公職追放(こうしょくついほう)は、政府の要職や民間企業の要職につくことを禁止すること。狭義には、日本が第二次世界大戦に降伏後、連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ) の指令により、特定の関係者が公職に就くことを禁止された占領政策をいう。
日本政府が1945年(昭和20年)9月2日に「日本国民を欺いて世界征服に乗り出す過ちを犯させた勢力を永久に除去する」とあるポツダム宣言第6項の宣言の条項の誠実な履行等を定めた降伏文書に調印し、同年9月22日にアメリカ政府が「降伏後におけるアメリカの初期対日方針」を発表し、第一部「究極の目的」を達成するための主要な手段の一つとして「軍国主義者の権力と軍国主義の影響力は日本の政治・経済及び社会生活により一掃されなければならない」とし、第三部「政治」と第四部「経済」の中でそれぞれ「軍国主義的又は極端な国家主義的指導者の追放」を規定していた。
同年10月4日のGHQの「政治的、公民的及び宗教的自由に対する制限の撤廃に関する覚書」で警察首脳陣と特高警察官吏の追放を指令し、同年10月22日の「日本の教育制度の行政に関する覚書」及び同年10月30日の「教職員の調査、精選、資格決定に関する覚書」で軍国主義的又は極端な国家主義的な教職員の追放を指令した。昭和20年勅令第五百四十二号「ポツダム宣言受諾に伴い発する命令に関する件」に基づく「教職員の除去、就職禁止等に関する政令」の規定による審査は以下の判定標準によって行われた[1]。
1946年(昭和21年)1月4日附連合国最高司令官覚書「公務従事に適しない者の公職からの除去に関する件」により、以下の「公職に適せざる者」を追放することとなった。下記の7分類でありA項からG項まであった[3]。
公職追放指令を作成したのはGHQ民政局のチャールズ・ルイス・ケーディスと民政局員でドイツ占領にも関わったニューヨークの弁護士S・バイア―とハワイの弁護士M・グッドシルであった[4]。そこでは「好ましくない淘汰されるべき日本人」が具体的に七項目に分類されていた(上記A~G)[4]。G項目に関しては解釈次第でどのようにも決定できたことから、民政局政党課が大きな権限を持つことになったが[5]、当時、民政局の動向を調査していた参謀2部の報告書によれば、この公職追放に携わったベアテ・シロタは、日本の警察及び官僚に対する憎悪という個人的な感情に基づいてアメリカ合衆国や最高司令官の威光を使用しており、このような人物が公職追放に携わったことは問題があったとしている[6]。
公職追放の対象は軍人や公職にあった者のみならず、政界、財界、マスコミ界、教育界、町内会、部落会にまで及ぶ日本史上空前の大粛清であったという[7]。追放政策を発令したのはGHQ民政局であったが、追放指令については日本国民に対し口外してはならぬという箝口令が敷かれ、日本側との折衝はケーディスらが行った[8]。日本国内の共産党員やその同調者、左派集団も民政局に日本の指導者層の「清掃」を盛んに進言しており、野中参三も民政局を頻繁に訪れており、共産党中央委員志賀義雄も情報提供者だったという[9]。また片山哲社会党委員長やのちに民社党初代委員長になる西尾末広や日本共産党幹部らも民政局政党課に出入りするようになっていった[10]。
上記の連合国最高司令官覚書を受け、同年に「就職禁止、退官、退職等ニ関スル件」(公職追放令、昭和21年勅令第109号)が勅令形式で公布・施行され、戦争犯罪人、戦争協力者、大日本武徳会、大政翼賛会、護国同志会関係者がその職場を追われた。
解散中の衆議院議員466名のうち381名が追放され、次期立候補も禁止され、貴族院807名は罷免された[11]。反軍演説で有名な斎藤隆夫元代議士も1946年2月21日に民政局に呼び出され聞き取り調査を行われている[11]。斎藤自身は対象とはならなかったが、彼の創設した進歩党の公認候補270名のうち約90%が公職追放とされた[12]。
1947年1月4日には「公職に関する就職禁止、退職等に関する勅令」の改正(昭和22年勅令第1号)、公職追放令施行命令の改正(同年閣令第1号)により公職の範囲が広げられ、戦前・戦中の有力企業や軍需産業、思想団体の幹部、多額寄付者なども対象になった[13]。その結果、1948年5月までに20万人以上が追放される結果となった。
公職追放者は公職追放令の条項を遵守しているかどうかを確かめるために動静について政府から観察されていた。これは当初のアメリカの日本の戦後処分の方針であるハード・ピース路線として行われた。
一方、異議申立に対処するために1947年3月に公職資格訴願審査委員会が設置され(第1次訴願委員会)、1948年5月委員会が廃止されるまでの間に1,471件の訴願が取り扱われ、楢橋渡、保利茂、棚橋小虎ら148名の追放処分取消と犬養健ら4名の追放解除が認められた。
公職追放によって政財界の重鎮が急遽引退し、中堅層に代替わりすること(当時、三等重役と呼ばれた)によって日本の中枢部が一気に若返った[注釈 1]。
1946年4月10日に旧政治家を粛清した後に衆議院総選挙が行われたために全議席の80%が新人議員となったが、民政局の公職追放の恩恵を受けて議席を得ていたため新憲法に反対するものはいなかった。また、生き残っていた議員達も公職追放を恐れて民政局に反対するものはいなかった[14]。
逆に、官僚に対する追放は不徹底で、裁判官などは旧来の保守人脈がかなりの程度温存され[注釈 2]、特別高等警察の場合も、多くは公安警察として程なく復帰した。また、政治家は衆議院議員の8割が追放されたが、世襲候補[注釈 3]や秘書など身内を身代わりで擁立し、保守勢力の議席を守ったケースも多い。
GHQ下で長期政権を務めた吉田内閣時代は、名目は別にして実質としては吉田茂首相とソリが合わなかったために公職追放になったと思われた事例について、公職追放の該当理由がA項からG項までに区分されていたことになぞらえ、吉田のイニシャルをとってY項パージと揶揄された。
公職追放は戦争犯罪人の処罰と異なり、物故者に対しても行われた(例、東方会総裁中野正剛、1943年死去、追放時期は不明、1951年追放解除[15])。
1946年6月20日にはGHQ民政局のケーディスは木村内務大臣に町内会、部落会、隣組長を公選にするか組織を廃止するよう伝達し、これを受けた内務省は1947年1月22日付けで町内会、部落会、その連合会、隣組を廃止する新聞発表を行った[16]。
公職追放の該当者は直ちに罷免され、退職金その他の諸手当も停止され、該当者だけでなくその家族も困窮し、親族・関係者らも社会から抹殺同然にされてしまう規定があったため当時の日本社会全体を恐怖で支配するものであった[17]。
この追放により各界の保守層の有力者の大半を追放した結果、学校やマスコミ、言論等の各界、特に啓蒙を担う業界で、労働組合員などいわゆる「左派」勢力や共産主義者が大幅に伸長する遠因になった。
その後社会情勢の変化が起こり、二・一ゼネスト計画などの労働運動が激化し、さらに大陸では国共内戦や朝鮮戦争などで共産主義勢力が拡大した。連合国軍最高司令官総司令部の占領政策は転換し、追放指定者は日本共産党員や共産主義者とそのシンパへと変わった(レッドパージ)。
また、講和が近づいた1949年12月、第2次吉田内閣を組閣した吉田首相は、日本の政治・経済再建のために必要な人物の復帰を求めるとの声明を公表し、GHQとの交渉が継続的に行われた結果、1949年2月に再び公職資格訴願審査委員会が設置された(第2次訴願委員会)。申請期限の5月8日までに32,089人の申請が受理されたが、1950年10月に発表された第一次追放解除者は10,090人に留まった[18](この際石井光次郎・安藤正純・平野力三らの追放が解除されている)。その後、9月と10月に陸海軍の下級将校3,250人が追加され、この年13,340人が追放解除となった。
翌1951年5月1日にマシュー・リッジウェイ司令官は、行き過ぎた占領政策の見直しの一環として、日本政府が「総司令部の指令施行のため出された現行の諸法令」を修正することを認めた。これにより公職追放の緩和・及び復帰に関する権限を得た日本政府は、総理大臣の権限において追放基準の緩和をおこない、6月に内閣直属の公職資格審査会を設置して追放非該当者を決定する作業を進めた結果、10月31日までに17万7,261人の追放を解除した。残る追放者は陸海軍将官や戦犯など17,977人となった。
同年11月29日、最後の公職資格訴願審査会(第3次訴願委員会)が設置され、申請のあった8,774人のうち7,233人を解除し(鈴木貫太郎・東久邇宮稔彦王・東郷茂徳・岡田啓介・宇垣一成・重光葵らが含まれる)、1,541人を解除不可として1952年4月26日審査会は使命を終えた。
1952年4月28日、サンフランシスコ平和条約の発効と同時に「公職に関する就職禁止、退職等に関する勅令等の廃止に関する法律」(公職追放令廃止法。昭和27年法律第94号)が施行されたことによって、すべての公職追放は解除となった。この時点まで追放状態に置かれていたのは、岸信介ら開戦当時の閣僚や服役中の戦犯などと、訴願申請を行わなかった者ら約5,700人であった。
多くの者が1951年の第一次追放解除で、残りの者も1952年には段階的に復帰し、最終的には「公職追放令廃止法」により追放解除となった。また、裁判官は一人も被追放者がいない。
この他に発足当初の自衛隊およびその前身である警察予備隊、保安隊、警備隊には追放解除された旧陸海軍人が多く在籍した。
ウィキソースには、公職追放に関しての原文があります。
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