| かやま ゆうぞう 加山 雄三 | |||||||||||
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
『映画情報』1967年4月号にて。 | |||||||||||
| 本名 | 池端 直亮(いけはた なおあき)[1] | ||||||||||
| 別名義 | 弾 厚作(だん こうさく) | ||||||||||
| 生年月日 | (1937-04-11)1937年4月11日(88歳) | ||||||||||
| 出生地 | |||||||||||
| 出身地 | |||||||||||
| 身長 | 175cm | ||||||||||
| 血液型 | A型 | ||||||||||
| ジャンル | 俳優、歌手、タレント、ギタリスト、ピアニスト、ウクレレ演奏者、画家 | ||||||||||
| 活動期間 | 1960年 - | ||||||||||
| 活動内容 | 1960年:デビュー | ||||||||||
| 配偶者 | 松本めぐみ | ||||||||||
| 著名な家族 | 岩倉具視(高祖父) 依仁親王妃周子(大伯母) 上原謙(父) 小桜葉子(母) 池端亮子(妹) 仁美凌(異母妹) 池端信宏(長男) 加山徹(次男) 梓真悠子(長女) 池端えみ(次女) | ||||||||||
| 主な作品 | |||||||||||
| 映画 『若大将シリーズ』 『椿三十郎』/『赤ひげ』/『乱れ雲』 『戦場に流れる歌』 『日本のいちばん長い日』 『八甲田山』/『零戦燃ゆ』 テレビドラマ 『大追跡』/『パパの結婚』/『時よ燃えて!』 『かたぐるま』シリーズ 『せーの!』 バラエティ番組 『みごろ!たべごろ!笑いごろ!』 『加山雄三ショー』 『若大将のゆうゆう散歩』 | |||||||||||
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| 加山 雄三 | |
|---|---|
| ジャンル | 歌謡曲 ポップス ロック |
| 担当楽器 | ボーカル ギター ベース ドラム ピアノ ウクレレ |
| 活動期間 | 1961年 - |
| レーベル | 東芝レコード →ファンハウス →ドリーミュージック |
| 事務所 | 東宝 →渡辺プロダクション → 東宝→加山プロモーション |
| 共同作業者 | ザ・ランチャーズ (1962年 - 1967年) 寺内タケシとブルージーンズ (1965年) ザ・ワイルドワンズ (1967年) 谷村新司 (1992年) 加山雄三&ハイパーランチャーズ (1994年 - ) THE ALFEE (2000年) 加山雄三とザ・ヤンチャーズ (2010年) THE King ALL STARS (2014年 - ) |
| 公式サイト | 公式ウェブサイト |
| エルヴィス・プレスリー ザ・ベンチャーズ ビートルズ | |
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加山 雄三(かやま ゆうぞう[3]、1937年〈昭和12年〉4月11日[3] - )は、日本の歌手、俳優、タレント、ギタリスト、ピアニスト、ウクレレ演奏者、画家。本名、池端 直亮(いけはた なおあき)[1]。ニックネームは、若大将[4]。作曲家として、弾 厚作(だん こうさく)のペンネームを用いる。
神奈川県[3]横浜市生まれ、茅ヶ崎市出身。公益財団法人日本セーリング連盟応援団長、文化功労者。勲等は旭日小綬章。
父は俳優の上原謙[3](池端清亮)、母は女優の小桜葉子[2](池端具子)。妹は池端亮子。母方の高祖父は明治の元勲・岩倉具視[2]である。
神奈川県横浜市神奈川区幸ケ谷の家に生後8か月まで、次の東京都大田区田園調布には1歳9か月までいた[2]。幼少期に大腸カタルを患い病弱だったため、子煩悩な父・上原謙は息子のために、自然環境の良い神奈川県茅ヶ崎市へ引っ越した。加山が覚えているのは、この茅ヶ崎の家からである[2][注釈 1]。海と茅ケ崎駅の中間辺りにあって、平屋の日本家屋だった[2]。お手伝いさんは必ず2人はいた[2]。茅ヶ崎市の実家には31歳で結婚するまで過ごした。
茅ヶ崎市立茅ヶ崎小学校、茅ヶ崎市立第一中学校を卒業[5]。高校受験の季節になり、志望校として都立日比谷高、早稲田実業、慶應義塾高三校の学校見学に行き、プールが日吉 (横浜市)と三田 (東京都港区)に二つあること、なんとなく伸び伸びした校風が自らに合っていることを理由に慶應義塾高校のみを受験することにした。受験校を決めてからの半年間は、英語・数学・国語の主要3科目にそれぞれ家庭教師を付けていたことに加え、例えば一日に英単語200個を暗唱したように猛勉強し、合格をつかみ取った[6]。慶應義塾高時代にはボクシングやバンドなどを始め、また冬になると海から山に興味関心が湧き移りスキーを始めた。後の慶應大学時代の1959年には、スキーで念願の国体蔵王大会に出場した[6]。

慶應義塾大学法学部政治学科卒業後の1960年春に東宝へ入社[3]。同年『男対男』で映画デビュー[3]、『独立愚連隊西へ』で初主演[3]。当時、東宝本社と同じく有楽町にあった渡辺プロダクションにも一時期在籍した。
1961年、『夜の太陽』で歌手デビュー。『NHK紅白歌合戦』(NHK総合・ラジオ第1)出場17回(詳細はNHK紅白歌合戦出場歴を参照)。代表曲多数。後のフォークソングやニューミュージック全盛時代に先立つ、日本におけるシンガーソングライターの草分け的存在であり、また日本で初めて多重録音を手がけた歌手でもある。
ソングライターとしてのペンネームは、加山が尊敬している團伊玖磨と山田耕筰を足して2で割った弾厚作(だんこうさく/ドン・コサック)であり、同名義で作曲(稀に作詞もある)している。
『日刊スポーツ』1964年6月10日付に「波乗り日本第一号 加山雄三 サーフボード作る」と載る。
1965年12月に映画『エレキの若大将』主題歌として発売された『君といつまでも』はレコード販売350万枚の大ヒットになり、1966年の第8回日本レコード大賞の大本命とされていたが、結局大賞は同曲に比べ売上面で劣る橋幸夫の『霧氷』が受賞することとなり、「君といつまでも」は特別賞に留まる。
俳優としてはそれまでの宝田明に代わって東宝の若手看板スターとして大活躍、娯楽映画の「若大将シリーズ」が大ヒットし代表作となるが[3]、一方で黒澤明、成瀬巳喜男、岡本喜八といった名匠の作品にも多く出演している。ブロマイドは女学生を中心に爆発的な売れ行きを記録した。
1964年、加山雄三は従弟の喜多嶋瑛、喜多嶋修の兄弟と、大矢茂の4人で、第二期ザ・ランチャーズを再結成した。
1965年7月 - 8月にかけて、ザ・ベンチャーズとTV番組で共演し、永年にわたる彼らとの交友関係のきっかけとなった。ザ・ベンチャーズが使用したパール・ホワイト・フィニッシュのmosrite(モズライト)ギターは、日本公演終了後に、経緯は不明ながら加山雄三に渡り、映画『エレキの若大将』で使用された。
1966年、高校生であった喜多嶋修と大矢茂に芸能活動の制限が掛かり、サポートメンバーとしてサイド:堤光生、ベース:岩崎道夫が参加、映画「歌う若大将」に映像として残っている。同年3月には、来日中のザ・ベンチャーズより直接ギター演奏の指導を受ける機会があり、その時の模様は堤光生によって録音されていた。
1965年、神奈川県茅ヶ崎市にパシフィックホテル茅ヶ崎を開業[注釈 2]。1967年、運営会社の日本観興開発(後に株式会社パシフィック・ジャパンに改称)取締役に就任。しかし、パシフィック・ジャパンは1970年3月に23億円の負債を抱え倒産。ホテルは18億円で売却され、監査役だった加山は、父の上原と共に巨額の債務を抱えた。加えて、女優松本めぐみとの結婚が世間を騒がせ、1969年の『フレッシュマン若大将』以降低迷した同シリーズが1971年に終了、映画出演の減少もあいまって、かつてない不遇の時代を迎える。ナイトクラブ、キャバレー回りをするも、ギャラはほぼ全額借金の返済に充てられ質素な生活へと追い込まれるが、10年で完済した。
その後、活動の主軸をテレビに移し[3]、『みごろ!たべごろ!笑いごろ!』(NET→テレビ朝日系)を始めとするバラエティ番組、『江戸の旋風』『大追跡』『ぼくの妹に』などのテレビドラマやドラマの挿入歌『ぼくの妹に』のヒットで徐々に息を吹き返す。加えて「理想の父親」と呼ばれるほど世間からの好感が高く、ヤマザキナビスコのクラッカー「プレミアム」で家族全員でCM出演をする程、「理想の家族」としても認知度が高い。1990年前後の時点では本業は俳優であると述べていたが、21世紀に入ってからは俳優活動は殆ど行なっておらず、歌手としての活動がメインになっている。
1974年1月5日、北海道のルスツスキー場で雪上車が突然滑り出す事故に巻き込まれ左肩を骨折[8]。
1986年 -1988年に『NHK紅白歌合戦』で白組司会(1986年は「キャプテン」名義)を3年連続で務めた。1986年の『第37回NHK紅白歌合戦』では、白組トップバッターを務めた少年隊の『仮面舞踏会』曲名を誤って「仮面ライダー」と紹介した。
1991年12月28日、新潟県南魚沼郡湯沢町に加山キャプテンコーストスキー場を開業。2010年 -2011年シーズンまで営業したが、2011年に発生した東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)の影響や若者のスキー離れなどによる経営資金調達困難などが影響し、2011年7月に閉鎖を決めた[9]。
1993年にアメリカ合衆国のMosriteよりマリンブルーと「若大将シリーズ」でおなじみだった白の2色にファズを搭載した加山雄三モデルギターが発売された。
1994年、ザ・ワイルドワンズの島英二に声をかけられて、仲間内で久しぶりにエレキギターを弾いてザ・ベンチャーズごっこをやっていたところ、事務所の社長の鶴の一声がきっかけで「加山雄三&ハイパーランチャーズ」を結成。
1997年4月23日、加山の60歳の誕生日を記念したCD2枚組のトリビュート・アルバム『60 CANDLES』がファンハウスから発売。木崎徹のプロデュース下、レコード会社の垣根を越えた様々なアーティストが参加した。


2000年、Mosrite社よりパールブルーの加山雄三・芸能生活40周年記念モデルギターがハイパーランチャーズの「ハイパー」に語呂を合わせた818,000円で限定40本で発売され、即完売した。このモデルは前回のモデルと同様にファズが搭載されており、ヘッドがイニシャルの「K」にカットされ、指板にはLEDが組み込まれ、スイッチで光るようになっている。なお、アウトプット・ジャックは本体裏にあるなど、オリジナリティ溢れる製品になっている。
2005年4月10日には新高輪プリンスホテルにて「芸能生活45周年を祝う会」という盛大なパーティが開かれた。関連してヤマハより芸能生活45周年記念モデルギター「SG3KY」が限定45本で発売され、アメリカ合衆国ハワイ州のセニーザ社(CENIZA)より、加山雄三・芸能生活45周年記念モデルのウクレレが、限定45本で発売された。
2006年3月3日・4日、東京文化会館の45周年と加山雄三の芸能生活45周年を祝うガラ・コンサート(祝典)が大ホールで行われた。同ホールは、クラシック音楽の殿堂かつオペラの聖地として名高く、ポピュラー音楽が鳴ることはかつて無かったが、ポップス・シンガーとして初めてステージに上ったのが加山である。「加山雄三With大友直人 シンフォニック・ガラ・コンサート」で、千住明をはじめとする5人の編曲家によって加山サウンドをクラシックに蘇らせた。プロデューサーで構成・演出をしたのは 加山雄三の還暦祝いに日本初のトリビュート・アルバム『60 CANDLES』を1997年にプロデュースした木崎徹。彼は東京文化会館の音楽監督である大友直人の古くからの友人であったために革命的なコンサートが実現した。この模様はDVDになりリリースされている。
2006年8月26日、加山と同じく湘南(茅ヶ崎などの広域地名)というイメージや、茅ヶ崎出身の有名人として名の挙がるサザンオールスターズの桑田佳祐の呼びかけにより、「THE 夢人島 Fes.2006」に参加。桑田がバックバンドを務めた。また、茅ヶ崎ライブでの友情出演VTRにて、「茅ヶ崎ブラザーズの兄として…」と桑田との関係をお茶目に語っている。
2007年4月29日、茅ケ崎駅北口のペデストリアンデッキに加山雄三の手形モニュメント(加山本人の手形および「海・その愛」という直筆の言葉が彫られたレリーフ)が設置され、服部信明茅ヶ崎市長を始め、茅ヶ崎市関係者および市民が参列し、除幕式が盛大に執り行われた。
2010年5月19日、神奈川県茅ヶ崎市が加山雄三芸能生活50周年を祝い、加山に茅ヶ崎市民栄誉賞を贈呈することを発表した[10]。
2011年、第61回芸術選奨文部科学大臣賞大衆芸能部門を受賞[11]。
2013年に宮城県仙台市で行われた野外ロックフェス「ARABAKI ROCK ROCK FEST.2013」に出演したことをきっかけに、2014年にロックバンド「THE King ALL STARS」を結成した。メンバーは加山の他に、キヨサク(上江洌清作)(MONGOL800)、佐藤タイジ(シアターブルック)、名越由貴夫(Co/SS/gZ)、古市コータロー(THE COLLECTORS)、ウエノコウジ(the HIATUS)、武藤昭平(勝手にしやがれ)、高野勲、山本健太、タブゾンビ(SOIL&"PIMP"SESSIONS)、スチャダラパー。
2014年7月 - 8月、77歳を記念しての大型イベント「若大将EXPO 〜夢に向かって いま〜」が東京で開催。若大将シリーズ等の映画上映やテレビ番組『若大将のゆうゆう散歩』で描いた絵画の展示イベント「心に残る1枚の風景画展」等が行われたほか、最終日となった8月23日には日本武道館にてコンサートが行われた。
2014年9月27日より、加山自身の最後の全国コンサートツアーとして、全国47都道府県53か所にて「若大将EXPO 〜夢に向かって いま〜」[12]を開催。2015年7月25日、東京のNHKホールで最終公演を迎え、加山は「歌をやめるわけじゃない。歌は生涯の親友。死ぬまで歌うけど、コンサートツアーには節目をつける」として、全国ツアーからは身を引くことを明らかにした。主な理由として「ほかのことをやりたいから。一つの夢として80歳になるまでに設計している船を完成させたい」[13]とし、かねてから公言している、自身の設計した災害救助船となるエコシップの建造を本格的に進めることも明かしている[13][14][15]。
2014年秋の叙勲で旭日小綬章を受章[16]。現在は神棚に保管されている[17]。また、同時期に同郷で親交のある桑田佳祐も紫綬褒章を受章しており、お互いの栄誉を褒め合ったという[18]。
2017年4月11日、桑田佳祐・原由子夫妻と山下達郎・竹内まりや夫妻が発起人になりブルーノート東京を貸し切り80歳の誕生日会が実施される[19]。桑田夫妻・山下夫妻の他にも星野源と水谷千重子(友近)が参加した[20]。
2019年11月12日、軽い脳梗塞を発症したため同月のコンサートを延期することを発表[22]。19日、後遺症なく退院した[23]。
2020年8月29日、水を飲んだ際の誤嚥から嘔吐し、自宅から病院に救急搬送されて入院[24]。咳き込んだことが原因で軽度の小脳出血を起こしていたことを9月2日に公表[25][26]。当面の治療専念を明らかにした[25]。11月9日、退院[27]。
2021年3月25日、この日放送のフジテレビ系のワイドショー『とくダネ!』で、総合司会の小倉智昭によるインタビューが放送され、久々のメディア出演となった。左半身の軽度の麻痺、軽度の言語障害があることを明したものの、「回復は70%」と明瞭に答え、自力でしっかり歩行している。また、このインタビューで、既に新曲のレコーディングを終えていることも明かしている。これは自宅倉庫で偶然に発見されたテープに収録された自作による未発表曲『紅いバラの花』で、84歳の誕生日である2021年4月11日に自身初のデジタルシングルとして配信リリース[28]。
2022年6月19日、年内でコンサート活動から引退することを発表した[29]。最終公演は、豪華客船「飛鳥II」でのクルージングコンサート(同年12月6 - 8日と8 - 10日)[30]。同月8日には、NHKが同年大晦日の第73回NHK紅白歌合戦への出場を発表し、コンサート以外でも人前で歌うのはこれが最後となった[31]。
2023年9月1日、茅ヶ崎市の佐藤光市長より、『加山雄三氏を名誉市民に推薦する提案』が市議会本会議に提出され、全会一致の議決によりこれが決定された[32]。なお茅ヶ崎市の名誉市民は5人目となる[32]。翌2024年4月11日の誕生日に合わせ、市役所前広場での銅像除幕式[33]と名誉市民章の授与が行われた。同月に著書『俺は100歳まで生きると決めた』(新潮新書)も出された。
『スペースインベーダー』の頃から遊んでいるゲーマーで、幼い時の子供2人と遊んでいた[51]。
少しでも時間があると、『バイオハザード』や『鬼武者』、『ファイナルファンタジー』、『グランツーリスモ』などをプレイしている。本人によると「バイオハザードは1から5まで、5はネットでやった。FF(ファイナルファンタジー)は10までやったけど、11がネットになったからそれはやってない」と語っている[52][出典無効]。特に、『バイオハザード』には熱心で、2011年に『さんまのまんま』に出演したときには、『バイオハザード』の面白さを熱弁していた。『バイオハザード1』ではナイフ使用限定クリア、『鬼武者』において57分というクリアタイムを叩き出している。この記録は、世間的に見ても相当上手でないと達成できないことから、その熱中ぶりがうかがえる[53]。『バイオハザード』への熱中ぶりは81歳となった2018年時点でも変わらず、同年9月11日放送の『チマタの噺』に出演した際には2017年発売の『バイオハザード7』やそのVRプレイの面白さを力説し、MCの笑福亭鶴瓶を呆れされている[54]。
ハドソンのスーパーファミコン用ソフト『鮫亀』ではゲーム音楽とイメージソングの作曲を手掛けている。これは当時ハドソンの会長であった同社の創業者工藤裕司と加山が知り合いであり、加山が工藤に「いつかテレビゲームの音楽を作曲する機会があったら、俺もやってみたいな」と話したところ、工藤が子供から大人まで楽しめるゲームのほうが加山のイメージに合うだろうということで『鮫亀』を推薦したことが経緯である[55]。
ゲームをやりだしたきっかけとしては、老化防止になると友人から薦められたから、と語っている。2006年4月5日放送の『ウチくる!?』スペシャルに出演した際は『ファイナルファンタジー』について熱く語った。
また、ソフトは『バイオハザード』シリーズのみであるが、ニンテンドー ゲームキューブやWii、PlayStation 3、ニンテンドー3DS、PlayStation 4も所有している[56]。
同い年の鈴木史朗とは『バイオハザード』をプレイしているという共通点で交友がある[57][出典無効][58]。『バイオハザード リベレーションズ』においては発売日に朝日新聞にて鈴木と共に広告で競演[59]。ゲームスポットジャパンでは対談まで実現した[59][60]。
地井武男[注釈 4]が出演していたテレビ朝日『ちい散歩』を引き継ぎ、2012年5月7日から開始し2015年9月25日まで放送された『若大将のゆうゆう散歩』に出演していた。
2018年4月1日夜、静岡県賀茂郡西伊豆町の安良里(あらり)漁港に係留されていた3代目「光進丸」(104トン、全長25.59m)で火災が発生。当時加山はコンサートのため沖縄県に滞在しており船は無人であった[65][66][67][68]。3日午後、出火から約42時間後に鎮火したが[69]、4日午前、横に係留されていた作業船と一緒に横倒しになり、光進丸は大半が水没した[70]。9日に予定されていた加山の「ケネディハウス」での公演は開催が延期された[71]。火災の10日前の3月22日に、同船で最後となった写真が加山のアルバム『演歌の若大将〜Club光進丸』(6月27日発売)のために撮影されており、船内のバーで撮影された1枚がジャケット写真に使用されている[72]。4月17日、船体の引き揚げ作業が開始され[73]、18日午後、クレーン船上に引き揚げられた[74]。20日、出火原因調査のため清水港に運ばれ[75]、5月8日、静岡県警や下田消防本部、下田海上保安部により船体の実況見分が行われたが[76]、船の内部の焼損が激しく、出火原因の特定には至らなかった[77]。火災後に光進丸の模型が無断で製造・販売されていることに対し、5月28日、オフィシャルサイトで注意を呼びかける[78][79]。6月11日放送の『徹子の部屋』(テレビ朝日)に出演した際には、今回の火災が「人生のターニングポイント」だったと語り、また光進丸の引き揚げに携わったサルベージ船の名前が「幸神丸(こうしんまる)」であったこと、その偶然に驚くとともに「神様に抱かれて行ったんだ」という感慨を抱いたことを明かした[80]。6月16日、東京国際フォーラムで開催された第3回「ゴー!ゴー!若大将FESTIVAL」公演において、火災以来初めて、楽曲「光進丸」を公の場で歌った[81]。
加山雄三という芸名の由来は、「加賀(百万石)・(富士)山・英雄・小林一三」から一文字ずつ拝借したものと東宝のデビュー会見で報じられている。
しかし若大将シリーズの時期には大学時代の成績が可が山程あって優が3つしかなかったので「可山優三」をもじって命名したと揶揄された。慶應義塾大学では成績の評価は「優・良・可」法ではなく「A・B・C」法なのでその説に異を唱える向きもあった。
そして、これまで説明されて来た由来は作ったものであり、実際には加山の母方の祖母(江間光子、芸名青木しのぶ)が姓名判断で縁起のいい芸名をつけてもらったことを加山自身が著書で明らかにしている[89]。

上原謙 ┃岩倉具視━岩倉具定━岩倉具顕 ┣━━加山雄三 ┏池端信宏 ┃ ┃ ┃ ┃ ┣━━━小桜葉子 ┣━━━╋山下徹大 ┃ ┃ ┃ 江間俊一━青木しのぶ 松本めぐみ ┣梓真悠子 ┃ ┗池端えみ



| 年度 | 放送回 | 回 | 曲目 | 出演順 | 対戦相手 | 備考 |
|---|---|---|---|---|---|---|
| 1966年 | 第17回 | 初 | 君といつまでも | 15/25 | 吉永小百合 | |
| 1967年 | 第18回 | 2 | 別れたあの人 | 20/23 | 佐良直美 | |
| 1976年 | 第27回 | 3 | ぼくの妹に | 20/24 | 二葉百合子 | |
| 1977年 | 第28回 | 4 | もえる草原 | 13/24 | 山口百恵 | |
| 1978年 | 第29回 | 5 | 海 その愛 | 10/24 | 佐良直美(2) | |
| 1979年 | 第30回 | 6 | 旅人よ | 11/23 | サーカス | |
| 1980年 | 第31回 | 7 | 湯沢旅情 | 13/23 | 研ナオコ | |
| 1981年 | 第32回 | 8 | 若大将ヒット・メドレー[注釈 6] | 13/22 | 桜田淳子 | |
| 1982年 | 第33回 | 9 | 君といつまでも(3回目) | 09/22 | ロス・インディオス&シルヴィア | |
| 1986年 | 第37回 | 10 | 今は別れの時 | 13/20 | 松田聖子 | 白組司会 |
| 1987年 | 第38回 | 11 | 海 その愛(2回目) | 09/20 | 松田聖子(2) | 白組司会(2) |
| 1988年 | 第39回 | 12 | マイ・ウェイ | 13/21 | 佐藤しのぶ | 白組司会(3) |
| 1997年 | 第48回 | 13 | 若大将 '97スペシャル[注釈 7] | 20/25 | 森山良子 | |
| 1999年 | 第50回 | 14 | 君といつまでも(4回目) | 12/27 | Every Little Thing | |
| 2000年 | 第51回 | 15 | 海 その愛(3回目) | 14/28 | 香西かおり | |
| 2001年 | 第52回 | 16 | 旅人よ(2回目) | 13/27 | 小柳ゆき | |
| 2010年 | 第61回 | 17 | 若大将50年! スペシャルメドレー[注釈 8] | 16/22 | 和田アキ子 | |
| 2022年 | 第73回 | 18 | 海 その愛(4回目) | 特別企画 | なし |
| 曲目 | 初放送 | 再放送 |
|---|---|---|
| アッコちゃんの子守歌 | 1972年12月 - 1973年1月 | 2023年12月 - 2024年1月 |
| 旅立ち | 1985年8月 - 9月 | (なし) |
東芝音楽工業
ファンハウス
ドリーミュージック
東芝音楽工業
ファンハウス
ドリーミュージック
歌手への提供曲で最も有名なものは、自身が作曲し作詞の谷村新司とデュエットで歌唱した「サライ」。後に谷村がソロでセルフカバーしている。1976年にグラビアアイドルのアグネス・ラムの歌手デビュー曲として「雨上がりのダウンタウン」を制作して、ラムと共に音楽番組に出演した。また、天地真理の18枚目のシングルに「愛の渚」(作詞・岩谷時子)を提供。この曲は「お嫁においで」と同じ布陣で制作され、アンサーソングとして知られている。他に、1974年に小柳ルミ子にも海を主題にした曲を提供している。加山はモーツァルトのケッヘル番号にあやかって、作曲した曲にケッヘル番号と同じくKから始まる「Kナンバー」という作品番号を付けている。「Kナンバー」のKは加山もしくは厚作のイニシャルである。
なお、本家のケッヘル番号のように一度番号が付けられた後に楽曲が「発掘」されることなどがあり、また「加山雄三 with大友直人 シンフォニック・ガラ・コンサート」においてクラシックの殿堂である東京文化会館のステージに立つことに合わせて2006年に番号の整理が行われた。以下に記述した「Kナンバー」は2006年に再整理された番号である。
1998年には静岡県賀茂郡西伊豆町に「加山雄三ミュージアム」が開館した(堂ヶ島レジャーの運営で3階がミュージアム部分、1階と2階が売店とレストラン)[105]。3代目「光進丸」が同町の安良里(あらり)漁港に係留されていた縁による。映画「若大将」シリーズのポスターレプリカやCDジャケット、画家としての展示や趣味の鉄道模型コレクションを多数展示していた[105]。
しかし、体調不良などで同館でのイベントに参加できない状況が続いたことから本人の意向もあり、3階ミュージアム部分を閉館して施設名も変更されることになった(1階と2階のレストラン等の運営は継続)[105]。当初は2022年8月末をもって閉館する予定だったが[105]、6月に閉館となった[106]。改装後、2022年8月1日に加山雄三ミュージアムと同じ堂ヶ島レジャーの運営により「伊豆トリックアート迷宮館」がオープンしている[106]。
JR茅ケ崎駅南口から、父の上原謙の私邸(つまり加山雄三の実家)がかつてあった場所を経て国道134号に通ずる神奈川県道310号茅ヶ崎停車場茅ヶ崎線は、「上原謙通り」と名付けられ、後に「(加山)雄三通り」と改称されている。なお『加山雄三通り』という曲も作られ、概略ながらこの道順が歌われていた。
その「雄三通り」と鉄砲道が交錯する「東海岸会館前交差点」付近に加山が2020年にデビュー60周年を迎えたことを記念して、茅ヶ崎市の東海岸商店会が『海 その愛』の歌詞と若き日の加山の肖像が描かれたモニュメントを製作して2021年4月に設置した[107]。
また2007年4月29日には、モニュメントとして、茅ケ崎駅北口のペデストリアンデッキに本人の手形モニュメントと「海・その愛」という直筆レリーフが設置された[101]。
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