冒頓 単于(ぼくとつ ぜんう、拼音:Mòdú Chányú;注音:ㄇㄛˋ ㄉㄨˊ ㄔㄢˊ ㄩˊ、? -紀元前174年)は、秦末~前漢前期にかけての匈奴の単于(在位:紀元前209年 -紀元前174年)。父の頭曼単于を殺害して匈奴の君主に君臨し、モンゴル高原を中心として中央アジアにまで及ぶ広大な地域を支配下に収め、歴史上初の統一遊牧国家である匈奴帝国を築き上げた。
「冒頓」という名前には諸説あり、個人の名前であるとする他にテュルク語やモンゴル語における称号の一つで勇者や英雄を意味する「Baghadur(バガトル)」の漢字音写などの説がある。
匈奴は趙・燕などに進出して略奪を行う北方騎馬民族であり、二国にとって長年の悩みの種であった。二国は対策のために北境に馬が越えられない壁(長城)を築いており、紀元前221年に秦の始皇帝が中国を統一した後にそれらを連結させて万里の長城を築いた。また、紀元前215年に始皇帝は蒙恬に30万の大軍による匈奴討伐を命じ、匈奴は河南地(現在の内モンゴル自治区オルドス高原及び寧夏回族自治区北部一帯)から駆逐され、北に撃退された。蒙恬の威と北部の長大な防衛線によって匈奴の勢力は減衰し、同じく北方騎馬民族だが異なる部族である西の月氏、東の東胡に圧迫されるようになっていた。
冒頓は頭曼単于の子として生まれ、太子(後継者)に立てられていた。しかし、頭曼が寵愛する閼氏(単于の后妃)との間に末子が生まれると、頭曼は冒頓を廃してその末子を太子に立てようと考え、冒頓を月氏へ人質として送り込んだ。冒頓が月氏に到着してすぐ、頭曼は月氏に戦争を仕掛けた。嫡子を差し出したことで油断した隙を突くのに加え、冒頓が月氏の手で殺害されるのを見越してのことである。月氏は人質の冒頓を殺害しようとしたが、冒頓は月氏の良馬を盗み、それに乗って匈奴へと帰還した。頭曼は冒頓の勇猛果敢ぶりを評価し、1万の騎兵を与えた。
冒頓は鳴鏑と呼ばれる音響の生じる矢を作り、「鳴鏑が射た標的に射ない者は斬首する」と配下に命じた。
まず、冒頓は狩猟に出て配下を試し、鳴鏑の標的を射なかった者たちは即刻処刑した。次に冒頓は自らの愛馬に向かって鳴鏑を射たが、側近の中には躊躇って射たない者もおり、冒頓はその側近を即刻処刑した。しばらくして、冒頓は自分の愛妻に向かって鳴鏑を射たが、恐れて射たない者がいたため、やはり冒頓は即刻処刑した。さらにしばらくして、冒頓が父の愛馬に向かって鳴鏑を射ると、全員が続いて頭曼の愛馬に矢を射た。こうして冒頓は己に絶対服従する兵を作り上げた。
その後、冒頓は頭曼と共に狩猟に出た際、鳴鏑を頭曼に向かって射た。配下たちは全員それに続いて矢を放ち、頭曼を射殺した。そして冒頓は父の後母と異母弟や自分に従わない大臣たちを皆殺しにし、紀元前209年に自ら単于に即位した[1]。
冒頓が単于に即位した当時、東方の東胡は強大な勢力だった。彼らは冒頓が父を殺して自ら即位したことを聞き、使者を遣わして冒頓に「頭曼の千里馬が欲しい」と伝えさせた。冒頓が家臣たちに意見を求めると、家臣たちは皆、「千里馬は匈奴の宝です。渡すべきではありません」と答えたが、冒頓は「どうして隣国であるのに、一頭の馬を惜しむことがあろうか」と言い、千里馬を東胡に与えた。
東胡は冒頓が惰弱な君主であると判断すると、再び使者を遣わして単于の閼氏(后妃)の一人を要求した。冒頓が家臣たちに意見を求めると、臣下たちは皆怒り、「東胡は道理を弁えません。討伐を請います」と出兵を求めた。しかし、冒頓は「どうして隣国であるのに、一人の女性を惜しむことがあろうか」と言い、自分の愛する后妃を東胡に差し出した。
東胡王はますます驕り高ぶり、西へ進出して匈奴の地を侵略し始めた。当時、東胡と匈奴の間には誰も居住していない広大な土地があり、ここを緩衝地帯として双方は土地の両側に甌脱(哨所)を設置していた。東胡は使者を遣わし、冒頓に「匈奴と我々の境界にある甌脱以外の土地には、匈奴は近づいてはならない。我々がそれを領有する」と伝えさせた。冒頓が家臣たちに意見を求めると、遊牧民故に土地への執着が薄いこともあって臣下の中には「放棄された空地なので、与えてもよいし、与えなくてもよい」と言う者もいた。しかし、これに対して冒頓は激怒し、「土地こそは国の根幹である。どうしてこれを与えることができようか」と言い、東胡に土地を与えよと言った者を全員処刑した。そして冒頓は馬に飛び乗り、国中に「出遅れる者あらば斬首に処す」と号令を発して、自ら軍を率いて東胡に攻め込んだ。
東胡は先の件もあって完全に油断しており、その侵攻を全く防げなかった。冒頓は東胡を大いに破り、東胡王を滅ぼし、その民衆と畜産を略奪した。
冒頓は続けて他の部族に対しても積極的な攻勢を行い、西は月氏を駆逐し、南は楼煩、白羊河南王などの部族を併合した。秦末の時期、秦に名将蒙恬は既になく、黄河を渡って河南地を奪還することにも成功し、ついには燕や代の地域まで侵攻した。さらに北方の渾庚・屈射・丁零・鬲昆・薪犁などの諸国を征服した。一連の大征伐を経て、草原の諸民族で匈奴に臣従しない者はなく、匈奴の支配はゴビ砂漠の南北に渡った。匈奴の領域は非常に広大で、最東端は遼河流域に達し、最西端はパミール高原に至り、南は秦の長城に接し、北はバイカル湖一帯にまで及んだ。この時、冒頓の軍で弓を使える兵は30万以上に達していたという。冒頓は匈奴の最盛期を打ち立て、貴族や大臣たちは皆、冒頓に心服し、賢帝と崇めた。
当時、中国は秦の滅亡から楚漢戦争にかけての時期であり、北方を注視していなかったことも覇業を容易にした。しかしそれは、中国を統一した漢との決戦がいずれ行われることを示していた。
匈奴支配下の地域紀元前200年、40万の軍勢を率いて代を攻め、その首都・馬邑を包囲して代王・韓王信を投降させると、南下して太原を攻め、晋陽の城下にまで迫った。前漢皇帝・劉邦(高祖)が32万の親征軍を率いて討伐に赴いたが、冒頓は弱兵を前方に置いて、負けたふりをして後退を繰り返したので、漢軍は総勢で追撃していった。劉邦は軽騎兵の先鋒隊を率いて平城に到着したが、歩兵の本隊はまだ到着していなかった。冒頓はこの隙を突いて騎兵30万余りを繰り出し、少数の劉邦の軍を白登山で包囲した。匈奴の騎兵は、西方の部隊の馬は白色、東方は駹(青黒色)、北方は驪(純黒)、南方は騂(赤黄色)と、各方向の軍馬の毛色を統一しており、威容を誇っていた。
包囲は7日間に及び、漢軍は食糧の補給も全くできない窮地に陥ったため、陳平は策略を講じ、冒頓の閼氏に賄賂を贈り、「漢の領土を手に入れたとしても、単于が結局そこに住み続けることはできません」と冒頓に進言させた。冒頓は韓王信とその配下の王黄・趙利と合流の約束をしていたが、彼らの軍がいつまで経っても到着しなかったことも閼氏の意見を聞き入れる一因となり、包囲網の一角をあえて解いた。そこから劉邦が脱出に成功すると、冒頓は軍を引き揚げて去った。(白登山の戦い)。
戦役の後、韓王信は匈奴の将軍となり、配下の趙利や王黄らと共に代、雁門、雲中などの辺境を侵犯し略奪を繰り返した。紀元前197年には漢の重臣の陳豨が大規模な反乱を起こし、韓王信と結託して代を攻撃した。この陳豨の乱には匈奴の軍勢も反乱軍に加わった記録があるが、冒頓が直接軍を率いたとする記録はない。
その後、今度は燕王の盧綰が謀反を咎められ、その一派約1万人を率いて匈奴に亡命した。冒頓は盧綰を歓迎し、東胡盧王に封じた。
この時期、匈奴のもとには漢の将軍たちがたびたび大勢の兵を率いて投降した。この状況を大いに憂慮した劉邦は、劉敬の提案を採用し、匈奴との和親政策を実行に移した。具体的には「皇族の娘(公主)を閼氏として冒頓に献上する」、「毎年、決められた数量の絹織物、酒、食物などを匈奴に贈る」、「単于と皇帝は兄弟の関係を結ぶ」という屈辱的な条件で講和を結び、結果、冒頓の攻勢はようやく収束に向かった。後世、漢はこれを「平城之恥」とも呼び、匈奴が漢を属国扱いする時代は以降約70年ほど続くこととなる。
紀元前195年に劉邦が崩御すると、冒頓は皇太后・呂雉(呂后)に次のような内容の手紙を送った。
「孤独な君主である私は、沼地で生まれ、平野で牛馬と共に育ち、幾度も国境を訪れては、中国を見物したいと願っておりました。陛下はご夫君を失われ、私も妻を失って独り身です。両君主とも楽しみがなく、自らを慰める術もありません。それならば私の持っているものと、陛下の持っていないものを交換し合いませんか」
これは事実上の結婚の申し込みで、遊牧民の率直な風習とはいえ、漢の皇室に対しては最大級の侮辱であった。手紙を読んだ呂雉は激怒し、一時は開戦も辞さぬ勢いであったが、中郎将の季布の諌めにより、「私は年老いて気力も衰えています。どうか私のような者でお気を汚されませんように」と、婉曲に断る内容の手紙と車二両と馬八頭を贈った。この件では冒頓も呂雉に対し、「これまで中国の礼儀というものを存じ上げませんでした。陛下にお許しを賜り、誠に光栄に存じます」と非礼を詫びる手紙と返礼の馬を贈り、和親の関係を保った。
紀元前177年5月、匈奴の右賢王が条約を破って河南地に進入し、辺境の城塞を攻撃して略奪を働いた。これを受け、文帝は丞相の灌嬰に戦車と騎兵合わせて8万5千を率いさせ、右賢王を敗走させた。翌年、冒頓は漢に次のような手紙を送りつけた。以下、要約する。
「天が立てし匈奴の大単于は、謹んで皇帝のご無恙をお伺い申し上げる。先に皇帝が和親について言及され、手紙の内容は双方の意図が合致し、喜ばしいことであった。しかし、漢の辺境の官吏が右賢王を侵害し侮辱したため、右賢王は漢の官吏と対立し、両君主の約束を断ち切り、兄弟の契りを引き裂いてしまった。
取るに足らない官吏が和約を破ったことを受け、私は右賢王を罰し、西方の月氏を討伐させた。天の加護により、将兵は精強で、軍馬は強力であったため、見事に月氏を滅ぼし、反抗する者は全て殲滅し、降伏者を帰順させた。さらに楼蘭、烏孫、呼掲およびその周辺の二十六カ国は全て匈奴の臣民とした。諸々の弓を引く民は一つにまとまり、北方は既に平定された。
願わくば従来の盟約を回復して、辺境の民を安心させ、古来からの関係に立ち戻り、代々を通じて平和と安楽が続くことを願っている。皇帝がもし匈奴が近づくことを望まれないのであれば、私は直ちに官吏や民に命じて、遠く離れた地に居住するよう詔告しよう」
文帝はこの書簡を受け入れ、貢物を贈り、匈奴との和親条約の継続を承諾した。
この一連の流れは文帝期の漢と匈奴の関係を象徴している。冒頓の書簡は、軍事力による威圧と和平の申し出を組み合わせた巧みな外交文書であり、自らは盟約遵守の姿勢を見せつつ、全ての責任を漢の役人と自分の部下になすりつけることで、優位に立つ形で交渉している。漢は匈奴の圧倒的な軍事力を恐れ、また、匈奴の地に経済的価値を見出せないという現実的な理由から、侮辱的な要素を含む和親政策の継続を得策と判断せざるを得なかった。
冒頓は紀元前174年に在位35年にして崩御した。単于には子の稽粥が即位し、老上単于と号した。
その後も東アジア最大の国として君臨していたが、前漢王朝が安定し国が富むに至り、景帝の跡を継いだ前漢7代武帝は、冒頓がもたらした、匈奴による前漢への屈辱的状況を打破するため大規模な対匈奴戦争を開始する。しばらく一進一退が続いたものの、前漢の衛青と霍去病が匈奴に大勝し、結局、匈奴はより奥地へと追い払われ、約60年続いた隆盛も終わりを告げた。
ただそれまで部族単位での略奪と牧畜が産業だった遊牧民に、国家という概念と帝国型の社会システムを根付かせたことは大きく、後のモンゴル帝国(元)へとつながることになる。
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