内閣(ないかく、英語:Cabinet[1])は、日本の行政府。首長たる内閣総理大臣及びその他の国務大臣で組織される合議制の機関である(日本国憲法第66条第1項)。
内政では法律を執行して国務を総理し、公務員事務を掌握し、予算案を国会に提出し、政令の制定や恩赦の決定等を行う。外交では外交権を行使し、条約を締結する(憲法第73条)。
内閣の位置付けについては、日本国憲法第5章が規定している。
大日本帝国憲法は、天皇を国家元首としていたが、現行の日本国憲法には元首に関する規定はなく、内閣(または首相)を元首とする説など諸説がある[2]。
学説の大多数は、条約締結や外交使節任免および外交関係処理の権限をもつ内閣、もしくは行政権の首長として内閣を代表する内閣総理大臣を元首としている[3]。

内閣は、内閣総理大臣及びその他の国務大臣から組織される(日本国憲法第66条1項、内閣法2条1項)。
内閣総理大臣は、国会議員の中から国会の議決を経て指名され、天皇が任命する(日本国憲法第67条、日本国憲法第6条1項)。
国務大臣は、内閣総理大臣が任命して、天皇が認証する(日本国憲法第68条1項、日本国憲法第7条5号)。国務大臣として任命された者は、内閣総理大臣から具体的な担当事務について補職辞令がなされる(例:外務大臣を命ずる)。国務大臣の過半数は、国会議員の中から選任しなければならない(日本国憲法第68条1項)。内閣総理大臣は、任意に国務大臣を罷免することができる(日本国憲法第68条2項)。
国務大臣の数は、14人以内とされている(内閣法2条2項)。ただし、特別に必要がある場合においては、3人を限度にその数を増加し、17人以内とすることができる(同条項ただし書き)。
また、内閣法附則2項の規定により、復興庁が廃止されるまでの間は内閣法2条2項の「14人」は「15人」、「17人」は「18人」となり、同3項の規定により国際博覧会推進本部が置かれている間は2項の規定に関わらず内閣法2条2項の「14人」は「16人」、「17人」は「19人」ととなるため、期間によって国務大臣の数が増員されることがある。
なお、同4項により東京オリンピック競技大会・東京パラリンピック競技大会推進本部が置かれている間は2項・3項の規定に関わらず内閣法2条2項の「14人」は「17人」、「17人」は「20人」と規定されているが、令和三年東京オリンピック競技大会・東京パラリンピック競技大会特別措置法|東京オリンピック競技大会・東京パラリンピック競技大会推進本部は2022年3月31日限りで廃止されたのでこの規定による増員は現在行われていない。
国務大臣をもってあてられる職は、内閣法、国家行政組織法、その他個別の法律によるため、中央省庁の長であるからといって国務大臣であるとは限らない(例:金融庁長官、宮内庁長官、公正取引委員会委員長などは国務大臣ではない)。逆に、内閣府特命担当大臣・担当大臣のようなスタッフ的な閣僚も存在し、無任所大臣を設置することも認められている。

内閣を組織する(組閣)には以下の手順が踏まれる。
一般には組閣本部における人事選考は内閣総理大臣の任命前に行われる。つまり次期首相となる者は国会の指名を受けた者という資格において組閣の準備に取りかかることが一般的となっている[4]。
内閣総理大臣の任命によって従前の内閣はその地位を完全に失うことになるが(日本国憲法第71条)[5]、内閣は合議体であることを本質とすることから内閣総理大臣が一人で内閣を構成している状態は望ましくはなく、内閣総理大臣の任命の時期から他の国務大臣の任命・内閣の成立までは極めて短い期間であることが憲法上期待されていると解されるためである[4][5]。
実際には内閣総理大臣や内閣総理大臣周辺などから入閣予定者に対して、組閣当日は待機するように事前連絡があり、首班指名の後、内閣総理大臣官邸に組閣本部が設置されると、順次官邸に来るよう呼び出しの電話があることが多い。その後、与党による閣僚名簿の了承や、親任式・認証官任命式が併せて行われる。
内閣または大臣が人事案を作成して国会に人事要求書を提出する主な行政委員会とその役職は、次のとおりである。
このほか、国会承認手続が設けられておらず、大臣が委員を任命するのみの司法試験委員会などがある。

内閣がその職権を行使するのは、閣議によるものとされている(内閣法4条1項)。閣議は、内閣総理大臣が主宰し(同条2項)、内閣総理大臣はこの場において、内閣の重要政策に関する基本的な方針その他の案件を発議することもできる(同条)。また、各国務大臣は、案件の如何を問わず、内閣総理大臣に提出して、閣議を求めることができる(同条3項)。
内閣制度発足以来、閣議の議事録は作成されてこなかったが、2014年4月1日から議事録が作成され一部を除き公開されることとなった[6]。
内閣総理大臣は、閣議にかけて決定した方針に基いて、行政各部を指揮監督する(内閣法6条)。主任の大臣の間における権限についての疑義は、内閣総理大臣が、閣議にかけて裁定する(同法7条)。
国会で成立する法案の大半は閣法(内閣提出法律案、政府提出法案)であり、関係省庁がいわゆる「タコ部屋」と呼ばれる準備室を設置し、法案を作成する。
日本国憲法には内閣による法律の発案権について大日本帝国憲法第38条相当の規定がないため、学説上の対立が生じた[7]。政府は日本国憲法第72条「内閣総理大臣の議案提出権」を根拠として法律発案権を認め、内閣法第5条を規定した[7]。この解釈は通説の支持を得ているが、有力な異論も存在する[7]。
内閣制度発足時から内閣は内閣総理大臣の氏名をもとに◯◯内閣と称されている(例:福田康夫内閣、麻生内閣)。前職(あるいは元職)の内閣総理大臣が改めて内閣総理大臣に就任して組閣した場合には就任回数を追って第◯次◯◯内閣と称する(例:第2次安倍内閣)。
また、一般に内閣総理大臣はそのままに内閣改造が行われた場合には改造内閣と称して区別される(例:三木改造内閣)。2回以上内閣改造が行われた場合には第◯次改造内閣という(例:第2次池田第2次改造内閣)。
狭義の内閣の概念は「大臣の合議体」であるが、内閣には、内閣の事務を補助するために、いわゆる内閣補助部局が設置されている[8]。
内閣法に基づき内閣官房が設置されているほか、法律に基づき必要な機関を設置できることとなっている。内閣府、デジタル庁、内閣法制局、国家安全保障会議が各設置法に基づき内閣に設置されているほか、いくつかの本部や会議が法律に基づき内閣に設置されている。
復興庁についても、東日本大震災からの復興を目的として、復興庁設置法に基づき時限的に内閣に設置されている。これらの機関は、国家行政組織法における国の行政機関ではないものの、行政機関の保有する個人情報の保護に関する法律などで行政機関と定義されている。
このほか、人事院は、国家公務員法に基づき「内閣の所轄の下」に置かれている。なお、各省は、国家行政組織法に基づき内閣の統轄の下に行政事務をつかさどる機関として設置されるものであり、前述の内閣に設置される機関とは位置付けが異なる[8]。
2024年6月1日現在、法律に基づき内閣に設置されている機関は、下記のとおりである。
日本国憲法および内閣法施行前は、企画院、興亜院、情報局といった、いわゆる内閣直属の機関がいくつか設置されていた。
内閣法の下、法律に基づき内閣に設置された機関のうち、廃止された機関は下記のとおりである[注釈 1]。
2024年6月1日現在の日本の行政機関の組織図である。
明治維新後、古代の律令制を参考にして新たに設置された太政官を国政の最高機関とした太政官制がとられた。この期間の政府組織は、幾度も大きな改正が行われ、制度の模索が続いた。1873年(明治6年)の官制改革では、太政官正院に置かれた太政大臣と参議から構成される合議体である「内閣」が国政全般にわたる意思決定機関とされた(太政官内閣制)。ここでは、太政大臣と左右大臣のみが輔弼の責任を持ち、参議は輔弼を行わないとされた[9]。また、参議と各省大臣にあたる省卿が分離しているという問題に対しては、明治六年政変後に参議省卿兼任制を採用することで解決を図った。これらの改革は天皇に対する輔弼と執行の一体化を指向するもので、後の内閣制度につながるものであった。
1875年に「漸次立憲政体樹立の詔」が出され、さらに1881年(明治14年)10月12日に明治天皇が出した「国会開設の詔」の中で、1890年(明治23年)を期して「國會」(議会)の開設を目指すと表明した。政府の中心で立憲主義体制の整備を図っていた伊藤博文らは、太政官制に替わる新たな政府機構の策定に取り組んだ。しかし、伊藤が構想した省卿からなる内閣を組織することは実現せず、参事院が置かれた[10]。

1885年(明治18年)12月22日に、「太政官達第69号」が発せられ、太政官制を廃止して内閣総理大臣と各省大臣による内閣制が定められ、ここに内閣制度が始まった。内閣書記官長(現在の内閣官房長官)は、太政官内閣制の時期に非常設の官職として設置され、内閣制発足後も引き続き置かれた。
同日「内閣職権」が制定され、内閣の組織に宮内大臣は含まれなかった。この結果「宮中(宮廷)」と「府中(政府)」との区別が明確にされた。
初代の内閣総理大臣には、長州藩出身で参議であった伊藤博文が就任し、初代内閣である第1次伊藤内閣が成立した。内閣総理大臣は、1871年(明治4年)以来三条実美が務めてきた太政大臣とは異なり、公卿が就任するという慣例も適用されず、いかなる身分の出自の者であっても国政のトップを務めることが可能な点で、明治維新における一つの成果の完成をあらわしていた[11]。内閣制度はまた、各省大臣の権限を強大にし、諸省に割拠して力をつけつつあった専門的な官僚をコントロールできる、大臣レベルの指導者層の主導権を確立する上で大きな役割を担った[11]。
| 職名 | 氏名 | 備考 |
|---|---|---|
| 内閣総理大臣 | 伊藤博文 | 宮内大臣兼任[注釈 5]。 |
| 外務大臣 | 井上馨 | |
| 内務大臣 | 山縣有朋 | |
| 大蔵大臣 | 松方正義 | |
| 陸軍大臣 | 大山厳 | |
| 海軍大臣 | 西郷従道 | |
| 司法大臣 | 山田顕義 | |
| 文部大臣 | 森有礼 | |
| 農商務大臣 | 谷干城 | |
| 逓信大臣 | 榎本武揚 |
1889年(明治22年)2月11日に大日本帝国憲法(明治憲法)が発布され、同年12月24日には、「内閣職権」を改定する形で「内閣官制」が制定された。
明治憲法には内閣総理大臣や内閣に関する記述はなく、国務大臣について規定されているのみだった。同憲法第4章第55条には「国務各大臣ハ天皇ヲ輔弼シ其ノ責ニ任ス」、同条第2項には「凡テ法律勅令其ノ他国務ニ関ル詔勅ハ国務大臣ノ副署ヲ要ス」と記述されていた。同憲法下での内閣総理大臣や内閣は「内閣官制」を法的根拠として存在した。また明治憲法第4章第56条には「樞密顧問ハ樞密院官制ノ定ムル所ニ依リ天皇ノ諮詢ニ應ヘ重要ノ國務ヲ審議ス」と天皇が国務(国政)を枢密院へ諮問することが記述されていたため、国政の意思決定機関は「枢密院」であり、内閣はその認可をもって国政を遂行する機関として位置付けられていた。ただ、内閣を構成する各国務大臣は枢密院の顧問官の議席を有し表決に参加することが出来たため、全く別々の意思決定組織という形でもなかった。
法律上は、内閣総理大臣や国務大臣は帝国議会(下院:衆議院、上院:貴族院)に対して直接責任を負うことはなかった。また、内閣官制下の内閣の権限は内閣職権下の内閣よりも弱小化されており、内閣総理大臣は「各大臣ノ首班トシテ機務ヲ奏宣シ旨ヲ承ケテ行政各部ノ統一ヲ保持ス」(第2条)とのみ定められ、具体的な権限などは定められなかった。そのため、内閣総理大臣は、内閣の中で「同輩中の首席(Primus inter pares)(英語版)」としての地位を占めるに過ぎず、他の国務大臣罷免の権限がないため、いわゆる「閣内不統一」は直ちに内閣総辞職に結びついた。憲法上は各国務大臣はそれぞれ自身の任務について天皇に助言を行い、天皇が最終的に行政権を行うという建前であった[13]。
1907年(明治40年)には内閣官制が一部改正され、内閣総理大臣が閣令を制定する権限を定め、従来の国務大臣の単独副署を無くし、全ての勅令に内閣総理大臣との連署を定めるなど、行政府の長たる内閣総理大臣の権限強化が図られた。
内閣総理大臣は、天皇が任命したが(大命降下)、具体的な人選は天皇の諮問を受ける元老や重臣会議など憲法外の機関・人物の合議による場合が多かった。大正時代から昭和時代初期(いわゆる「大正デモクラシー」期)には、帝国議会下院の衆議院で最多議席を占める第一党の政党党首が内閣総理大臣に就任する「憲政の常道」と呼ばれる慣例が確立し、政党内閣時代とも呼ばれるが、元老が衆議院議員総選挙の結果を参照した結果、第一党党首を推挙したという形式は守られた。
また、組閣は、内閣総理大臣が国務大臣の候補を自由に人選し、天皇が任命することとなっていたが、明治の一時期と昭和初期から第二次世界大戦終戦までの間、軍部大臣(陸軍大臣及び海軍大臣)については現役の大将・中将をもって充てるという「軍部大臣現役武官制」が採用されていた。武官の階級や現役・退役・予備役の別は、軍部が独自に決めることとなっていたため、結局、軍部が推薦する人物を軍部大臣に充てるほかなく、内閣総理大臣の人選の範囲は限定されることになった。さらに、内閣が軍部の意に沿わない決定などを行った場合には、軍部大臣を退却させて代替の人物を送らず、ひいては内閣総辞職に至らせることも出来るため、軍部の意向が政権に与える影響は大きかった。
この他にも、大日本帝国陸軍・大日本帝国海軍は、軍政の面では国務大臣の下にあったものの、軍令の面では大元帥でもある天皇に専属する「統帥権」(明治憲法第11条)を直接補佐することとされ、軍部大臣や参謀総長(陸軍:参謀本部)・軍令部総長(海軍:軍令部)などには帷幄上奏の権限も与えられたため、陸軍省および海軍省を有する内閣は事実上、軍事に関する政策に関わることは難しかった。
なお、日本国憲法下の現在の防衛大臣(旧:防衛庁長官)については、自衛隊(陸上・海上・航空)の服務経験者(他国における退役軍人)は可能ではあっても、幹部クラス含む現役の自衛官ないし自衛隊員が就任することはなく、他の大臣と同様、日本国憲法第66条の規定により、文民統制(シビリアンコントロール)の観点から文民が任命されている。
1947年(昭和22年)に日本国憲法が施行され、第5章に「内閣」の規定を置き、「行政権は、内閣に属する。」(65条)と定めた。
内閣は、内閣総理大臣及びその他の国務大臣から組織され(66条1項)、行政権の行使について国会に対し連帯して責任を負うとされるなど(同条3項)、名実共に国の行政の中心的機関に位置づけられた。
また、内閣総理大臣(首相)は、国会議員(衆議院議員及び参議院議員)の中から国会(下院の衆議院及び上院の参議院、旧:貴族院)の議決で指名し、天皇が任命すると定め(67条、6条1項)、議院内閣制を採ることが明確にされた。
国務大臣は内閣総理大臣が任免して天皇が認証すると定め(68条、7条5号)、内閣総理大臣の行政各部に対する指揮監督権を定めるなど(72条)、内閣官制を廃止して新たに制定された内閣法とともに、内閣総理大臣を内閣の「首長」として(66条1項)、内閣と内閣総理大臣の権限強化が図られ、内閣総理大臣に強力な権限が与えられた。
内閣支持率は、内閣に対する国民の支持動向を示す重要な指標である。これは、報道機関や調査機関が定期的に実施する世論調査によって測定され、その結果は公表される[14][15]。支持率の変動は、政権運営や次期選挙の動向にも影響を与える要因となる。
近年の日本では、デジタル社会の形成が重要な政策課題となっている。これは、デジタル社会形成基本法(令和三年法律第三十五号)及びデジタル庁設置法(令和三年法律第三十六号)に基づいて内閣が主導する形で推進されている[16][17]。内閣には専任のデジタル大臣が置かれ、デジタル庁がその所掌事務を担うことで、行政の効率化や国民の利便性向上を目指す改革が進められている。
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