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前田重煕

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
前田重煕
時代江戸時代中期
生誕享保14年7月24日1729年8月18日
死没宝暦3年4月8日1753年5月10日
改名亀次郎(幼名)→利安(初名)→重煕
別名又左衛門(通称
戒名謙徳院殿緝甫尚古大居士
官位従五位下、但馬守、正四位下、加賀守、左近衛権中将
主君徳川家重
加賀藩
氏族前田氏
父母父:前田吉徳、母:民(鏑木氏・心鏡院)
養父:前田宗辰
兄弟宗辰、重熙利和重靖重教利実治脩、喜代(浅野宗恒正室)、総(前田利幸正室)、楊(佐竹義真正室)、暢(酒井忠宜正室)
婚約者松平頼恭の娘・長姫
養子:重靖
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前田 重煕(まえだ しげひろ)は、加賀藩の第7代藩主。加賀前田家8代。第5代藩主・前田吉徳の次男。母は側室の民(鏑木氏・心鏡院)。幼名は亀次郎、初名は利安(としやす)。婚約者に高松藩主・松平頼恭の娘・長姫。吉徳の息子で藩主についた5人(宗辰、重煕、重靖重教治脩)のうち2番目の藩主である。

来歴

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享保14年(1729年)、江戸で生まれる。寛保3年(1743年)1月27日、松平の名字を与えられ、松平亀次郎と称す[1]延享3年(1746年)、異母兄・宗辰が早世したために跡を継ぐ。のちに将軍・徳川家重より偏諱を授かって利安から重煕に改名する。官位は正四位下、加賀守、左近衛権中将[2]

その頃、加賀藩では重煕の父・吉徳の時代に厚い信任を受けて藩政改革を行なった大槻伝蔵が、吉徳の死で後ろ盾を失って失脚し、五箇山に流罪に処されていたが、この大槻の存在から加賀騒動延享5年(1748年)に発生した[3]。先代の宗辰の生母である浄珠院は重煕の養育係を務めていたが、浄珠院の毒殺未遂事件が起こる。この事件は、吉徳の側室真如院の指示によるものとされた。さらに調査するうちに、真如院が大槻と不義密通していたという疑惑に発展した。大槻は寛延元年(1748年)9月12日に配所にて自害した。いわゆる加賀騒動における事の真偽は定かではないが、この事件により加賀藩では混乱が続く。

宝暦3年(1753年)、重煕は25歳で死去する。跡は異母弟の重靖が継いだ。

系譜

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脚注

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  1. ^村川浩平「松平氏下賜の授受具体像と基本的性格」『日本近世武家政権論』189 - 190頁。
  2. ^『寛政重修諸家譜』、「前田氏」。
  3. ^『藩史大事典』、「加賀藩」。
加賀梅鉢紋加賀前田家第8代当主(1746年 - 1753年)
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加賀梅鉢加賀前田氏加賀藩第7代藩主 (1746年 - 1753年)
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