| 人物情報 | |
|---|---|
| 生誕 | (1910-12-13)1910年12月13日 |
| 死没 | (1998-06-30)1998年6月30日(87歳没) |
| 出身校 | 京都帝国大学 |
| 学問 | |
| 研究分野 | 中国古典文学 |
| 影響を受けた人物 | 倉石武四郎 |
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入矢 義高(いりや よしたか、1910年(明治43年)12月13日 -1998年(平成10年)6月30日)は、日本の中国文学者。中国禅を中心とした仏教学者。専門は中国古典文学。学位は、文学博士。名古屋大学名誉教授、京都大学名誉教授。日本学士院会員。正四位勲二等瑞宝章。
1910年、鹿児島県鹿児島市で英語教師・入矢祐雲の長男として生まれた。1928年、福岡県立小倉中学校を卒業。1932年に福岡高等学校を卒業し、京都帝国大学に進学。ドイツ文学を専攻したいと考えていたが、父の意向で中国文学へと転向し、倉石武四郎の指導を受けた。1936年、京都大学文学部文学科を卒業。
卒業後は、広島県立中学(旧制)の教員となり、県立呉第一中学校に勤務。しかし、1939年、東方研究所(現:京都大学人文科学研究所)助手となった。中国文学の口語研究を進め、特に禅籍における中世期の口語中国語研究を考究した。1944年、北京へ留学。
1948年、東方文化研究所が京都大学に包摂されることに伴い、京都大学人文科学研究所所属となった。1949年、同研究所助教授に昇任。1955年、名古屋大学文学部教授を兼任し、人文科学研究所教授に昇任。1964年、ハンブルク大学客員教授も務めた。1968年、名古屋大学文学部学部長を務めた。1970年、京都大学文学部教授も兼任。1974年に京都大学を退官(1995年より名誉教授)。同年より、花園大学嘱託教授を兼任。1977年に名古屋大学も退任し、名誉教授となった。同年4月からは京都産業大学外国語学部教授となった。1982年、花園大学嘱託教授も退任し、客員教授となった。
学界では、1994年に日本学士院会員に選出された[1]。1998年に死去。死去と同時に正四位に叙された。
専門は中国古典文学で、中国禅を中心とした著作に関する業績が多い。研究者としての詳細は『入矢義高先生追悼文集』(汲古書院)に詳しい。
岩波文庫版『臨済録』は朝比奈宗源訳で出版されていたが、ルース・佐々木の依頼で中世中国語学の見地より新訳を行い、第3版目で刊行された。『碧巌録』新訳は後進研究者と当たった。また、1965年前後からは禅文化研究所を中心に数々の語録研究会を主催し、後進の育成指導にも当たった。
指導を受けた学生には、以下がいる。
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