーを参考にしていた[8]

1977年早稲田大学教育学部へ進学[4]。1978年の総理大臣杯では法政大学を相手に得点を重ね優勝を果たした[6]、また同年の大学選手権も制して二冠を達成している。大学選抜として参加した1979年のユニバーシアードでは、ゼーラーに影響されて身に付けた相手よりも早く跳ぶヘディングで海外の190cmクラスのセンターバックを相手にしても競り負けず8試合で7得点を挙げた[6]。A代表に選出されても偉ぶらず真剣に練習に取り組む姿勢は周囲からの信頼を集め、大学4年時には主将を務めた[6]。このように「ストライカーたるものエゴイストであるべき」と言われる中で、原の言動や振る舞いはその正反対でとても利他的であり、誰からも尊敬される人物であった。大学時代の同期には木村孝洋、一学年上には岡田武史唐井直、二学年上には加藤久、三学年上には西野朗松浦敏夫下條佳明、さらに二学年下には城福浩吉田靖、三学年下には神戸清雄ら錚々たるメンバーがいた。

1981年三菱重工業へ入社し(勤労管理課[4])、日本サッカーリーグ(JSL)同社サッカー部(のちに三菱自動車サッカー部。現在の浦和レッドダイヤモンズの前身)に所属。ポジションはフォワード(FW)で、エースストライカーとして活躍した[9]。中盤の構成力に欠ける三菱では、GK田口光久らがFWの原を目掛けてフィード、それを原が頭で落とし、川添孝一らがゴールを狙うシンプルなカウンター攻撃も多用された[6]1982年には尾崎加寿夫と共に得点源となりJSL優勝を達成。

社員選手としてプレーを続けていたが、31歳の時にJリーグ参入を控えるクラブからプロ選手契約へ移行する打診を受け、「サラリーマンやるために三菱に入ったわけじゃないから」と応じてプロ契約を結び[注 1] 三菱重工業を退社した[9]。1993年5月開幕が決まったJリーグでのプレーを望んでいたが[9]、浦和から1992年にプレ開幕として開催されるナビスコカップに向けコーチ就任を要請されたため、1992年5月に現役を引退[10]。臆せず真っ向から相手DFとの競り合いに臨んでいたため、鼻骨骨折は現役通算で9度に及んだ[11]

大学在学中に日本代表に初選出され[4]、通算で国際Aマッチ75試合に出場。釜本邦茂に次いで歴代2位[注 2] となる37得点を記録した(国際Aマッチ以外にも日本サッカー協会が認定した日本代表の試合を含めると171試合出場72得点[10]。)。当時の日本代表はアジアの中でもまだまだ弱小国ではあったが、その背景がありながら2試合に1得点のペースでゴールを決めた。森孝慈監督の下、尾崎や柱谷幸一と共にセンターフォワードの候補ともなったが、持ち前の体力・運動量の豊富さという特徴からサイドで守備にも貢献することを求められたため[12][13]左ウイングに配された。中央へ切れ込んで放つヘディングシュートを武器とし[14][12](ただし、本人はヘディングよりも左足シュートの方が得意だったと回想している)、その圧倒的な得点力で「アジア核弾頭」の異名を取った。1982年のアジア競技会では韓国戦で同点ゴールを決めて勝利に貢献した[15]1986年ワールドカップアジア1次予選のホーム北朝鮮戦で決勝ゴール、アウエーでのシンガポール戦で1ゴール、ホームでのシンガポール戦でも1ゴールを挙げ[16]、2次予選の香港戦第1戦で1ゴール[17]、第2戦でも1ゴールを挙げて[18]、最終予選進出に貢献したが、最終予選の韓国戦では1戦、2戦共フル出場したが、得点を奪えず敗退[19][20]、ワールドカップ出場権を獲得出来なかった。

特に1986年ワールドカップアジア1次予選・ホーム北朝鮮戦で水溜りに入ったボールを足先で浮かせてDFをかわし決めた[14]「雨中ゴール」の決勝ゴール、1987年のソウルオリンピック予選・アウェー中国戦での強烈な決勝ヘディングシュート[21] が有名である。

引退後

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浦和レッドダイヤモンズ

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1992年5月に引退後、浦和レッドダイヤモンズのコーチ・ユース監督を務めた。

1998年にトップチーム監督に就任。主軸FWの福田正博が負傷離脱する中[22]、新人の小野伸二トップ下に抜擢し、変則的な中盤を菱型にした4-4-2(左MFのチキ・ベギリスタインを攻撃的、右MFの石井俊也を守備的にプレーさせることで、バランスを取った[22][23]。)を形成してチームを躍進させる。セカンドステージでは過去最高順位の3位に入った。また、怪我が多かった福田に替えて、若手の山田暢久を「一皮剥ければ」と主将に据えている[23][24]

1999年ファーストステージは負傷者が続出し[25][26]13位と振るわず、解任。原は守備の人材不足を感じていたためシーズン途中に補強がなされたものの、その補強が活かされる前の解任だった[27]。この年浦和はJ2降格を喫するが、後にGMの横山謙三は、降格の主要因について「原監督を途中で替えたということが大きい」「(原を留任させていれば)後半盛り返せただろうと思っている」と語っている[27]。原自身は後にインタビューで「弱いといわれた時期も、誰もが誇りは持っていた。ある意味王者のスピリットを持っているチームだった」と浦和を評する。また、2000年1月に発売された書籍『浦和レッズは負けない』にも寄稿している。

2000年から浦和の育成担当としてクラブに残留する選択肢も有ったが、監督として再び勝負する機会が遠のきかねないと判断し[26]、浦和を退団。

その後スペインへ渡りリーガ・エスパニョーラの数チームを視察。ベギリスタインを通じて紹介を得たこともあった[28]。帰国後はサッカー解説者としてスカイパーフェクTV!の欧州サッカー中継を中心に活動。多くのファンを得た(後述)。

FC東京

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2002年からFC東京の監督に就任[10]。2000年にJ1入りした新興クラブであるFC東京は、J2降格を避けるべくそれまで守備をベースにした負けないサッカーを志向してチーム作りを行っていたが、「攻撃サッカー」を掲げる原の招聘によって、勝つためのサッカー、面白いサッカーを標榜するように転換[29][30]。原によれば、チームには大熊清前監督が築いたひたむきに守備をこなす姿勢が残っていたので、攻撃重視で指揮を執っても守備が疎かになることは無いだろうという目算があったという[8]

初采配となった2002年Jリーグ開幕戦では、前年度リーグ優勝の鹿島アントラーズを相手に、前がかりに走り続ける積極的なサイドアタックを繰り返し、4得点を挙げて圧勝。後の語り草となった[31]4-2-3-1の布陣を基本としつつ、同年獲得したMF石川直宏、DF加地亮のコンビで右サイドから打開し、左サイドには戸田光洋らFWタイプの選手を置いて中央へ走りこませるという左右非対称の斬新な攻撃[32] で上位進出に成功。2004年ナビスコカップでは延長PK戦の末に古巣浦和を下して、チームに初のJリーグタイトルをもたらした。

解説者時代同様に親しみやすいコメントと、自チームの得点時には何度もジャンプして体全体で喜びを表現する姿で[33][34][35]チーム成績とは別の部分でもサポーターから慕われ、人気を集めた[36]。古巣・浦和をライバル視する発言が多かったが、2003年に行われた福田の引退試合では、テレ玉での中継解説者を務め、2004年のナビスコカップ優勝後の場内インタビューでは「浦和も非常に素晴らしいチーム。是非リーグ戦で頑張ってもらって優勝して欲しい」とエールを送っている。

2005年は出だしこそ首位に浮上したものの、4月以降主力を次々と負傷で欠いたことなどから[37] J2降格圏まで成績を低迷させたが、シーズン終盤は12戦負けなしと持ち直した。しかし4・5月の躓きによってクラブ首脳は次期監督候補の選定を本格化しており、契約期間終了と共に退任することとなった[35]。退任報告の集会には5000人近くのファンが詰め掛けた。

2007年、監督に再任[38]。身上としているリスクをかけて攻撃に比重を置くサッカー[39] を続けたが、大量失点での敗戦も多く1年限りで退任となった[40]

日本サッカー協会

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2009年2月、日本サッカー協会(JFA)は技術委員会を強化・育成の2部門に分割再編[41]。原のJリーグでの指導実績や欧州サッカーへの精通が評価され[41]、JFA技術委員長(強化担当)に就任した。グラつきの見られた[注 3]岡田体制を支えた他[42]、JFA特任理事及び国際マッチメイク委員にも任ぜられ、Jリーグ各クラブとの調整や戦術分析、マッチメイクを統括した[41]

また、霜田正浩と共に2010 FIFAワールドカップ終了後の日本代表新監督選定の中心としても奔走。2010年8月、新監督はアルベルト・ザッケローニに決定したが、ザッケローニの就労ビザ取得が間に合わなかったため、同年9月に行われたキリンチャレンジカップにおいて代行監督を務め、2試合を指揮しいずれも勝利を収めた。ロンドンオリンピックではU-23日本代表の団長を務めた。

2013年12月より、JFA専務理事を兼務[4]。激務が続く中でも公式戦・合宿を問わずに現場視察を欠かさず、ザッケローニとの戦略擦り合わせに腐心した[43]。2014年9月、同年6月開催のFIFAワールドカップ総括とザッケローニの後任であるハビエル・アギーレの就任決定をもって[44] 技術委員長を退任し、以後は専務理事に専念[45]。日本代表やJリーグだけでなく各種サッカー大会を精力的に視察し、日本サッカー界の底上げに注力した[46]

2015年2月のJFA理事会において、大仁邦彌JFA会長や霜田と共にアギーレの解任に伴う処分が提議されたが、3名とも任命責任は認められなかったため、給与を自主返納することで[47] 収拾を図った。

2015年6月、日本体育協会常務理事に選定され[48][49]国体委員長として[50] 冬季国体の開催地選定や、2020年東京五輪に向けた女子種目の拡充を担った[51]

2016年1月、JFAは史上初となる会長選挙を行った。当時JFAのNo.3[52]でもあった原は「自分も出ないと(選挙戦にならず制度が)変わらない」[53] と立候補を表明。原とNo.2の田嶋幸三副会長が争う構図になるのは「既定路線」であり[54]、原は劣勢[注 4]が確実視されていたが[56]秋春制の導入に慎重なJリーグクラブや[57]、JFAとJリーグの関係強化を推進した実績により支持を集め[58]、45%の評議員票を獲得、僅差での敗退となった[59][57][52]

Jリーグ役員

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2016年2月、田嶋は自分と会長の座を争った原を二階級ほどの降格になる理事職に降格させる人事案を決めた。その話を田嶋から直接聞いた村井満Jリーグチェアマンは[52] 各クラブの強化部門に影響を及ぼせる人物として、すぐさま原にJリーグ副理事長就任を打診[60]。原もこれに快諾し[61]、3月に就任[62]。JFAを離職し[63][64]、自身の「専門とするところ」であるクラブ目線での日本サッカー強化を担うこととなった[61]。翌3月、Jリーグからの選出で、JFA常務理事に就任[65][66]。彼の功績や人柄を表すエピソードと言える。

同年4月の熊本地震に際しては、自ら現地入りして活動休止中のロアッソ熊本と協議し、リーグ戦再開に向けての調整に当たった[67]

2018年4月、日本サッカー協会技術委員会強化部会員に就任[68]。2022年3月にJリーグ副理事長の任期が満了し退任した[69]

クラブ役員

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大宮アルディージャ

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2022年4月12日、J2リーグで下位に沈みJ3降格圏にまで順位を下げていた大宮アルディージャからオファーを受け、同クラブのフットボール本部長に就任した[70][71]。シーズン終盤に着任以後の大宮の状況を「VENTUS(女子チーム)やアカデミーと、トップチームとの関わりが少ない。アカデミーには良い選手がいるが、もっと繋がりを大事にしていかないとこのクラブは変わらない。ポテンシャルはあると思いますし、そこができればと思う」「実際に来てみると、事前に聞いていたよりもはるかに予算が少なかった」と印象を話し、「育成型クラブを目指す基本を持ちつつ、当然J1昇格は目指します。埼玉ダービーもぜひやりたいですね」と翌年以後の目標を語った[72]

レッドブルによるチーム買収後、2024年10月よりスポーツ部門を統括する代表取締役に就任。2025年1月に佐野秀彦の退任に伴い社長に就任した[73]

評価

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監督としての戦術・若手育成

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指導者としての評価に際しては、特に若手の積極起用に注目して語られることが多い[74]。自身も「監督をやっていて楽しいのは、(チームの勝利よりも)選手がみるみる伸びていき、顔を輝かせているのを見ているとき」「タイトルをとれれば楽しいけど、人がぐんぐん伸びていく時期を見るのがうれしい。それが一番好き」と語る[75]

浦和でも小野、山田を抜擢し、大きく成長させているが、小野は元々注目度の高い期待株であること、盛田剛平ら新人選手を重用してチームを低迷させたこともあったことから、原の評価を低く見る者もある。原の下でもプレーした浦和OB福田正博は「サテライト・ユースの指導経験しかなかった原にいきなりトップチーム、しかも浦和レッズという独特の雰囲気を持つチームの監督を任せるのは非常にプレッシャーのかかることだったのではないか」という趣旨のコメントを、雑誌に寄せた原稿で述べている。

その後に就任したFC東京でも若手登用の傾向は強く、石川、加地、茂庭照幸今野泰幸を獲得してレギュラーに据え、日本代表に選出されるまでに成長させた[76]横浜F・マリノスで出場機会のなかった石川に対しては「(故障者が出ている[77])今なら使っちゃうよ」という口説き文句でレンタル移籍(後に完全移籍)を決断させた。

選手として原と4年間(2002-2005)過ごした戸田は、原と選手との距離感・信頼関係の構築について「“試合に出てくるんじゃないか”と思わせるくらい選手と一緒の目線で戦っている」「顔色を伺ったってどうこうなる人じゃない」とコメント[33]。原の下で5年間(2002-2005, 2007)コーチを務めた長澤徹は、原は選手の短所を包み隠さず指摘し、時に敗因として名指しするが、それでも選手からの信頼を損ねることはなかったという。選手と真摯に向き合うことができるコミュニケーションの天才だと評している[78]

4バックシステムを好み[79]、『ニュースステーション』がJリーグ全クラブの監督に対して行った、3バックと4バックに関するアンケートに対し(このアンケートが行われた当時は3バックシステムを採用するクラブが多く、このようなテーマが議題となった)、回答の理由を「4バックが好きだから」とだけ説明した[80]。原曰く、布陣を決める時にまず考えることは、選手個々の長所を出せるかどうか[79] である。しかし、選手の個性・特徴を最大限発揮させることを理想としていることから[81]2007年には、不安定ながら新たなプレースタイルの模索を始めた石川と、石川には元来の能力を発揮してほしいと原点回帰を求める原との間で、微妙な溝が生じたこともあった[82]

解説・評論

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原はテレビ解説者としても、多くのファンを得ている。解説者としての原のファンのことを「ヒロミスタ」と呼ぶことがある。ゴールが決まった時に、それが開始1分であろうが後半ロスタイムであろうが、あるいはVゴールであったとしても「いい時間帯[注 5][注 6] に得点しましたね[83]」と発言したり、選手がまだシュート態勢であり、実際にそのシュートがゴールインするか否かがわからない状態にもかかわらず「あ、入った」などと発言した[83]ことが、そのきっかけとなった。

また、浦和レッズ監督時に指導したベギリスタイン(後にFCバルセロナ技術部長など)と親交を深めたことを機に日常会話に支障が無い程にスペイン語を習得[84]。スペイン語に近いとされるポルトガル語を話すブラジル人選手とも通訳を介さずに会話している[85]。料理をはじめとするスペイン文化全般にも造詣が深い。FC東京の監督時にも、チームのラ・コルーニャ遠征やポストシーズンの視察に合わせて、原がスペインを紹介する番組が作成された。

解説者としての出演歴

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JFA技術委員長就任以降も不定期にメディア出演を行なっている。

所属クラブ

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個人成績

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国内大会個人成績
年度クラブ背番号リーグリーグ戦リーグ杯オープン杯期間通算
出場得点出場得点出場得点出場得点
日本リーグ戦JSL杯天皇杯期間通算
1981三菱14JSL1部1845520259
198218723202210
1983111831110204
198491880010198
1985221020342714
1986-8722821222611
1987-88221030212711
1988-891834320246
1989-90JSL2部1691010189
1990-91JSL1部1831000193
1991-92201000
通算日本JSL1部1765621137158
日本JSL2部1691010189
総通算1926522137167

JSL東西対抗戦(オールスターサッカー) 4回出場:1984年、1986年、1987年、1988年

・JSL東西対抗戦(オールスターサッカー) 2得点:1986年、1987年

その他の公式戦

代表歴

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出場大会など

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試合数

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  • 国際Aマッチ 75試合 37得点 (1978-1988)[4]


日本代表国際Aマッチその他期間通算
出場得点出場得点出場得点
1978610061
1979201030
19805260112
198110185186
198263101164
19831061872813
19847553128
198510584189
19866761128
1987117151268
19882017111911
通算7537943316970

出場

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No.開催日開催都市スタジアム対戦相手結果監督大会
1.1978年11月19日日本の旗東京都国立霞ヶ丘競技場陸上競技場 ソビエト連邦●1-4二宮寛国際親善試合
2.1978年11月23日日本の旗東京都国立霞ヶ丘競技場陸上競技場 ソビエト連邦●1-4国際親善試合
3.1978年11月26日日本の旗大阪府長居陸上競技場 ソビエト連邦●0-3国際親善試合
4.1978年12月11日タイ王国の旗バンコク クウェート●0-2アジア大会
5.1978年12月13日タイ王国の旗バンコク バーレーン○4-0アジア大会
6.1978年12月15日タイ王国の旗バンコク 韓国●1-3アジア大会
7.1979年07月01日マレーシアの旗クアラルンプール ビルマ○1-0下村幸男ムルデカ大会
8.1979年07月11日マレーシアの旗クアラルンプール インドネシア△0-0ムルデカ大会
9.1980年06月09日中華人民共和国の旗広州 香港○3-1渡辺正広州国際サッカー大会
10.1980年06月11日中華人民共和国の旗広州 中華人民共和国●0-1広州国際サッカー大会
11.1980年06月18日中華人民共和国の旗広州 香港○2-0広州国際サッカー大会
12.1980年12月26日香港の旗香港 中華人民共和国●0-1川淵三郎ワールドカップ予選
13.1980年12月30日香港の旗香港 北朝鮮●0-1(延長)ワールドカップ予選
14.1981年02月08日マレーシアの旗クアンタン マレーシア●0-1国際親善試合
15.1981年02月17日シンガポールの旗シンガポール シンガポール○1-0国際親善試合
16.1981年02月19日シンガポールの旗シンガポール シンガポール△0-0国際親善試合
17.1981年02月24日インドネシアの旗インドネシア インドネシア●0-2国際親善試合
18.1981年03月08日日本の旗東京都国立霞ヶ丘競技場陸上競技場 韓国●0-1日韓定期戦
19.1981年08月30日マレーシアの旗クアラルンプール マレーシア○2-0森孝慈ムルデカ大会
20.1981年09月03日マレーシアの旗クアラルンプール インド○3-2ムルデカ大会
21.1981年09月08日マレーシアの旗クアラルンプール アラブ首長国連邦○3-2ムルデカ大会
22.1981年09月14日マレーシアの旗クアラルンプール インドネシア○2-0ムルデカ大会
23.1981年09月18日マレーシアの旗クアラルンプール イラク●0-2ムルデカ大会
24.1982年03月21日大韓民国の旗ソウル 韓国●0-3日韓定期戦
25.1982年06月02日日本の旗広島県広島県総合グランドメインスタジアム シンガポール○2-0ジャパンカップ
26.1982年11月21日インドの旗ニューデリー イラン○1-0アジア大会
27.1982年11月23日インドの旗ニューデリー 南イエメン○3-1アジア大会
28.1982年11月25日インドの旗ニューデリー 韓国○2-1アジア大会
29.1982年11月28日インドの旗ニューデリー イラク●0-1(延長)アジア大会
30.1983年02月12日シリアの旗ダマスカス シリア△2-2国際親善試合
31.1983年02月25日カタールの旗ドーハ カタール●0-1国際親善試合
32.1983年03月06日日本の旗東京都国立霞ヶ丘競技場陸上競技場 韓国△1-1日韓定期戦
33.1983年06月07日日本の旗東京都国立霞ヶ丘競技場陸上競技場 シリア○1-0ジャパンカップ
34.1983年09月04日日本の旗東京都国立霞ヶ丘競技場陸上競技場 フィリピン○7-0オリンピック予選
35.1983年09月07日日本の旗東京都国立霞ヶ丘競技場陸上競技場 フィリピン○10-1オリンピック予選
36.1983年09月15日日本の旗東京都国立霞ヶ丘競技場陸上競技場 チャイニーズタイペイ○2-0オリンピック予選
37.1983年09月20日チャイニーズタイペイの旗台北 チャイニーズタイペイ△1-1オリンピック予選
38.1983年09月25日ニュージーランドの旗オークランド ニュージーランド●1-3オリンピック予選
39.1983年10月07日日本の旗東京都国立霞ヶ丘競技場陸上競技場 ニュージーランド●0-1オリンピック予選
40.1984年03月06日ブルネイの旗バンダルスリブガワン ブルネイ○7-1国際親善試合
41.1984年04月15日シンガポールの旗シンガポール タイ●2-5オリンピック予選
42.1984年04月18日シンガポールの旗シンガポール マレーシア●1-2オリンピック予選
43.1984年04月21日シンガポールの旗シンガポール イラク●1-2オリンピック予選
44.1984年04月26日シンガポールの旗シンガポール カタール●1-2オリンピック予選
45.1984年05月31日日本の旗埼玉県さいたま市大宮公園サッカー場 中華人民共和国○1-0ジャパンカップ
46.1984年09月30日大韓民国の旗ソウル 韓国○2-1日韓定期戦
47.1985年02月23日シンガポールの旗シンガポール シンガポール○3-1ワールドカップ予選
48.1985年03月21日日本の旗東京都国立霞ヶ丘競技場陸上競技場 北朝鮮○1-0ワールドカップ予選
49.1985年04月30日朝鮮民主主義人民共和国の旗平壌 北朝鮮△0-0ワールドカップ予選
50.1985年05月18日日本の旗東京都国立霞ヶ丘競技場陸上競技場 シンガポール○5-0ワールドカップ予選
51.1985年05月26日日本の旗東京都国立霞ヶ丘競技場陸上競技場 ウルグアイ●1-4キリンカップ
52.1985年06月04日日本の旗愛知県名古屋市瑞穂公園陸上競技場 マレーシア○3-0キリンカップ
53.1985年08月11日日本の旗愛知県神戸総合運動公園ユニバー記念競技場 香港○3-0ワールドカップ予選
54.1985年09月22日香港の旗香港 香港○2-1ワールドカップ予選
55.1985年10月26日日本の旗東京都国立霞ヶ丘競技場陸上競技場 韓国●1-2ワールドカップ予選
56.1985年11月03日大韓民国の旗ソウル 韓国●0-1ワールドカップ予選
57.1986年07月25日マレーシアの旗クアラルンプール シリア○2-1石井義信ムルデカ大会
58.1986年08月01日マレーシアの旗クアラルンプール マレーシア●1-2(延長)ムルデカ大会
59.1986年09月20日大韓民国の旗大田 ネパール○5-0アジア大会
60.1986年09月22日大韓民国の旗大田 イラン●0-2アジア大会
61.1986年09月24日大韓民国の旗大田 クウェート●0-2アジア大会
62.1986年09月28日大韓民国の旗大田 バングラデシュ○4-0アジア大会
63.1987年04月08日日本の旗東京都国立霞ヶ丘競技場陸上競技場 インドネシア○3-0オリンピック予選
64.1987年04月12日日本の旗東京都国立霞ヶ丘競技場陸上競技場 シンガポール○1-0オリンピック予選
65.1987年05月27日日本の旗広島県広島県総合グランドメインスタジアム セネガル△2-2キリンカップ
66.1987年06月14日シンガポールの旗シンガポール シンガポール○1-0オリンピック予選
67.1987年06月26日インドネシアの旗インドネシア インドネシア○2-1オリンピック予選
68.1987年09月02日タイ王国の旗バンコク タイ△0-0オリンピック予選
69.1987年09月15日日本の旗東京都国立霞ヶ丘競技場陸上競技場 ネパール○5-0オリンピック予選
70.1987年09月18日日本の旗東京都国立霞ヶ丘競技場陸上競技場 ネパール○9-0オリンピック予選
71.1987年09月26日日本の旗東京都国立霞ヶ丘競技場陸上競技場 タイ○1-0オリンピック予選
72.1987年10月04日中華人民共和国の旗広州 中華人民共和国○1-0オリンピック予選
73.1987年10月26日日本の旗東京都国立霞ヶ丘競技場陸上競技場 中華人民共和国●0-2オリンピック予選
74.1988年06月02日日本の旗愛知県名古屋市瑞穂公園陸上競技場 中華人民共和国●0-3横山謙三キリンカップ
75.1988年10月26日日本の旗東京都国立霞ヶ丘競技場陸上競技場 韓国●0-1日韓定期戦

得点数

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#年月日開催地対戦国スコア結果試合概要
011978年12月13日タイバンコクバーレーンの旗バーレーン4-0勝利1978年アジア競技大会
021980年06月09日中華人民共和国広州香港の旗香港3-2勝利広州国際大会
031980年06月18日2-0勝利
041981年09月08日マレーシアクアラルンプールアラブ首長国連邦の旗アラブ首長国連邦3-2勝利ムルデカ大会
051982年11月23日インドニューデリー南イエメンの旗南イエメン3-1勝利1982年アジア競技大会
06
071982年11月25日大韓民国の旗韓国2-1勝利
081983年02月12日シリアダマスカスシリアの旗シリア2-2引分親善試合
09
101983年09月04日日本東京フィリピンの旗フィリピン7-0勝利ロサンゼルス五輪予選
111983年09月07日7-0勝利
121983年09月15日チャイニーズタイペイの旗チャイニーズタイペイ2-0勝利
131983年09月25日ニュージーランドオークランドニュージーランドの旗ニュージーランド1-3敗戦
141984年03月06日ブルネイバンダルスリブガワンブルネイの旗ブルネイ7-1勝利親善試合
15
161984年04月18日シンガポールマレーシアの旗マレーシア1-2敗戦ロサンゼルス五輪予選
171984年04月21日イラクの旗イラク1-2敗戦
181984年04月26日カタールの旗カタール1-2敗戦
191985年02月23日シンガポールの旗シンガポール3-1勝利1986 FIFAワールドカップ予選
201985年03月21日日本東京朝鮮民主主義人民共和国の旗朝鮮民主主義人民共和国1-0勝利
211985年05月18日シンガポールの旗シンガポール5-0勝利
221985年08月11日日本、神戸市香港の旗香港3-0勝利
231985年09月22日香港香港の旗香港2-1勝利
241986年07月25日マレーシアクアラルンプールシリアの旗シリア4-0勝利ムルデカ大会
251986年08月01日マレーシアの旗マレーシア2-1勝利
261986年09月20日大韓民国大田ネパールの旗ネパール5-0勝利1986年アジア競技大会
271986年09月20日バングラデシュの旗バングラデシュ4-0勝利
281986年09月28日バングラデシュの旗バングラデシュ4-0勝利
29
30
311987年04月08日日本、東京インドネシアの旗インドネシア3-0勝利ソウル五輪予選
321987年05月27日日本、広島市セネガルの旗セネガル2-2引分キリンカップ
331987年06月26日インドネシアジャカルタインドネシアの旗インドネシア2-1勝利ソウル五輪予選
341987年09月18日日本、東京ネパールの旗ネパール9-0勝利
35
36
371987年10月14日中華人民共和国、広州中華人民共和国の旗中国1-0勝利

指導歴・職歴

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監督成績

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年度クラブ所属リーグ戦カップ戦
順位勝点試合ナビスコ杯天皇杯
1998浦和J6位613422-12予選リーグ敗退ベスト8
1999J113位*1315348ベスト8-
2002FC東京9位393013215ベスト83回戦敗退
20034位493013107ベスト84回戦敗退
20048位413010119優勝ベスト8
200510位473411149予選リーグ敗退5回戦敗退
200712位453414317ベスト8ベスト8
通算日本J1--207864477--
総通算--207864477--
  • 1999年は解任時点(1stステージ終了時)の順位。

関連情報

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書籍

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脚注

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[脚注の使い方]
注釈
  1. ^Jリーグへの加盟申請をするためには、一定数のプロ契約選手が必要だった。
  2. ^後に三浦知良岡崎慎司が原を上回る得点数を記録。詳細はサッカー日本代表#記録を参照。
  3. ^原の就任は2010FIFAワールドカップ最終予選の最中であり、日本代表はホームゲーム2試合で1得点に終わるなど、苦戦が続いていた。
  4. ^その要因として、日刊ゲンダイは、JFA理事会及び評議会には田嶋の母校である筑波大学出身者が多いことや、犬飼基昭大仁邦彌といった三菱OBが立て続けに会長になることへの忌避を挙げている[55]
  5. ^原のtwitterアカウント名は「iijikantai(いい時間帯)」である。
  6. ^原自身がMCを務めるJリーグTVでも「いい時間帯ですね、原博実です」と自己紹介する。
出典
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  2. ^#2 ギャップにイチコロ マエストロの「裏」の顔 Jリーグ (2015年3月10日)
  3. ^ab国際親善試合 1988.09.13 東京・国立競技場 日本サッカー協会
  4. ^abcdefghijklm日本サッカー協会 新専務理事に原博実理事が就任日本サッカー協会 (2013年12月19日)
  5. ^株式会社フットメディア|原 大悟 フットメディア
  6. ^abcdefサッカー批評 69』双葉社、2014年、102-107頁。 
  7. ^西部,97頁
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  9. ^abc西部,53-55頁
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  11. ^東京今野、鼻折れても弾!”. 2005年4月6日時点のオリジナルよりアーカイブ。2015年8月3日閲覧。日刊スポーツ (2005年4月3日)
  12. ^ab後藤健生,211-212頁
  13. ^後藤健生,226頁
  14. ^ab後藤健生,220-221頁
  15. ^サッカー日韓戦“激闘の歴史” 好ゲームもあれば「猿まね」「独島メッセージ」の問題”. dot.asahi. 2021年3月10日閲覧。
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  26. ^ab西部,56頁
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  28. ^西部,61頁
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  36. ^“脱・原トーキョー”に成功。城福監督が新・東京を作ったゲキサカ (2009年11月3日)
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  39. ^西部,41頁
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  41. ^abcサッカー協会、技術委員会を再編 強化トップに原博実氏47NEWS (2009年2月12日)
  42. ^小宮良之『おれは最後に笑う サッカーが息づく12の物語』東邦出版、2015年、155頁。 
  43. ^サッカー批評 68』双葉社、2014年、40-45頁。 
  44. ^“大役”終えた原専務理事 新テーマは「JFAリフォーム」スポーツニッポン (2014年7月25日)
  45. ^霜田氏が強化担当技術委員長 = 原氏の後任 - サッカー協会時事通信 (2014年9月11日)
  46. ^原博実が見た自衛隊サッカー 原点を感じさせる大会の存在価値 (2/2) スポーツナビ (2015年5月7日)
  47. ^アギーレ監督の件に関する会長及び関係する役員の責任の有無及び処分について 日本サッカー協会 (2015年2月13日)
  48. ^平成26年度臨時評議員会議事録 日本体育協会 (2015年3月25日)
  49. ^ab本会役員体制が新しくなりました 日本体育協会 (2015年6月24日)
  50. ^日本体協、張会長を再選 原氏が国体委員長に47NEWS (2015年6月24日)
  51. ^新国体委員長にサッカー協会の原氏起用へサンケイスポーツ (2015年5月25日)
  52. ^abc会長選遺恨含み…原氏降格打診されJ副チェアマンに日刊スポーツ (2016年2月24日)
  53. ^【全文掲載・後編】注目のJFA会長選へ―原専務理事、田嶋副会長が語る日本サッカー界の明日サッカーキング (2016年1月24日)
  54. ^日本協会次期会長選挙、原氏が出馬表明! 田嶋氏も準備中スポーツニッポン (2015年12月2日)
  55. ^原vs田嶋の一騎打ち様相も JFA会長「脱密室選考」の不安 (2/3)日刊ゲンダイ (2015年12月3日)
  56. ^原博実氏「堂々と戦った」田嶋氏に敗れるも手応え日刊スポーツ (2016年1月31日)
  57. ^ab「僅差でびっくり」接戦の会長選、要因はJリーグシーズン移行問題サンケイスポーツ (2016年1月31日)
  58. ^原専務理事 僅差で敗れるも「投票してもらって感謝」スポーツニッポン (2016年2月1日)
  59. ^会長選・僅差で田嶋氏 「J秋開幕」で票割れる毎日新聞 (2016年2月1日)
  60. ^Jリーグ、原氏が副理事長に…クラブ強化責任者読売新聞 (2016年2月23日)
  61. ^ab原専務理事 初代J副チェアマン就任! 日本協会は退職へスポーツニッポン (2016年2月24日)
  62. ^ab理事・監事内定の件 Jリーグ (2016年2月23日)
  63. ^JFA会長選落選の原博実専務理事がJリーグに転籍、JリーグNo.2に…ハリル監督らにも知らせず発表ゲキサカ (2016年2月23日)
  64. ^2016年度第3回理事会 報告事項(PDF)日本サッカー協会 (2016年3月10日)
  65. ^Jリーグ副理事長の原博実氏、日本協会常務理事に日刊スポーツ (2016年3月13日)
  66. ^ab役員等予定者リスト(PDF)日本サッカー協会 (2016年3月10日)
  67. ^練習拠点やホーム戦一時移転も 熊本地震でJリーグ提案熊本日日新聞 (2016年4月20日)
  68. ^西野新監督後任の技術委員長に関塚隆氏 サンスポ(2018年04月12日)
  69. ^ab「『Jリーグジャッジリプレイ』を届けられたことは有意義」。原博実がJリーグの副理事長として挙げた成果は?”. www.soccerdigestweb.com (2021年12月13日). 2022年3月31日閲覧。
  70. ^大宮、原博実氏のフットボール本部長就任を発表「皆さんと熱く戦えることを…」”. サッカーキング (2022年4月12日). 2022年5月31日閲覧。
  71. ^原博実 フットボール本部長 就任記者会見 実施レポート”. 大宮アルディージャ. 2022年5月31日閲覧。
  72. ^大宮の原本部長、相馬監督の続投を表明”. スポーツニッポン. 2022年10月19日閲覧。
  73. ^代表取締役社長 交代について”. RB大宮 (2024年12月20日). 2025年8月10日閲覧。
  74. ^西部,44頁
  75. ^西部,6-7頁
  76. ^FC東京 原氏復帰 決定的”. 2007年1月17日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年1月26日閲覧。東京中日スポーツ (2006年12月4日)
  77. ^石川と同ポジション、同タイプであった佐藤由紀彦が故障で長期離脱をしていた。後に佐藤は石川と入れ替わる形で横浜F・マリノスへ移籍した。
  78. ^『FC東京ファンブック2007』毎日新聞社、2007年、79頁。 
  79. ^ab西部,83頁
  80. ^J1クラブチーム監督アンケート結果”. 2009年8月27日時点のオリジナルよりアーカイブ。2008年7月7日閲覧。 テレビ朝日
  81. ^西部,30-32頁
  82. ^馬場康平『まっすぐに平常心』出版芸術社、2010年、174-176頁。 
  83. ^ab後藤勝,94頁
  84. ^原監督『海外でやりたい』”. 2008年1月21日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年5月10日閲覧。東京中日スポーツ (2007年12月25日)
  85. ^後藤勝,206頁
  86. ^ab第5回東アジア競技大会 日本代表選手団名簿(PDF)日本オリンピック委員会
  87. ^abc原博実 フットボール本部長 就任のお知らせ” (2022年4月12日). 2023年1月27日閲覧。
  88. ^国体委員長・原博実常務理事は退任へ SANSPO.COM

参考文献

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関連項目

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外部リンク

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プロフィール
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スタッフ
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DF
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関連項目
 
日本代表 - 出場大会
 
監督歴
中日本重工業サッカー部
(1950 - 52)
新三菱重工業サッカー部
(1952 - 64)
三菱重工業サッカー部
(1964 - 90)
三菱自動車工業サッカー部
(1990 - 92)
浦和レッドダイヤモンズ
東京ガス
  • 村井茂雄 19?? - 19??
  • 木下幸男 19?? - 19??
  • 三浦哲二 19?? - 1959
  • 平光夫 1960 - 1964
  • 石井徹 1965 - 1970
  • 橋本昭一 1971 - 1973
  • 吉田慶次 1974 - 1975
  • 小川隆莞 1976 - 1979
  • 鳥原光憲 1980 - 1983
  • 菅野義裕 1984 - 1986
  • 渡辺公義 1987 - 1992
  • 今井敏明 1993 - 1994
  • 大熊清 1994 - 1998
FC東京
先代
小野剛
日本サッカー協会 技術委員長
2009年 - 2014年
次代
霜田正浩
先代
泉正文
日本体育協会 国民体育大会 委員長
2015年 - 2017年
次代
大野敬三
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