Movatterモバイル変換


[0]ホーム

URL:


コンテンツにスキップ
Wikipedia
検索

北元

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
大元大モンゴル国[1]
Dai-ön Yeke Mongγol Ulusᠳᠠᠢ ᠦᠨ
ᠶᠡᠬᠡ
ᠮᠣᠩᠭᠣᠯ
ᠤᠯᠤᠰ
元 (王朝)1368年 -1635年後金
チャハル部
ハルハ部
ドチン・ドルベン(1388年 - 1691年) 北元(1368年 - 1388年) 大モンゴル国[2]の位置
北元の領域
公用語モンゴル語
首都カラコルム(名目上)
皇帝ハーン
1368年 -1370年恵宗 ウハート・ハーン
1453年 -1454年エセン・ハーン
1479年 -1516年ダヤン・ハーン
1634年 -1635年エジェイ・ハーン
太師(タイシ)
xxxx年 - xxxx年バトラ丞相(マフムード)
xxxx年 - xxxx年トゴン
xxxx年 - xxxx年エセン
xxxx年 - xxxx年ボライ
面積
1550年5,000,000km²
変遷
の北走1368年
トグス・テムルの死去1388年
諸部族に分割15世紀
後金によって滅亡1635年
通貨物々交換
現在モンゴルの旗モンゴル
ロシアの旗ロシア
中華人民共和国の旗中華人民共和国内蒙古

北元(ほくげん、拼音:Běiyuán)は、第15代ウカアト・カアン(トゴン・テムル)が1368年の北伐を逃れて大都(現在の北京)からモンゴル高原に撤退し、中国漢民族定住農耕地域を失って以後の、(大元ウルスモンゴル帝国の皇帝直轄政権)の政権・政体を指す、後世の呼称である。この政権に属する遊牧諸部族を、同時代の『明史』では韃靼(だったん、拼音:dádá)と表記した[3]柯劭忞の『新元史』は、1388年までは北元が中国の正統王朝であったと見なしている。

定義

[編集]

元は、1368年に大都を放棄し、モンゴル高原を中心に中国の漢民族地域より北方の一帯を支配する政権となった。この政権をそれまでの中国を支配した元と区別して「北元」とする[4][5]。ただしモンゴルの当事者たちは、自らの政権は依然として「大元」(ダヤン)であると自覚しており、自称は「モンゴル」[5]、「モンゴル国」[6][5]、「大元ウルス」[7]、「大モンゴル」(モンゴル語:Их Монгол、野克莽官兒)[8]、「大モンゴル国」[5]と呼んだ。モンゴルの歴史書では「ドチン・ドルベン」(Дөчин дөрвөн、都沁·都爾本[9])と呼ばれている[注釈 1][10][11]

当時の明朝では、モンゴルを「韃靼」(タタール)と表記したが[5]、これはあくまで元の連続性を否定する必要があった明代特有の事情によるものに過ぎない[3][12]。「北元」という呼称は朝鮮の歴史書『高麗史』に由来しており[13][5]、当時のモンゴルや明では使用されていなかった。

モンゴル史研究者の間では、1388年のトグス・テムル死去までを北元とする説もあれば[14][15]、1635年のエジェイ後金に降伏するまでを北元とする説もあるため[16][13][17]、本記事では後者の北元について詳述する。

歴史

[編集]

元の北走

[編集]

1368年初頭に南京で明を建国した朱元璋は、皇帝に即位するとすぐに徐達を司令官として、既に中国の支配をほとんど喪失していたに対する北伐軍を派遣した。元の15代皇帝のトゴン・テムルは大都からモンゴル高原にある夏の都上都へと逃れたが、翌1369年には常遇春に敗れてさらに応昌府へ逃れた[18]

トゴン・テムル・ハーン(廟号は恵宗)が1370年に死去すると、明はトゴン・テムルに「天意に順じ明に帝位を譲った」という意味の順帝という諡号を贈り、トゴン・テムルに代わってハーンに即位したアユルシリダラ(昭宗)を「故元太子」と呼んで元の皇帝と認めなかった。しかし明の主張の一方で、元(北元)は依然としてモンゴル高原の遊牧勢力の君主として強大な軍事力を持っており、1372年には明がモンゴル高原に送った北伐軍を撃退した。

この時点で元(北元)の勢力は中国の北方から甘粛雲南まで維持しており、江南華北をようやく制覇したに過ぎない明を取り囲むようにして南北に対峙していた。特に東北地方(満洲)には数十万の大軍を擁する元(北元)の大尉であるジャライル部のナガチュの勢力が健在であり、明や高麗は北辺をナガチュの大軍にしばしば脅かされた。高麗はナガチュの軍事的脅威を受け、明と通好する一方で元(北元)とも通好していたが、1362年に、元の将軍のナガチュが高麗に攻め込むと、李成桂の率いる高麗軍により撃退され、その後は和親状態となる。

1378年に元の16代皇帝アユルシリダラが死去して、天元帝トグス・テムルが元の17代皇帝に即位する頃から元(北元)の勢力は衰えはじめて、明が満洲を制圧してモンゴル高原東部に勢力を伸ばすことを許した。

1387年、元(北元)のナガチュは明軍の大攻勢を受けてついに明に降り、ナガチュ救援のために高原東部のホロンボイル地方に進出していたトグス・テムル・ハーンも、翌年初頭に明の将軍藍玉の奇襲を受けて敗れた。元の皇帝トグス・テムルは敗走の途上で、クビライとハーン位を争って敗れたアリクブケの子孫にあたるイェスデルの手によって殺害され、ここにクビライの皇統は断絶した[18]

オイラトの台頭

[編集]
エセン・ハーン時の最大版図。

イェスデルは、1388年、モンゴル高原の西北部に割拠するオイラト部族の支持を受けて18代皇帝のハーンに即位するが、1391年に死去した[19]。これ以降、旧元朝のモンゴル諸部族は、四十モンゴル部(ドチン・モンゴル)と四オイラト部(ドルベン・オイラト)と呼ばれる2つの遊牧部族連合に分かれて、チンギス・ハーンの末裔の中から誰をハーンに擁立するかを巡って争うようになった[19]

モンゴル高原の西部に広がった四オイラトは、モンゴル帝国以前からモンゴル高原東北部に存在した由緒ある部族であるオイラトの長を盟主とし、親「アリクブケ家」の諸部族からなっていたのに対し、東部の四十モンゴルは親「クビライ家」の性格を有しており、チンギス裔のハーンを盟主とした。明は四十モンゴルを「蒙古」と呼ばずに「韃靼」と呼び替えて、彼らが元の後裔であることを言葉の上だけ否認した[3]

やがてモンゴルのアスト部族長アルクタイが有力となり、自派のハーンを立てるが、1410年に明の永楽帝による遠征軍に敗れ、代わってオイラト部族長マフムードが有力となった。

明の永楽帝は次にオイラトに対する親征を行い、1414年マフムードを破ったが、これにより再びアルクタイが勢力を盛り返した。さらに3度敢行され合計5度にわたった永楽帝の北伐と、アルクタイとマフムードの争いによって、15世紀前半のモンゴル高原は大いに混乱し、頻繁にハーンが取り替えられた。

1434年に至ってマフムードの子・トゴンはアルクタイを滅ぼし、甘粛にいたチンギス・ハーンの子孫トクトア・ブハをハーンに立てた[19]。トゴンはさらに敵対者を滅ぼしてモンゴル諸部族を屈服させるが、1439年に死去し、子のエセンがオイラトを継承した[20]

オイラトのエセンは明に侵攻し、明の正統帝を捕虜とし(土木の変)、西ではトルキスタンモグーリスタン・ハン国(東チャガタイ・ハン国)やウズベクアブル=ハイル・ハンなどのイスラム化したモンゴル系国家に戦勝して、オイラトの覇権の最盛期を築いた[20]。しかし、1453年にエセンは「大元天聖大可汗」と称し自らハーンに即位したことをきっかけに人心を失い、1454年に内乱により殺された[21]。エセンの敗死により、オイラトの覇権は崩壊したが、エセンは自らハーンとなる前にトクトア・ブハを始めチンギス・ハーンの血を引く者をほとんど皆殺しにしていたため、モンゴルの側も混乱が続いた。

六トゥメンのモンゴルの再編

[編集]
15世紀の東アジア諸国と北方諸民族。

1487年に至って、母がオイラトの出身であったためエセンの殺害を免れたバヤン・モンケの子で、当時存命していた唯一のクビライ裔の皇子であったバトゥ・モンケがハーンに即位した[22]。バトゥ・モンケはダヤン・ハーンと称したが、この尊称ダヤンは「大元」の音写である[22]。ダヤン・ハーンはオイラトを追ってモンゴル高原のほとんど全域に勢力を拡大すると、11人儲けた男子をモンゴルの諸部族の長に婿入りさせて、各部族の首長に就けた。ダヤン・ハーンとその直系の子孫はチャハル部を支配し、こうしてチャハル部の長がハーンとして、親族にあたる全モンゴルを統括する体制が築かれた。清代から現代に続くモンゴル諸部族の分布は、ダヤン・ハーンによるモンゴルの再編成をほぼ踏襲している。

1524年にダヤン・ハーンが死去すると、ハーン位を継承すべき長男トロ・ボラトは既に死んでおり、トロ・ボラトの子でダヤン・ハーンによって継承者に指名されていたボディ・アラクは年少であった[23]。このため、ハーン位はダヤン・ハーンの三男でオルドス部トメト部を支配するバルス・ボラトが一時的にハーンに即位し、チャハル部によるモンゴルの統一政権は早くも揺らいだ。1542年には、バルス・ボラトの長男でオルドス部を継承していたグンビリクが死去すると、グンビリクの弟でトメト部を継承していたアルタンが代わって有力となった[23]。チャハルのボディ・アラク・ハーンは、アルタンを西部(右翼)のモンゴル諸部族の指導者と認めてトシェート・セチェン・ハーン(トシェートは「補佐」の意)の称号を与えた[24]

1547年、チャハル部のボディ・アラク・ハーンが死去すると、その子ダライスン・ハーンは、トメト部のアルタンの圧迫を避けて東方に移住し、アルタン・ハーンがハーンに代わってモンゴル高原全体の事実上の支配権を握った[24]

アルタンは北ではオイラトと戦ってモンゴル高原西部からジュンガリアに追いやり、南では明に連年遠征して略奪を繰り返した。また、ダライ・ラマ3世に帰依してチベット仏教ゲルク派に入信し、内モンゴルに支配下に入った漢民族の定住農民を集めて開いた都市フフホトに寺院を建立、モンゴルが仏教化するきっかけをつくった。

アルタンの死後、アルタンが一代で築き上げた勢力と財産を巡ってトメト部では内紛が起こり、ダヤン・ハーンによるモンゴルの一体化は無実化していった。漠北(外モンゴル)ではハルハ部がオイラトと戦って服属させ、現在のモンゴル国の領土のほとんどを支配下に収めるまでに成長していた。

チンギス統原理のハーンの消滅

[編集]

トメトを避けて大興安嶺山脈の東に移住したチャハルでは、1603年リンダン・ハーンが即位した[25]。リンダンはモンゴルの再統一を目指したが、東の女直満洲民族)の統一を進めるヌルハチが立てた後金に次第に圧迫され、チャハルの周囲にいたモンゴル東部の諸部族は後金に降伏していった[26]1628年、リンダン・ハーンは後金に近い内モンゴル東部の支配に見切りをつけて西方への移動を開始し、内紛で弱体化していたトメトのアルタン・ハーン家を滅ぼしてフフホトを占領した[26]。さらにリンダン・ハーンは外モンゴルのハルハ部を服属させ、100年ぶりにモンゴルの中西部のほとんどをチャハル部の支配下に置くことに成功するが、自身の帰依するカルマ派を支援するためチベットへの遠征に向かう途上の1634年に甘粛で死去した[26]

リンダン・ハーンの死によってチャハル部の覇権は瓦解し、満洲人(女真人)による後金軍がフフホトを占領した。1635年、リンダン・ハーンの遺児エジェイは後金に降伏し、元の玉璽(皇帝の印章)を後金のホンタイジに献上した[25]。チャハルの降伏により、ダヤン・ハーンの再編したモンゴル部族連合のうち、漠北のハルハ諸部を除く全てが後金の支配下に入った。1636年、ホンタイジは満洲、漢、モンゴルの3民族の推戴を受ける形式を取って大清皇帝に即位し、この年以降、満洲人であるの皇帝がモンゴルのハーンとして君臨することになった。

後史(内蒙古が清朝に併合された後のモンゴル)

[編集]

一方、清の支配下には入っていないハルハ諸部[注釈 2]とオイラトは、この清の脅威を受けて積年の対立に終止符を打って同盟を締結し、1640年には部族間関係の取り決めをまとめた「ハルハ・オイラト法典モンゴル語版」を制定した。ハルハ諸部は清朝に対しては朝貢を行い、1655年には有力者8人がその冊封を受けて名目的に臣従することで清朝との間に安定した関係を築き、朝貢国としての内政自治を保持した。

しかし17世紀後半に至って、オイラトの覇権を握ったジュンガル帝国ガルダン・ハーンがハルハに侵攻すると、ハルハは1688年に数十万の属民がゴビ砂漠の南(内蒙古)に逃げ清に服属した[27]1697年、清がジュンガルに勝利しガルダンの敗走により、かつての大元ウルス(北元)の故地であるカラコルムを含むモンゴル草原(外蒙古)は全て清の支配下に入った[28]

歴代皇帝(ハーン)

[編集]
代数廟号皇帝号名前在位期間説明
15恵宗ウカアト・カアントゴン・テムル1333年 -1370年コシラの長男。リンチンバルの兄。大都を放棄してモンゴル高原に撤退。
16昭宗ビリクト・ハーンアユルシリダラ1370年 -1378年トゴン・テムルの子。
17ウスハル・ハーントグス・テムル(天元帝)1378年 -1388年アユルシリダラの弟。
18ジョリグト・ハーンイェスデル1388年 -1391年アリクブケ家出身。
19ジョリグト・ハーンエンケ1391年 -1394年イェスデルの長男。オイラトが擁立。
20ニグレスクチ・ハーンエルベク1394年 -1399年アユルシリダラの長男。
21ハーンクン・テムル1399年 -1402年アリクブケ家出身。オイラトが擁立。
22ハーンオルク・テムル(鬼力赤)1402年 -1408年オゴデイ家出身。アスト部アルクタイ・タイシが擁立。
23ハーンオルジェイ・テムル(プンヤシュリー)1408年 -1412年エルベク・ハーンの長男。
24ハーンダルバク1412年 -1415年オルジェイ・テムル・ハーンの子。オイラトのマフムードが擁立。
25ハーンオイラダイ1415年 -1425年四オイラトのケレヌート部のオゲチ・ハシハの子。
26ハーンアダイ1425年 -1438年オルク・テムル・ハーンの子。
27タイスン・ハーントクトア・ブハ1438年 -1452年アジャイ太子の長男。オイラトのトゴン・タイシが擁立。
28ハーンアクバルジ1452年タイスン・ハーンの弟。
29大元天盛大可汗エセン1453年 -1454年オイラト出身ながら皇帝位を簒奪。
30ウケクト・ハーンマルコルギス1455年 -1465年タイスン・ハーンの子。ボライ・タイシが擁立。
31ハーンモーラン1465年 -1466年タイスン・ハーンの子。
32ハーンマンドゥールン1475年 - 1479年タイスン・ハーン、アクバルジ晋王の弟。
33ハーンバヤン・モンケ1480年 - 1487年アクバルジ晋王の孫。
34ダヤン・ハーンバトゥ・モンケ1487年 -1524年ボルフ晋王の子。イスマイル・タイシが擁立。
35サイン・アラク・ハーンバルス・ボラト1524年ダヤン・ハーンの三男。
36アラク・ハーンボディ1524年 -1547年ダヤン・ハーンの孫。ここからはチャハル部長。
37ゴデン・ハーンダライスン1548年 -1557年ボディ・アラクの長男。
38ジャサクト・ハーントゥメン1558年 -1592年ダライスンの長男。
39セチェン・ハーンブヤン1593年 -1603年トゥメンの長男。
40フトゥクト・ハーンリンダン1603年 -1634年ブヤンの孫。
41ホンゴル・ハーンエジェイ1634年 -1635年リンダン・ハーンの子。
モンゴルの歴史
モンゴルの歴史
モンゴル高原
獫狁葷粥山戎
月氏匈奴東胡
南匈奴
丁零鮮卑
高車柔然
鉄勒突厥
 東突厥
回鶻
黠戛斯達靼契丹
ナイマンケレイト大遼
(乃蛮)(客烈亦)モンゴル
モンゴル帝国
大元嶺北行省
北元
ハルハオイラト
大清外藩外蒙古
大モンゴル国
中国人の占領
大モンゴル国
モンゴル人民共和国
モンゴル国

元号

[編集]
  1. 至正1341年 -1370年
  2. 宣光1371年 -1378年
  3. 天元 1378年 -1388年

系図

[編集]

モンゴル帝国の北元時代の系図

北元時代以降に書かれたモンゴル年代記

[編集]

[29]

脚注

[編集]
[脚注の使い方]

注釈

[編集]
  1. ^「ドチン」(ドチン・モンゴル:四十万モンゴル)はクビライの子孫が治めるモンゴル本土、「ドルベン」(ドルベン・オイラト:四万オイラト)はオイラトのこと
  2. ^大順・大西(張献忠の死後は後成)・南明(のち鄭氏台湾)・清が競立期の中国地図では「喀爾喀部」「韃靼」など様々に記されている。

出典

[編集]
  1. ^杉山 2016, p. 30.
  2. ^Buell, Paul D (2018). Historical dictionary of the Mongol world empire. Lanham: Rowman & Littlefield. ISBN 9781538111369. https://onesearch.wesleyan.edu/discovery/fulldisplay/alma99248503803769/01CTW_WU:CTWWU 
  3. ^abc宮脇 2002, p. 142.
  4. ^鄭麟趾 2022.
  5. ^abcdef森川 2008.
  6. ^ウィキソース出典  (中国語) 满洲实录, p. 卷六, ウィキソースより閲覧。 
  7. ^楊 2024, p. 306.
  8. ^阿保矶 2022.
  9. ^賈敬顏 (1993). “〈韃靼 瓦剌 兀良哈 明朝蒙古人的歷史——兼說「都沁·都爾本」一詞〉” (中国語). 《內蒙古社會科學:文史哲版》 (3): 57-65. 
  10. ^Эрхэмбаяр Ганхуяг (2022) (モンゴル語). Дөчин дөрвөн хоёрын "Их цааз"-ын судалгаа. モンゴル国. ISBN 9789919965426 
  11. ^Дөрвөн Ойрад” (モンゴル語). Монголын түүхийн тайлбар толь. 2016年9月11日閲覧。
  12. ^三訂版,世界大百科事典内言及, 日本大百科全書(ニッポニカ),精選版 日本国語大辞典,デジタル大辞泉,百科事典マイペディア,世界大百科事典 第2版,普及版 字通,ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典,旺文社世界史事典. “韃靼とは”. コトバンク. 2022年10月9日閲覧。
  13. ^ab大晶 2021.
  14. ^角川 2001, p. 869.
  15. ^山川 2004, p. 645.
  16. ^森川 2007, p. 3.
  17. ^赤坂 2015.
  18. ^ab宮脇 2002, p. 140.
  19. ^abc宮脇 2002, p. 143.
  20. ^ab宮脇 2002, p. 144.
  21. ^宮脇 2002, p. 145.
  22. ^ab宮脇 2002, p. 148.
  23. ^ab宮脇 2002, p. 153.
  24. ^ab宮脇 2002, p. 154.
  25. ^ab宮脇 2002, p. 176.
  26. ^abc宮脇 2002, p. 177.
  27. ^宮脇 2002, p. 200.
  28. ^宮脇 2002, p. 201.
  29. ^森川 2007.

参考資料

[編集]

外部リンク

[編集]
  • 大晶「大モンゴル大元遺産の北元時代の変遷」、立教大学学術リポジトリ、2021年。 
  • 赤坂恒明「テムル・ハーン 以降のウルグ・ユルトの条」『埼玉学園大学紀要(人間学部篇)』第15巻、埼玉学園大学・川口短期大学 機関リポジトリ、2016年3月10日。 
  • 森川哲雄「大元の記憶」『比較社会文化』第14巻、九州大学学術情報リポジトリ、2008年3月20日、65-81頁。 


主要部族
ドチン・モンゴル(四十万モンゴル)
ダヤン・ハーンの六トゥメン
左翼
右翼
オンリュート
ドルベン・オイラト(四万オイラト)
ウリヤンハイ三衛(六千オジェート)
歴代ハーン
歴代ハトゥン
歴代ジノン
歴代オン
歴代タイシ
称号
主要都市
年代記
対外勢力
https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=北元&oldid=107153046」から取得
カテゴリ:

[8]ページ先頭

©2009-2025 Movatter.jp