| 前田 多門 まえだ たもん | |
|---|---|
| 生年月日 | 1884年5月11日 |
| 出生地 | |
| 没年月日 | (1962-06-04)1962年6月4日(78歳没) |
| 出身校 | 東京帝国大学 |
| 内閣 | 東久邇宮内閣 幣原内閣 |
| 在任期間 | 1945年 -1946年 |
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前田 多門(まえだ たもん、1884年(明治17年)5月11日 -1962年(昭和37年)6月4日)は、日本の政治家・実業家・文筆家。位階は正三位。
大阪府出身。喜兵衛の長男[1]。立教中学、一高、東京帝国大学卒業後、内務省入省。1916年(大正5年)、後藤新平内務大臣の秘書官に起用され、後藤系の有力官僚となり、1920年(大正9年)、池田宏の後を継いで第2代の内務大臣官房都市計画課長となった[2]。後藤新平が東京市長に就任すると第1助役は永田秀次郎、第2助役は池田、第3助役は前田という後藤のいわゆる「畳」であり[3]、後藤自身および電気局長の長尾半平と合わせて「三田二平」と称された。
1925年(大正14年)3月、外務省の守屋栄夫とともに第7回国際労働会議の政府代表に選出。同年5月にジュネーブで開かれた会議に参加[4]、移民制限への反対を訴える演説を行った[5]。翌1926年(大正15年)に開かれた第8回、第9回の国際労働会議にも「国際労働理事会に於ける帝国政府代表」の肩書をもって出席した[6]。
1928年(昭和3年)「朝日新聞」論説委員。1938年退社後はニューヨークの日本文化会館館長に就任。1941年の開戦時には文化会館の閉鎖に奔走して引き揚げのタイミングを逸し、ニューヨークにとどまっていた[7]。帰国後の1943年新潟県知事など歴任。
1945年(昭和20年)2月24日、貴族院議員に勅選され[8](1946年(昭和21年)6月25日まで在任[9])、東久邇宮内閣の文相に就任、教育改革を推進した。幣原内閣でも留任したが戦時中の在任歴から公職追放の可能性があるとされたため、後継に安倍能成を指名して辞職した。1946年、東京通信工業(後のソニー)の初代社長に就任。
財団法人東京市政調査会、日本育英会、日本ユネスコ国内委員会、日本ILO協会各会長、公明選挙連盟理事長等を歴任。帝大在学中、新渡戸稲造に師事して、鶴見祐輔、田島道治、岩永裕吉とともに「新渡戸四天王」と呼ばれた。学外では内村鑑三の聖書研究会に入門、新渡戸と内村から多大なる影響を受ける。晩年に新渡戸と同じくクエーカーに入信。1962年死去。死没日付をもって従三位から正三位に進階した[10]。墓所は多磨霊園(16-1-3-7)。
| 公職 | ||
|---|---|---|
| 先代 (新設) | 1952年 - 1959年 | 次代 森戸辰男 |
| 先代 (新設) | 1952年 - 1956年 | 次代 高橋雄豺 |
| 先代 大内兵衛 | 1951年 - 1953年 | 次代 有田八郎 |
| 先代 若林良之 | 神奈川県三浦郡長 1912年 - 1913年 | 次代 北野右一 |
| 先代 西川泰彦 | 群馬県利根郡長 1910年 - 1912年 | 次代 木村二郎 |
| ビジネス | ||
| 先代 (新設) | 東京通信工業社長 初代:1946年 - 1950年 | 次代 井深大 |
| その他の役職 | ||
| 先代 児玉秀雄(→欠員) | 東京市政調査会会長 1951年 - 1962年 | 次代 田島道治 |
| 先代 (新設) | 公明選挙連盟理事長 1952年 - 1962年 | 次代 野村秀雄 |
| 先代 中山伊知郎 | 日本ILO協会会長 1957年 - 1962年 | 次代 川西実三 会長代行 |
| 先代 天野貞祐 大日本育英会会長 | 日本育英会会長 1953年 - 1956年 大日本育英会会長 1950年 - 1953年 | 次代 田中義男 |
| 先代 岡野保次郎 会長代行 | 日本ILO協会会長 1950年 - 1953年 | 次代 中山伊知郎 |
| 先代 松村謙三 | 勤労学徒援護会会長 1945年 - 1946年 | 次代 安倍能成 |
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