| 原保太郎 はら やすたろう | |
|---|---|
| 生年月日 | 1847年8月11日 |
| 没年月日 | (1936-11-02)1936年11月2日(89歳没) |
| 出身校 | ラトガース大学 キングス・カレッジ・ロンドン |
| 前職 | 兵庫県大書記官 |
| 所属政党 | 同和会 |
| 称号 | 勲三等瑞宝章 正四位 勲四等瑞宝章 王冠第一等勲章 従四位 大日本帝国憲法発布記念章 正五位 王冠勲章ナイトグランドオフィシル |
| 在任期間 | 1903年7月15日 - 1936年11月2日 |
| 在任期間 | 1896年4月7日 -1897年9月4日 |
| 在任期間 | 1895年7月16日 - 1896年4月7日 |
| 在任期間 | 1881年2月12日 -1895年3月26日 |
| テンプレートを表示 | |
原 保太郎(はら やすたろう、1847年8月11日(弘化4年7月1日[1]) -1936年(昭和11年)11月2日[2])は、幕末の園部藩士、明治の官僚・政治家。貴族院議員、錦鶏間祗候。神道無念流の練兵館塾頭を務めた剣客としても知られた。
小栗上野介を捕え、処刑した人物とされている。
園部藩士・原官次の三男として生まれる。江戸の練兵館で剣術を修行し、練兵館塾頭になったが、園部藩を脱藩して京都に上り、慶応3年(1867年)岩倉具視の食客となる[2]。戊辰戦争では、東山道総督随行、上野国巡察使兼軍監として従軍した。その際、江戸幕府の元勘定奉行・小栗忠順と家来3人を捕らえて斬首に処した。原が問答無用な形で斬首を強行した理由は判明していないが、当時はまだ22歳の若輩であり、総督府の命令といわれているが、功をあせる浅慮の極みとも言われている。原は後年「小栗は自分が斬った」と述べているが、安中藩の徒目付浅田五郎作が斬ったという説もある。
明治4年(1871年)にアメリカ合衆国へ留学し[2]、ラトガース大学で学ぶ。1874年ごろにイギリスに渡り、原六郎と共にキングス・カレッジ・ロンドンで経済学などを学ぶ。1876年に帰国[2]。
帰国後、兵庫県少書記、同県大書記官などを歴任し、1881年に第三代山口県令に就任した[2]。1895年3月、日清戦争の下関講和会議に出席していた清国大使・李鴻章が狙撃される事件が起こり、その責めを負い知事を辞任した。同年7月、福島県知事に任命され復帰[2]。さらに、北海道庁長官、農商務省山林局長兼林野整理局長を務めた[2]。
1903年7月15日、貴族院議員に勅選され[3]、同和会に属し死去するまで在任した。1905年9月1日に錦鶏間祗候となる[4]。また、維新史料編纂会員なども務めた。昭和11年11月2日没。墓所は品川区の海晏寺。