| 内海 忠勝 うつみ ただかつ | |
|---|---|
| 生年月日 | 1843年9月12日 (天保14年8月19日) |
| 出生地 | |
| 没年月日 | (1905-01-20)1905年1月20日(61歳没) |
| 死没地 | |
| 称号 | 従二位 勲一等 男爵 |
| 内閣 | 第1次桂内閣 |
| 在任期間 | 1901年6月2日 -1903年7月15日 |
| 在任期間 | 1899年11月29日 -1900年3月19日 1904年7月10日 - 1905年1月20日 |
| 在任期間 | 1900年3月19日 - 1901年6月2日 |
| 天皇 | 明治天皇 |
その他の職歴 | |
| 官選 第8代京都府知事 (1897年11月 - 1900年3月) | |
| 官選 第8代大阪府知事 (1895年10月10日 - 1897年11月13日) | |
| 官選 第3代神奈川県知事 (1891年4月9日 -1893年3月10日) | |
| 官選 第2代長野県知事 (1889年12月26日 - 1891年4月9日) | |
| 官選 第9代兵庫県令・兵庫県知事 (1885年4月18日 - 1889年12月26日) | |
| 官選 第2代三重県令 (1884年7月10日 - 1885年4月18日) | |
| 官選 第6代長崎県令 (1877年10月11日 -1883年3月8日) | |
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内海 忠勝(うつみ ただかつ、1843年9月12日〈天保14年8月19日〉-1905年〈明治38年〉1月20日[1])は、日本の武士、官僚、政治家。内務大臣(第16代)、長崎県令、三重県令、兵庫県知事(第9代)、長野県知事(第2代)、神奈川県知事(第3代)、大阪府知事(第8代)、京都府知事(第8代)、会計検査院長、貴族院議員などを歴任。吉田治助の四男。長州藩士である。従三位勲三等、死後に従二位勲一等旭日大綬章。男爵。
周防国吉敷郡吉敷村(現在の山口県山口市)出身。長州藩士として禁門の変に参加。維新後新政府に登用され、岩倉使節団に大使随行員として参加。地方官として長崎、三重、兵庫、長野、神奈川、大阪、京都の各県令・知事を歴任。1901年(明治34年)、第1次桂内閣で内務大臣に就任し初入閣を果たした。
1899年(明治32年)11月29日、貴族院議員に勅選され[2]、1900年(明治33年)3月19日まで在任[2]。同年5月9日、男爵を授けられ華族に列せられる。1904年(明治37年)7月10日、貴族院男爵議員に就任し[3]、死去するまで在任した[1][4]。
山口市に「内海忠勝顕彰碑」が建立されている。
| 受章年 | 略綬 | 勲章名 | 備考 |
|---|---|---|---|
| 1885年(明治18年)4月7日 | 勲六等単光旭日章[11] | ||
| 1888年(明治21年)5月29日 | 勲五等双光旭日章[12] | ||
| 1889年(明治22年)11月25日 | 大日本帝国憲法発布記念章[13] | ||
| 1900年(明治33年)12月20日 | 勲二等瑞宝章[14] | ||
| 1902年(明治35年)2月27日 | 勲一等旭日大綬章[15] |
| 受章年 | 国籍 | 略綬 | 勲章名 | 備考 |
|---|---|---|---|---|
| 1891年(明治24年)12月18日 | 王冠第一等勲章[16] |
| 公職 | ||
|---|---|---|
| 先代 末松謙澄 | 第20代:1901 - 1903 | 次代 児玉源太郎 |
| 先代 山田信道 | 第5代:1900 - 1901 | 次代 田尻稲次郎 |
| 日本の爵位 | ||
| 先代 叙爵 | 男爵 内海(忠勝)家初代 1900年 - 1905年 | 次代 内海勝二 |
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