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加藤友三郎内閣

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
加藤友三郎内閣
天皇第123代大正天皇
内閣総理大臣第21代加藤友三郎
成立年月日1922年大正11年)6月12日
終了年月日1923年(大正12年)9月2日
与党・支持基盤立憲政友会
成立事由大命降下
終了事由首相の死去
前内閣高橋内閣
次内閣第2次山本内閣
内閣閣僚名簿(首相官邸)
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加藤友三郎内閣(かとうともさぶろうないかく)は、男爵海軍大将加藤友三郎が第21代内閣総理大臣に任命され、1922年大正11年)6月12日から1923年(大正12年)9月2日まで続いた日本の内閣

1923年(大正12年)8月24日、加藤が首相在任のまま死去し、外相の内田康哉が首相を臨時兼任して同年9月2日まで事務を取り扱った。なお薩長出身でない軍人が首相を務めたのは、広島藩出身の加藤友三郎が最初である。

内閣の顔ぶれ・人事

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国務大臣

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1922年(大正11年)6月12日任命[1]。在職日数440日。

職名氏名出身等特命事項等備考
内閣総理大臣 21加藤友三郎海軍大将
海兵7期
男爵
海軍大臣兼任1923年8月24日死亡欠缺[2]
外務大臣34内田康哉外務省
伯爵
留任
内務大臣33水野錬太郎貴族院
立憲政友会
交友倶楽部
大蔵大臣22市来乙彦貴族院
無所属
研究会
初入閣
陸軍大臣 15山梨半造陸軍大将
陸大8期
留任
海軍大臣8加藤友三郎海軍大将
(海兵7期)
男爵
内閣総理大臣兼任留任
1923年5月15日免兼[3]
9財部彪海軍大将
海兵15期
初入閣
1923年5月15日任[3]
司法大臣24岡野敬次郎貴族院
立憲政友会
(交友倶楽部)
初入閣
文部大臣30鎌田栄吉貴族院
立憲政友会
(交友倶楽部)
初入閣
農商務大臣29荒井賢太郎貴族院
立憲政友会
(交友倶楽部)
初入閣
逓信大臣26前田利定貴族院
無所属
(研究会)
陸軍中尉
子爵
初入閣
鉄道大臣2大木遠吉貴族院
無所属
(研究会)
伯爵
  1. 辞令のある留任は個別の代として記載し、辞令のない留任は記載しない。
  2. 臨時代理は、大臣空位の場合のみ記載し、海外出張時等の一時不在代理は記載しない。
  3. 代数は、臨時兼任・臨時代理を数えず、兼任・兼務は数える。

内田外相の臨時兼任期間

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1923年(大正12年)8月24日任命[2]。在職日数10日。

職名氏名出身等特命事項等備考
内閣総理大臣-内田康哉外務省
伯爵
臨時兼任
(外務大臣兼任)
1923年8月24日任[2]
外務大臣25内田康哉外務省
伯爵
内閣総理大臣臨時兼任留任
内務大臣33水野錬太郎貴族院
立憲政友会
(交友倶楽部)
留任
大蔵大臣22市来乙彦貴族院
無所属
(研究会)
留任
陸軍大臣15山梨半造陸軍大将
(陸大8期)
留任
海軍大臣9財部彪海軍大将
(海兵15期)
留任
司法大臣24岡野敬次郎貴族院
立憲政友会
(交友倶楽部)
留任
文部大臣30鎌田栄吉貴族院
立憲政友会
(交友倶楽部)
留任
農商務大臣29荒井賢太郎貴族院
立憲政友会
(交友倶楽部)
留任
逓信大臣26前田利定貴族院
無所属
(研究会)
陸軍中尉
子爵
留任
鉄道大臣2大木遠吉貴族院
無所属
(研究会)
伯爵
留任
  1. 辞令のある留任は個別の代として記載し、辞令のない留任は記載しない。
  2. 臨時代理は、大臣空位の場合のみ記載し、海外出張時等の一時不在代理は記載しない。
  3. 代数は、臨時兼任・臨時代理を数えず、兼任・兼務は数える。

内閣書記官長・法制局長官

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1922年(大正11年)6月12日任命[4]

職名氏名出身等特命事項等備考
内閣書記官長23宮田光雄衆議院
無所属
庚申倶楽部
法制局長官20馬場鍈一大蔵省→)
貴族院
無所属
(研究会)
留任
  1. 辞令のある留任は個別の代として記載し、辞令のない留任は記載しない。
  2. 臨時代理は、大臣空位の場合のみ記載し、海外出張時等の一時不在代理は記載しない。
  3. 代数は、臨時兼任・臨時代理を数えず、兼任・兼務は数える。

勢力早見表

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※ 内閣発足当初(前内閣の事務引継は除く)。

出身国務大臣その他
こうゆうくらふ交友倶楽部4
けんきゆうかい研究会3法制局長官
こうしんくらふ庚申倶楽部0内閣書記官長
くんふ軍部2国務大臣のべ3
かんりよう官僚1
10国務大臣のべ11

内閣の動き

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高橋内閣は、原敬首相の暗殺を受けて急遽首相に就任した高橋是清が、与党立憲政友会の党内をまとめることができず、半年余りで内閣総辞職に至る。後継の内閣としては、野党第一党の憲政会が想定されていたが、首相奏請権を握っていた元老松方正義西園寺公望)は、憲政会の加藤高明総裁の首相としての力量を疑問視しており、奏請には後ろ向きであった[注釈 1]。そのため、後継首相の選定を主導した松方元老は、まず海軍重鎮の加藤友三郎海相を優先候補とし、加藤海相の組閣が不調に終わった場合は、憲政会の加藤総裁に打診する方針で臨む。

加藤海相は、当初はこれを機に隠匿する心づもりであり、最初は辞退したが、憲政会への政権移譲阻止を図る政友会から「党員入閣でも好意的局外中立でも無条件をもって内閣組織を援助する」意向が伝えられたことにより翻意、政友会は加藤友三郎政権を閣外協力する形で与党の座を維持する[5]

主な施策

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1923年(大正12年)8月24日、持病を理由にしばらく自宅で静養していた加藤総理がそのまま死去。大腸ガンの悪化によるものだった。翌25日に加藤友三郎内閣は総辞職、次の内閣が発足するまでの間は外務大臣内田康哉総理大臣を臨時兼任して関連事務を取り扱った。後継の首相となった山本権兵衛が組閣を行っている最中、関東大震災大正関東地震)が勃発する。

脚注

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[脚注の使い方]

注釈

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  1. ^加藤総裁は、第2次大隈内閣立憲同志会(憲政会の前身)総裁として入閣した際、外交政策を巡って元老と対立を引き起こした過去があった。

出典

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  1. ^『官報』号外「叙任及辞令」、大正11年6月12日
  2. ^abc『官報』号外「授爵、叙任及辞令」「彙報」、大正12年8月25日
  3. ^ab『官報』号外「叙任及辞令」、大正12年5月15日
  4. ^『官報』第2958号「叙任及辞令」、大正11年6月13日
  5. ^升味, pp. 18–21.

参考文献

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関連項目

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外部リンク

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高橋内閣加藤友三郎内閣
1922年(大正11年)6月12日
  - 1923年(大正12年)9月2日
第2次山本内閣
   
  • 名前は内閣総理大臣、名前の後の数字は任命回数(組閣次数)、「改」は改造内閣、「改」の後の数字は改造回数(改造次数)をそれぞれ示す。
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