| 千駄木 | |
|---|---|
| 町丁 | |
森鷗外記念館「観潮楼」ゆかりの大イチョウ | |
北緯35度43分37秒東経139度45分37秒 / 北緯35.726858度 東経139.760383度 /35.726858; 139.760383 | |
| 国 | |
| 都道府県 | |
| 特別区 | |
| 地域 | 本郷地域 |
| 人口情報(2025年(令和7年)3月1日現在[1]) | |
| 人口 | 21,349 人 |
| 世帯数 | 11,764 世帯 |
| 面積([2]) | |
| 0.727km² | |
| 人口密度 | 29365.89 人/km² |
| 郵便番号 | 113-0022[3] |
| 市外局番 | 03(東京MA)[4] |
| ナンバープレート | 練馬 |
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千駄木(せんだぎ)は、東京都文京区の町名[5]。現行行政地名は千駄木一丁目から千駄木五丁目。住居表示実施済区域。
東京都区部のほぼ中心に存する文京区の北東端、JR東日本山手線の内側に位置している。東京メトロ千代田線の千駄木駅が所在し、JR東日本・京成電鉄(成田スカイアクセス線)の日暮里駅、東京メトロ南北線の本駒込駅などの鉄道駅にも近いため、交通至便な地域である。
東京都都市整備局が2004年に策定した「東京都市計画都市計画区域の整備、開発及び保全の方針」において、千駄木は、隣接する根津・谷中(谷根千)などとともに、歴史・文化、多様な都心居住などの魅力的で個性的な街が存在するエリア、居住機能を中心に既存のストックを活かしながら、豊かな都市環境が形成されているエリアとされている[6]。
なお、文京区立本郷図書館があることからも分かるように、かつては本郷区に存し、明治22年(1889年)に東京市制が施行された最初の15区の区域(いわゆる東京15区)であった。
日本医科大学が明治43年(1910年)3月に私立東京医学校を合併し、10月、私立東京医学校跡地(現:千駄木校舎)に移転。
メディア等で「谷根千」とひと括りで紹介される事が多い谷中、根津、千駄木は[7][8][9][10]、レトロな建物や歴史的建造物、史跡などが比較的残された情緒あふれる地域として知られ[11]、近年は、昔の建物をリノベーションした新しい雑貨店や飲食店等のショップが増えた事から[12]、観光客が多く訪れる観光地としての側面が強くなってきており[13]、公益財団法人東京観光財団のウェブサイトやLonely Planetなどの海外の旅行ガイドブックにおいても、東京都の代表的な観光エリアの一つとして、「谷中・根津・千駄木」が挙げられている[14][15]。江戸時代の区分では、谷中、根津、千駄木はそれぞれ谷中村由来の寺町(と農村)、根津神社の門前町、駒込村由来の(下級)武家町であるので、「下町」ではなかった。
特に千駄木は東京大学(東京帝国大学)、東京芸術大学(東京美術学校、東京音楽学校)等の高等教育機関が近く、森鷗外、夏目漱石、北原白秋、高村光太郎、川端康成など多くの文人が居を構えるだけでなく、著名な建築家である中條精一郎(慶應義塾大学図書館等を設計、娘は作家の宮本百合子)や渡辺仁(銀座和光や東京国立博物館本館を設計)も居を構え[16]、地形的にも高台付近は本郷台地の端であるため、本来の「山の手」に含まれる。
第68・69代内閣総理大臣大平正芳の邸宅も現:千駄木三丁目にあった。千駄木三丁目は、林町と呼ばれ、多くの文化人だけではなく、実業家も多く住んだ。旧安田楠雄邸庭園が面している通りは、かつては川崎銀行や岡本銀行などいくつかの銀行の頭取などが居を構えたことから、「銀行通り」とも呼ばれ[17]、現在も閑静な住宅地である。日本鉄道会社の副社長を経て東京瓦斯の社長になった実業家の久米良作も居を構えていた[18]。
五代目古今亭志ん生は1945年から1951年まで千駄木に住んでいた。天外天の総料理長・中川優は赤坂四川飯店で11年(内5年間は料理長)活躍した後、この地で独立した。また、江戸川乱歩が探偵・明智小五郎を初めて登場させた作品「D坂の殺人事件」の「D坂」とは千駄木にある「団子坂」の事であり、江戸川乱歩自身も千駄木で古本屋「三人書房」を開店していた[19]。
住宅地の地価は、令和7年(2025年)の公示地価によれば、文京区千駄木3-7-5(標準地番号:文京-17)の地点で128万0000円/m2、令和7年(2025年)の基準地価によれば、千駄木1-11-8(基準地番号:文京-4)の地点で127万0000円/m2となっている[24][25]。
また、商業地の地価は、令和7年(2025年)の公示地価によれば、文京区千駄木3-40-2(標準地番号:文京5-9)の地点で179万0000円/m2、令和7年(2025年)の基準地価によれば、千駄木3-40-2(基準地番号:文京5-7)の地点で197万0000円/m2となっている[24][25]。


2025年(令和7年)3月1日現在(文京区発表)の世帯数と人口は以下の通りである[1]。
| 丁目 | 世帯数 | 人口 |
|---|---|---|
| 千駄木一丁目 | 831世帯 | 1,717人 |
| 千駄木二丁目 | 2,690世帯 | 4,631人 |
| 千駄木三丁目 | 3,926世帯 | 6,764人 |
| 千駄木四丁目 | 1,886世帯 | 3,309人 |
| 千駄木五丁目 | 2,431世帯 | 4,928人 |
| 計 | 11,764世帯 | 21,349人 |
国勢調査による人口の推移。
| 年 | 人口 |
|---|---|
| 1995年(平成7年)[37] | 17,216 |
| 2000年(平成12年)[38] | 18,207 |
| 2005年(平成17年)[39] | 18,773 |
| 2010年(平成22年)[40] | 20,120 |
| 2015年(平成27年)[41] | 20,476 |
| 2020年(令和2年)[42] | 21,641 |
国勢調査による世帯数の推移。
| 年 | 世帯数 |
|---|---|
| 1995年(平成7年)[37] | 8,019 |
| 2000年(平成12年)[38] | 9,065 |
| 2005年(平成17年)[39] | 9,632 |
| 2010年(平成22年)[40] | 10,793 |
| 2015年(平成27年)[41] | 10,932 |
| 2020年(令和2年)[42] | 11,951 |
区立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる(2020年9月現在)[43][44]。
なお、文京区立汐見小学校の校地は、かつては白井遠平氏が所有する邸宅であったが、近所の人が喜ぶならということで白井氏の厚意により1,800坪の土地が破格の値段で当時の本郷区へ売却されたものである[45][46]。
| 丁目 | 番地 | 小学校 | 中学校 |
|---|---|---|---|
| 千駄木一丁目 | 全域 | 文京区立汐見小学校 | 文京区立第八中学校 |
| 千駄木二丁目 | 1〜28番 29番2号(一部) 29番6〜7号 30〜31番 32番5〜6・8号 33番 34番1〜3・8〜14号 35番2〜4・8〜14号 36〜49番 | ||
| 29番2号(一部) 29番4号 32番3・4号 34番4〜7号 35番6〜7号 | 文京区立文林中学校 | ||
| 千駄木三丁目 | 27番9〜11号 28番1〜6号 28番7号(一部) 28番10〜14号 29〜42番 | ||
| 1〜26番 27番7〜8号 28番7号(一部) 28番8〜9号 43〜52番 | 文京区立千駄木小学校 | ||
| 千駄木四丁目 | 全域 | ||
| 千駄木五丁目 | 2番8号(一部) 2番9号 6番1〜8号・25・27号 7〜50番 | ||
| 2番2〜7・10〜21号 2番8号(一部) 3〜5番 6番9〜17号 | 文京区立汐見小学校 | ||
| 1番 | 文京区立第八中学校 |
2021年(令和3年)現在の経済センサス調査による事業所数と従業員数は以下の通りである[48]。
| 丁目 | 事業所数 | 従業員数 |
|---|---|---|
| 千駄木一丁目 | 86事業所 | 3,457人 |
| 千駄木二丁目 | 270事業所 | 1,433人 |
| 千駄木三丁目 | 384事業所 | 3,271人 |
| 千駄木四丁目 | 101事業所 | 637人 |
| 千駄木五丁目 | 129事業所 | 907人 |
| 計 | 970事業所 | 9,705人 |
経済センサスによる事業所数の推移。
| 年 | 事業者数 |
|---|---|
| 2016年(平成28年)[49] | 929 |
| 2021年(令和3年)[48] | 970 |
経済センサスによる従業員数の推移。
| 年 | 従業員数 |
|---|---|
| 2016年(平成28年)[49] | 8,754 |
| 2021年(令和3年)[48] | 9,705 |
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