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内覧

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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(2023年8月)
ウィクショナリーこの項目では、日本朝廷における制度について記述しています。「内覧」の語義については、ウィクショナリーの「内覧」の項目をご覧ください。

内覧(ないらん)とは、日本の朝廷において天皇に奉る文書や、天皇が裁可する文書など一切を先に見る権限。また、その許可を受けた者の地位を指す。

概要

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藤原基経太政大臣として与えられ、後に関白の職務として定着した職権は、万政領行(すべての政を行う)・百官総己(すべての官人を統べる)・奏宣文書内覧の3つであった[1]。奏宣文書内覧は天皇に奏上される文書である「奏」と、天皇から命令される文書である「宣」のすべてを事前に見ることを指す大きな権限であり、これがいわゆる「内覧」の職権とされている。

九条兼実は「天皇が成人の際に、裁可される文書を先に見る臣」と定義しており、摂政より関白に近いものとしている[2]。常置ではなく、前任・現任を問わず中納言以上であれば、太政官の序列には従わずに任命された[3][4]。初例を除いて原則的には天皇の宣旨によって任命されたが、院政期には院宣によって命じられた後に宣旨を受けた例もある[5]

内覧は関白の権限の一部を持ち、その補任は将来的に摂関となることを前提とするものであったが[5]、平安時代末期以降は関白と併置されることもあり[5]安土桃山時代以降は摂関に対して別途内覧宣下が行われるようになっている[6]。内覧は関白と異なり官職化せず、天皇の私的諮詢機関的性格を持っていた[6]

歴史

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内覧補任は、寛平9年(897年)に宇多天皇醍醐天皇に譲位した際の詔書で、大納言藤原時平と権大納言菅原道真が任じられたことに始まる[2]。『日本紀略』や『菅家文草』によると、この際に時平と道真に与えられた権限は、醍醐天皇が幼少の間[注釈 1]、政務を補佐し、奏宣文書内覧を行うというものであった[2]

この後、天禄3年(972年)10月23日に摂政藤原伊尹が病で摂政を辞任し、10月27日に権中納言藤原兼通が内覧宣旨を受けたのが単独の内覧の初見である[8][注釈 2]。兼通はこの時太政官の席次では9番目であったが、この2年後の天延2年(974年)に関白に就任している[11]。また宣旨によればこれは伊尹が病で政務が執れない間という条件であったが、伊尹の没後にも継続して内覧を務めている[11]長徳元年(995年)には関白藤原道隆が病となり、息子の内大臣藤原伊周に関白を譲る意向を示した。しかし一条天皇によって「関白が病の間」の「内覧」と定められたため、道隆が没するとその任は停止されるという、臨時的な在任にすぎなかった[12][13]。その後道隆の弟道兼が関白となったがまもなく没し、道兼の弟藤原道長が内覧に任じられた。道長はこの時権大納言であり、摂関に就任にするための資格を欠いていたための内覧宣下であったとみられる[4]。その後、道長は三条天皇からの関白就任の要請を断り、改めて内覧の宣下を受けている[4]。道長はすでに左大臣であり、関白に就任する資格は充分であったため、この内覧宣下は道長の政治的意図によるものとみられている[4][注釈 3]

治暦3年12月5日(1068年1月12日)、関白藤原頼通の辞職が認められたが、後冷泉天皇は頼通の政治参加を強く望んでおり、「太政官の奏上一切をことごとく諮詢すべし」とする宣旨を受けた。これは前関白が内覧となることの初例である[4]

保安元年(1120年)11月12日、関白藤原忠実は関白の職掌の一部である内覧の権限のみを停止された。翌保安2年(1121年)1月17日に内覧権限は復旧されたが、5日後に忠実は関白を辞任しており、辞任を前提とした職権の復旧であるとみられる[4]天承2年(1132年)1月14日には、忠実に内覧が命じられた。しかしこの時には関白藤原忠通がおり、病でない関白と内覧が併存する初めての事態となった[12]。これは摂関の辞任が政治的に困難である状況で、摂関の権限を奪うための処置とみられており、後の藤原頼長九条兼実の内覧就任もこうした背景を持つ[15]

鎌倉時代には関白九条道家が辞任後内覧となっているが、これは息子の関白九条教家を後見する役割を持ったものであり、実質的には関白を上回る権力を持っていた[16]。その後、前関白が内覧宣下を受ける例が多く見られるが、これは摩擦を起こさず平和的に摂関を譲った者に対する優遇措置として用いられていた[16]仁治3年(1242年)には関白二条良実が内覧宣下を受けるという事態が発生している。これは前関白近衛兼経が関白辞任後にも内覧としての職務を行っていたため、政治的な均衡を取るための措置であったとみられるが、これ以降現任の摂関が別途内覧宣下を受けることがみられるようになり、天正13年(1585年)の二条昭実以降は摂関補任の日に内覧宣下を受けることが恒例となっていく[17]

建武の新政期には関白は置かれなかったが、前関白であった二条道平近衛経忠の二人が内覧に任じられ、後には鷹司冬教がこれに加わった[18]。また足利義満左大臣在任期間中[注釈 4]後円融上皇により「内覧」としての沙汰を行うように命じられており[19]、摂政二条良基も義満が内覧であると認識していた[20]。これは藤原氏以外の者が内覧となった例としては菅原道真以来400年ぶりの事態であるが、宣下日は不明である。

安土桃山時代には摂家の人物の処遇として内覧宣下が行われることもあった[21]豊臣秀次の切腹後、摂関が置かれない時期が5年ほど続くが、この時期には内覧も設置されていない[22]。また、摂関に就任できない人物の処遇として内覧を命じる事例もある。摂家にとって摂関に任じられない世代が現れれば、次の世代にも影響をおよぼすため、名目的に内覧宣下を受けることで摂関に就任したと同じ意味合いをもたせる目的があった。この名目的な内覧の最たる例が一条内実であり、内実は内覧宣下を受けた当日に死亡している[23]

江戸時代には禁中並公家諸法度によって摂関の任免には江戸幕府の同意が必要であったが、内覧の任免については幕府の命令は及ばなかった。このため孝明天皇は自らの信任する人物に影響力を持たせるために内覧宣下や内覧職権停止を行っている[6]

最期の内覧補任は文久3年(1863年)の八月十八日の政変後の9月19日に、右大臣二条斉敬が補任されたものである[5]。斉敬はその後摂政となったが、慶応3年12月9日(1868年1月3日)の王政復古の大号令により摂関が廃止され、斉敬が内覧も合わせて辞したことで、内覧制度は消滅した[5]


内覧一覧

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以下の一覧は、米田雄介が『公卿補任』と『諸家伝』に基づき、諸家の記録及び壬生家本「関白宣下一会」「内覧宣下一会」を参考に作成した表[24]を基としている。叙任の日付は旧暦

人名画像・花押任命時の官職年月日任命時の摂関備考
平安時代
藤原時平
大納言寛平9年(897年7月3日不在宇多天皇の譲位の詔により、新帝である醍醐天皇の内覧となった。
菅原道真
権大納言
藤原兼通権中納言天禄3年(972年10月27日同月23日、藤原伊尹摂政を辞任した。
藤原伊周
内大臣長徳1年(995年3月29日関白藤原道隆伊周は道隆の嫡男であり、この時道隆の病により内覧に任命された。
藤原道長
権大納言長徳1年(995年)5月11日不在同年4月10日、藤原道隆が病により薨去した。
左大臣寛弘8年(1011年8月23日道長は一条天皇の内覧であったが、三条天皇践祚に伴い、再び内覧に任命された。
藤原頼通
前関白治暦3年(1067年12月5日頼通はこの日に関白を辞任し、後冷泉天皇の勅旨により内覧に補任された。
藤原師実
左大臣承保2年(1075年9月26日同月25日、師実の叔父である関白・藤原教通が薨去した。
藤原忠実
権大納言康和1年(1099年8月28日同年6月28日、忠実の父である関白・藤原師通が薨去した。
関白保安2年(1121年1月17日本人忠実は関白在職中、関白の権限の一つである内覧を一時停止されていたが、この日を以てその権が回復された。
藤原忠通
内大臣保安2年(1121年)1月22日不在この日、忠通の父である藤原忠実はに関白を辞任した。
藤原忠実
前関白天承2年(1132年1月14日関白・藤原忠通父子二人相並びに内覧となる。
藤原頼長
左大臣久安7年(1151年1月10日兄弟二人相並びに内覧となる。
鎌倉時代
九条兼実
右大臣文治1年(1185年12月28日摂政・近衛基通兼実は基通の叔父である。
九条良経
九条良経.png
九条良経.png
左大臣建仁2年(1202年11月27日この日、基通の藤氏長者を止む。
九条道家
前関白寛喜3年(1231年7月5日関白・九条教実父子二人相並びに内覧となる。
近衛兼経
仁治3年(1242年3月25日関白・二条良実兼経は良実の姉婿である。
二条良実
関白本人良実は、藤原忠実が関白在職中に内覧の権を一時失ったケースとは異なり、関白在職のまま兼経とともに内覧となる。
前関白文永2年(1265年7月16日関白・一条実経良実は実経の同母兄である。
文永4年(1267年)12月9日関白・近衛基平
近衛基平
関白本人基平は関白・氏長者となった同日、内覧に任命された。
鷹司兼平
前関白文永5年(1268年12月29日関白・鷹司基忠父子二人相並びに内覧となる。
摂政建治1年(1275年10月21日本人兼平は摂政・氏長者となった同日、内覧に任命された。
前関白正応2年(1289年6月1日関白・近衛家基兼平は家基の大叔父であり、かつ家基の岳父でもある。
近衛家基
関白正応6年(1293年2月25日本人家基が関白在職中に内覧を任命された。
鷹司基忠
前関白永仁4年(1296年)某月某日関白・鷹司兼忠兄弟二人相並びに内覧となる。
正安2年(1300年7月10日摂政・二条兼基この時、兼基はなお後伏見天皇の摂政であったが、同年12月16日に関白に転じ、准摂政を兼ねることとなった。
一条内実
内大臣嘉元2年(1304年12月17日関白・二条兼基内実は病危篤により内覧に任命され、同日に薨去した。
鷹司基忠
前関白延慶1年(1308年12月14日摂政・鷹司冬平父子二人相並びに内覧となる。この時の摂政・冬平は、名目上は兼忠の子であったが、実際には基忠の子であった。
二条道平
関白正和5年(1316年8月23日本人
一条内経
文保2年(1318年12月29日
九条房実
元亨3年(1323年3月29日
二条道平
前関白元亨3年(1323年)10月5日関白・九条房実
鷹司冬平
元亨3年(1323年)11月9日
関白正中1年(1324年)12月29日本人
二条道平
嘉暦2年(1327年2月12日
前関白元徳2年(1330年1月26日関白・近衛経忠
近衛経忠関白本人
前関白元徳2年(1330年)8月25日関白・鷹司冬教
鷹司冬教
関白本人
建武政府
二条道平
左大臣元弘3年(1333年)某月某日不在建武の新政期には、関白を置かず、延喜の佳例に倣って複数の内覧を設置した。
近衛経忠前関白
右大臣建武1年(1334年2月22日
前右大臣建武1年(1334年)10月9日この時、二条道平・近衛経忠・鷹司冬教の三人が並んで内覧となった。
鷹司冬教
右大臣
前左大臣建武2年(1335年12月3日
室町時代
近衛基嗣
前関白建武5年(1338年5月19日関白・一条経通
二条良基
延文3年(1358年12月29日関白・九条経教
九条経教関白本人
近衛道嗣
康安1年(1361年11月9日
二条良基
貞治2年(1363年6月27日
前関白貞治6年(1367年8月27日関白・鷹司冬通
二条師良
関白応安2年(1369年11月4日本人
近衛道嗣
前関白応安4年(1371年)閏3月29日関白・二条師良
九条忠基関白永和1年(1375年12月27日本人
二条良基
前関白至徳4年(1387年2月7日摂政・近衛兼嗣
二条師嗣
応永1年(1394年11月6日関白・一条経嗣
近衛忠嗣応永18年(1411年12月25日
九条満教
応永31年(1424年4月20日関白・二条持基
二条持基
前摂政永享4年(1432年8月18日摂政・一条兼良
一条兼良
摂政永享4年(1432年)10月20日本人
二条持通
前関白享徳3年(1454年6月30日関白・鷹司房平
長禄3年(1459年1月16日関白・一条教房
応仁1年(1467年5月10日関白・一条兼良
二条政嗣
文明8年(1476年5月16日関白・九条政基
鷹司政平左大臣文明10年(1478年6月3日
九条政基
前関白文明11年(1479年2月30日関白・近衛政家
近衛政家
関白本人
前関白文明15年(1483年2月25日関白・鷹司政平
九条政忠関白文明19年(1487年2月9日本人
一条冬良
前関白明応2年(1493年3月28日関白・近衛尚通
近衛尚通
関白本人
前関白明応6年(1497年6月7日不在この日、尚通が関白を辞任した。
二条尚基
関白明応6年(1497年)6月18日本人
九条尚経文亀1年(1501年6月29日
近衛尚通
永正10年(1513年10月7日
前関白永正11年(1514年8月29日関白・鷹司兼輔
近衛稙家
関白大永5年(1525年4月5日本人
二条尹房
前関白大永5年(1525年)6月28日関白・近衛稙家
近衛稙家
左大臣・前関白天文4年(1535年12月4日関白・二条尹房この日、稙家は准三后となった。
一条房通右大臣天文11年(1542年3月12日不在同年2月25日、近衛稙家が関白を辞任した。
鷹司忠冬関白天文11年(1542年)3月26日本人この日、左大臣忠冬に関白、内覧・兵仗・氏長者・牛車一座等の宣下あり。
一条房通前関白天文17年(1548年12月27日関白・二条晴良
二条晴良
関白本人
前関白天文22年(1553年1月22日関白・一条兼冬
一条兼冬関白本人
二条晴良
永禄11年(1568年12月16日
織田政権期
九条兼孝
左大臣天正5年(1577年11月19日関白・二条晴良
関白天正6年(1578年12月13日本人
前関白天正9年(1581年4月29日関白・一条内基
二条昭実
関白天正13年(1585年2月12日本人
豊臣政権期
藤原秀吉
関白天正13年(1585年)7月11日本人
豊臣秀次
天正19年(1591年12月28日
江戸時代
九条兼孝
関白慶長5年(1600年12月19日本人
近衛信尹
慶長10年(1605年7月23日
鷹司信房
慶長11年(1606年11月11日
九条忠栄慶長13年(1608年12月26日
鷹司信尚慶長17年(1612年7月25日
二条昭実
元和1年(1615年7月28日
九条忠栄元和5年(1619年9月14日
近衛信尋
元和9年(1623年8月16日
一条兼遐
寛永6年(1629年8月29日
摂政寛永6年(1629年)11月8日
二条康道
寛永12年(1635年10月10日
九条道房
正保4年(1647年1月5日
近衛尚嗣右大臣正保4年(1647年)1月15日不在同月10日、九条道房が関白・左大臣の両職を辞任した。
一条昭良
摂政正保4年(1647年)3月28日本人一条兼遐は寛永13年(1636年9月8日、昭良と改名した。
近衛尚嗣関白慶安4年(1651年12月8日
二条光平
承応2年(1653年9月21日
鷹司房輔摂政寛文4年(1664年9月27日
関白寛文8年(1668年3月16日
一条冬経天和2年(1682年2月24日
摂政貞享4年(1687年3月21日
近衛基熈
関白元禄3年(1690年1月13日
鷹司兼熈元禄16年(1703年1月14日
近衛家熈
宝永4年(1707年11月27日
九条輔実摂政正徳2年(1712年8月28日
二条綱平
関白享保7年(1723年1月13日
近衛家久享保11年(1726年6月1日
前関白元文1年(1736年8月27日関白・二条吉忠
二条吉忠
関白本人
一条兼香右大臣元文2年(1737年8月18日不在同月3日、二条吉忠が関白・左大臣の両職を辞任した。
一条道香元文4年(1739年5月19日関白・一条兼香
近衛内前関白宝暦7年(1757年3月16日本人
九条尚実安永7年(1778年2月8日
鷹司輔平天明7年(1787年3月1日
一条輝良寛政3年(1791年8月20日
鷹司政熈左大臣寛政7年(1795年10月14日不在同日、一条輝良が関白を辞任し、政熈に外記方内覧宣旨あり。
一条忠良
関白文化11年(1814年9月16日本人
鷹司政通
文政6年(1823年3月19日
前関白安政3年(1856年8月8日関白・九条尚忠
九条尚忠
関白本人
近衛忠熈
左大臣安政5年(1858年9月4日関白・九条尚忠尚忠の内覧を一時停止し、忠熙を新たな内覧に任命した。
九条尚忠
関白安政5年(1858年)10月19日本人忠熙の内覧を停止し、尚忠の内覧を復活させた。
近衛忠熈
文久2年(1862年6月23日
前関白文久3年(1863年1月23日関白・鷹司輔熈
鷹司輔熈関白本人
二条斉敬
右大臣文久3年(1863年)9月19日関白・鷹司輔熈慶応3年(1867年12月8日、内覧は廃止される。

脚注

[編集]
[脚注の使い方]

注釈

[編集]
  1. ^醍醐天皇は13歳であったが、践祚の日に元服しており、成人という扱いであった[7]
  2. ^ただし、兼通への内覧宣下を関白就任とする説もある。内覧宣下が行われたという記述は『愚管抄』にもみられるが、室町時代初期に成立した『河海抄』以外には日付等の明確な記録はない[9]山中裕は「なお疑問」があるとしている[10]
  3. ^道長が関白就任を望まなかったのは、公卿中の最上席である一上である地位を優先したものとみられている[14]
  4. ^永徳2年(1382年)から明徳4年(1393年)まで

出典

[編集]
  1. ^米田雄介 1983, p. 25.
  2. ^abc米田雄介 1983, p. 23.
  3. ^米田雄介 1983, p. 29.
  4. ^abcdef米田雄介 1983, p. 27.
  5. ^abcde米田雄介 1983, p. 41.
  6. ^abc米田雄介 1983, p. 40-41.
  7. ^米田雄介 1983, p. 24.
  8. ^米田雄介 1983, p. 43.
  9. ^山中裕 1995, p. 29.
  10. ^山中裕 1995, p. 37.
  11. ^ab米田雄介 1983, p. 26.
  12. ^ab米田雄介 1983, p. 28.
  13. ^山中裕 1995, p. 30.
  14. ^山中裕 1995, p. 35-37.
  15. ^米田雄介 1983, p. 34-35.
  16. ^ab米田雄介 1983, p. 37.
  17. ^米田雄介 1983, p. 38.
  18. ^米田雄介 1983, p. 33-34.
  19. ^家永遵嗣 2013, p. 58-59.
  20. ^家永遵嗣 2013, p. 59.
  21. ^米田雄介 1983, p. 35-36.
  22. ^米田雄介 1983, p. 39.
  23. ^米田雄介 1983, p. 35.
  24. ^米田雄介 1983, p. 43-47.

参考文献

[編集]
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