内務班(ないむはん)は、軍隊の営内居住者のうち軍曹以下の下士官及び兵を以て組織された居住単位である。
大日本帝国陸軍の中隊等に平時において置かれた組織で、兵舎の中で下士官兵(明治・大正・昭和初期までは「下士卒」と呼んだ)が生活をする場合の最小単位であった。
将校及び古参曹長以上の下士官は営外居住で、兵営の外の自宅(外地では官舎もあり、また入居者が維持する若年幹部用の寮もあった。
長方形の兵舎の真ん中には、長辺の左右方向に貫通廊下があり、廊下の両側に壁で仕切った居住用の部屋があって、廊下を挟んで対面する2部屋[1]が1内務班となっていた。
内務班に於ける行動規範は、歩兵内務書(1872年、後に軍隊内務書(1888年)、軍隊内務令(1943年)と改められる)で決まっていた。最後の軍隊内務令では17章362条にわたって様々なことが事細かに規定されていた。内務書が詳細になったのは日露戦争後である。この頃から兵営を家父長制の家庭とみなして入隊者を教育しようとする意図が出てきたとみられる。
新兵の躾教育は、この内務班で行われた。官民離間(軍隊を嫌がる)の元凶だとして東条英機が私的制裁を禁じても、朝礼で中隊長が制裁の根絶を説いても無くならなかった[2]、私的制裁の無い班があった、指揮系統である階級に依らず指揮権に弊害でしかない年次に依った[3]、敗戦後の収容所でも別の形で暴力支配が行われた[4]、この時も将校には暴力支配が無かった、加虐嗜好が個人に見い出される場合がある[5](この点は将校も同じ)等から、新兵教育を理由とすることに疑問がある。軍人精神の涵養を理由に暴力が正当化されたと、山本七平はみる[6]。
現在の自衛隊にも内務班に似た組織が置かれており、海上自衛隊、航空自衛隊では旧日本軍と同じ内務班という名称が引き継がれ、陸上自衛隊では営内班と呼ばれている。基地(駐屯地)の敷地内に所在し、主に独身の若い士、曹、若しくは単身赴任者が居住している。陸上自衛隊では陸上自衛隊服務規則[7]、航空自衛隊では航空自衛隊基地服務規則[8]の規定に基づき設置されている。
自衛隊法・自衛隊法施行規則の規定により、曹長以下の自衛官は部隊長等が指定する場所である居住区(営内隊舎)に居住する義務を有する[9][10]が、自衛官の居住場所に関する訓令の規定により、自衛官で部隊等に営舎がない・不足している場合は営舎外居住となるほか、以下の条件のいずれかを満たす者は、営舎外居住を申請することができる[11]。
自衛隊隊舎整備基準により広さ・定員等が定められている[12]。令和6年4月23日以降に設計を開始するもの[13]は、原則として個室として整備し、それ以前に設計された既存の居室については間仕切りによりプライバシーの確保を図るとしている[14]。
内務班(営内班)員が基地(駐屯地)の外に出ることを「外出」と呼ぶ。外出には外出許可権者の許可が必要である。海上自衛隊では艦艇勤務に従事している隊員が多く、陸上勤務の隊員を除き、そもそも外出という概念が存在しない。艦艇勤務の隊員は「外出」に相当する言葉として「上陸」という言葉を用いる。
陸上自衛隊服務規則[7]により定められている。
海上自衛官の上陸等に関する達[15]および海上自衛官の上陸等に関する達の改正の趣旨及び運用上の留意事項について(通達)[16]により定められている。
航空自衛隊基地服務規則[8]により定められている。
指定場所生活調整金として、営舎・船舶内に居住する自衛官を対象に、採用された日から1年経過するごとに20万円、最大6年間で120万円が支給される[17][18][19]。