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光格天皇

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
光格天皇
光格天皇像
東京大学史料編纂所蔵・模本)

即位礼1780年12月29日(安永9年12月4日
大嘗祭1788年1月5日天明7年11月27日
元号安永
天明
寛政
享和
文化
時代江戸時代
征夷大将軍徳川家治
徳川家斉
摂政九条尚実
関白九条尚実→鷹司輔平一条輝良
鷹司政熙一条忠良
先代後桃園天皇
次代仁孝天皇

誕生1771年9月23日明和8年8月15日)卯半刻
閑院宮
崩御1840年12月12日天保11年11月19日)酉刻
桜町殿
大喪儀1841年1月12日(天保11年12月20日
陵所後月輪陵
漢風諡号光格天皇
師仁
1779年12月21日(安永8年11月14日)命名
兼仁
1780年1月1日(安永8年11月25日)改名
称号祐宮
元服1781年1月24日(安永10年1月1日
父親閑院宮典仁親王東山天皇皇孫)
母親大江磐代
中宮欣子内親王
子女温仁親王
悦仁親王
恵仁親王(仁孝天皇
盛仁親王(桂宮第10代)
蓁子内親王 他多数
皇居平安宮(土御門東洞院殿
親署光格天皇の親署
テンプレートを表示
光格天皇御胞塚(こうかくてんのうおんえなづか)、光格天皇の胞衣(えな)を埋納した塚、京都市上京区荒神口通河原町西入清荒神内

光格天皇(こうかくてんのう、1771年9月23日明和8年8月15日〉 -1840年12月12日天保11年11月19日〉)は、日本の第119代天皇[注釈 1](在位:1780年1月1日〈安永8年11月25日〉 -1817年5月7日〈文化14年3月22日〉)。御称号祐宮(さちのみや)。師仁(もろひと)、のち兼仁(ともひと)[注釈 2]

父は閑院宮典仁親王東山天皇の皇孫)。母は大江磐代鳥取藩倉吉出身の医師岩室宗賢の娘)。東山天皇は曽祖父、桃園天皇(先代、後桃園天皇の父)と後桜町天皇(先代、後桃園天皇の伯母)は再従姉弟にあたる。践祚前の安永8年11月8日1779年12月15日)に危篤の後桃園天皇の養子となり、儲君に治定される(実際には天皇は前月中既に崩御しており、空位を避けるために公表されていなかった)。光格天皇の兄弟には閑院宮美仁親王真仁法親王がいる。

一世一元の詔発布(一世一元の制導入)以前に譲位した最後の天皇であり、以降、平成31年(2019年4月30日に第125代天皇明仁譲位するまでの202年間、天皇が譲位する例はなかった。

概要

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天皇の男系の子孫(曽孫)ではあるが、東山天皇崩御後60年経ち、皇統は祖父の兄の子孫に5代にわたって受け継がれており、皇位とは無縁に思われた。しかし桃園天皇、そしてその子の後桃園天皇もともに22歳の若さで崩御してしまい、跡継ぎがいなくなった。そこで彼に白羽の矢が立ち天皇に即位した。光格天皇の代から今上天皇・徳仁まで全て男系直系で皇位が継承され、今上天皇・徳仁および現在の男系皇族(后妃以外の皇族)は全員、光格天皇の男系子孫である。

光格天皇は親王宣下を受けていないため即位前の身位は (師仁王)であり、親王(師仁親王)とするのは誤りである。

生涯

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明和8年8月15日(1771年9月23日[注釈 3]閑院宮典仁親王東山天皇の皇孫)の第6王子として生まれる。誕生の翌年、聖護院宮忠誉入道親王の附弟となり、聖護院に入寺。将来出家して聖護院門跡を継ぐ予定であった[4]

安永8年10月29日1779年12月6日)、後桃園天皇が崩御したときに皇女しかおらず、皇子がいなかったため、世襲親王家から新帝を迎えることになった。後継候補者としての伏見宮邦頼親王の第一王子・嘉禰宮(5歳、のちの伏見宮貞敬親王)、閑院宮典仁親王の第一王子・美仁親王(23歳、のち閑院宮当主)、第六王子・祐宮(9歳、光格天皇)の3人があげられた。先帝の唯一の遺児女一宮(欣子内親王、1歳)を新帝の妃にするという構想から既婚の美仁親王が候補から消え、残り2人のうち近衛内前後桜町上皇は嘉禰宮を、九条尚実は祐宮を推薦した。会議の結果、嘉禰宮が門跡の附弟になっておらず、年下で女一宮とも年が近いと評価されたものの、世襲親王家の中で創設が最近で、後桃園天皇の再従叔父にあたる祐宮が選ばれ、急遽養子として迎え入れられた。

安永8年11月25日(1780年1月1日)、践祚。直前に儲君に治定されていたものの、立太子はなされなかった。

天明2年(1782年)、天明の大火により京都御所が焼失したのち、御所が再建されるまでの3年間、聖護院を仮御所とした[注釈 4]

天明7年(1787年6月天明の大飢饉の際に御所千度参りが行われると、後桜町上皇はりんご3万個を民衆に配布。光格天皇は事態を憂慮し、朝廷が幕府の方針に口出しをしないという禁中並公家諸法度の定めを破り、幕府に民衆救済を申し入れた。そのため、天皇の叔父でもある関白鷹司輔平も厳罰を覚悟して、同様の申し入れを行った。これに対して、幕府は米1,500俵を京都市民へ放出する施策を決定、法度違反に関しては事態の深刻さから、天皇や関白が行動を起こしたのももっともな事であるとして不問とした。

ゴローニン事件の際には交渉の経過を報告させるなど、朝廷権威の復権に努める。また、朝幕間の特筆すべき事件として、尊号一件が挙げられる。天皇になったことのない父・典仁親王に、一般的には天皇になったことのある場合におくられる太上天皇号をおくろうとした天皇の意向は、幕府の反対によって断念せざるを得なかったが、事件の影響は尾を引き、やがて尊王思想を助長する結果となった。ただし、尊号の件以外は江戸幕府は天皇の意向を前向きに受け入れる姿勢を取っており、天皇自身も譲位の直前に将軍徳川家斉に対して御衣とともに感謝の書状を送る[5] など、在位中は大きな対立は発生せず、朝幕関係はむしろ安定していたとする指摘もある[6]

寛政6年3月7日1794年4月6日)、欣子内親王を中宮に冊立した。

寛政11年(1799年)、聖護院宮盈仁法親王が役行者御遠忌(没後)1100年である旨の上表を行った。同年、正月25日権大納言烏丸光祖を勅使として聖護院に遣わし、神変大菩薩(じんべんだいぼさつ)の諡号を贈った。

寛政12年1月22日1800年2月15日)、欣子内親王との間に生まれたばかりの温仁親王を、早くも同年3月7日3月31日)に儲君に治定するも、翌月4月4日4月27日)に薨去。これを受け、恵仁親王(のちの仁孝天皇)を文化4年7月18日1807年8月21日)に儲君に治定し、文化6年3月24日1809年5月8日)に皇太子とした。

文化14年3月22日(1817年5月7日)、恵仁親王に譲位。翌々日の3月24日(5月9日)に太上天皇となる。なお、202年後の平成31年(2019年)4月30日に退位した第125代天皇明仁は太上天皇ではなく天皇の退位等に関する皇室典範特例法に基づく「上皇」の地位でこれが正式な称号であるため、現在でも光格天皇が最後の太上天皇である[注釈 5]

天保11年11月19日(1840年12月12日)酉刻、崩御[7]宝算70。

人物

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光格天皇は博学多才で、学問に熱心であり、作詩音楽をも嗜み、父・典仁親王と同じく歌道の達人でもあった。

また、中御門天皇系の傍系・閑院宮の出身であるためか、中世以来絶えていた朝儀の再興、朝権の回復に熱心であり、朝廷近代天皇制へ移行する下地を作ったと評価されている。その例として、400年近く途絶えていた石清水八幡宮賀茂神社臨時祭の復活や新嘗祭など、朝廷の儀式の復旧に努めた[8]。さらに、平安末期以来断絶していた大学寮に代わる朝廷の公式教育機関の復活を構想したが、在位中には実現せず、次代の仁孝天皇に持ち越されることになった(学習院 (幕末維新期)参照)。

寛政9年11月7日1797年12月24日)には善光寺等順より、三帰戒及び十念を授け奉られている[9][10]

系譜

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光格天皇の系譜
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
16.第112代 霊元天皇
 
 
 
 
 
 
 
8.第113代 東山天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
17.松木宗子
 
 
 
 
 
 
 
4.閑院宮直仁親王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
18.櫛笥隆賀
 
 
 
 
 
 
 
9.櫛笥賀子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
19.西洞院時成の娘
 
 
 
 
 
 
 
2.閑院宮典仁親王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
5.左衛門佐讃岐
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
1.第119代 光格天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
6.岩室宗賢
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
3.大江磐代
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
7. りん
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

系図

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天皇家系図

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113東山天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
114中御門天皇
 
 
 
 
 
閑院宮直仁親王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
115桜町天皇
 
 
 
 
 
典仁親王 (慶光天皇)
 
倫子女王
 
鷹司輔平
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
117後桜町天皇
 
116桃園天皇
 
美仁親王
 
119光格天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
118後桃園天皇
 
 
 
 
 
120仁孝天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
桂宮淑子内親王
 
121孝明天皇
 
和宮親子内親王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
122明治天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

閑院宮系図

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東山天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
直仁親王1
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
典仁親王2
 
鷹司輔平
鷹司家継承)
 
倫子女王
(五十宮、徳川家治室)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
美仁親王3
 
光格天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
孝仁親王4
 
仁孝天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
愛仁親王5
 
孝明天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
載仁親王6
(伏見宮邦家親王王子)
 
明治天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
春仁王7
[皇籍離脱]
 
大正天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

令和元年(2019年)5月1日現在、先帝とは2親等以上離れた続柄かつ傍系の宮家より践祚した最後の天皇でもある。次代・仁孝天皇以後は今上徳仁に至るまで男系の直系子孫によって皇位が継承され[注釈 6]、この皇統が現在の皇室に至っている。光格天皇から見て徳仁は仍孫にあたる。

后妃・皇子女

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  • 中宮:欣子内親王(新清和院、1779年 - 1846年) - 後桃園天皇皇女
  • 典侍葉室頼子(民部卿典侍、1773年 - 1846年) -葉室頼熙
    • 第一皇子:礼仁親王(哲宮、1790年 - 1791年)
    • 第一皇女:能布宮(1792年 - 1793年)
    • 第二皇子:俊宮(1793年 - 1794年)
  • 典侍:勧修寺婧子(東京極院、1780年 - 1843年) -勧修寺経逸
    • 第四皇子:恵仁親王(寛宮、仁孝天皇、1800年 - 1846年)
    • 第二皇女:多祉宮(1808年)
    • 第四皇女:宮(1817年 - 1819年) - 「」は女偏に成
  • 典侍:高野正子(督典侍、1774年 - 1846年) - 高野保香女、園基理養女
    • 第六皇子:猗宮(1815年 - 1819年)
  • 典侍:姉小路聡子(新典侍、1794年 - 1888年) - 姉小路公聡女
    • 第五皇女:永潤女王(倫宮、1820年 - 1830年) -大聖寺門跡
    • 第八皇女:聖清女王(媛宮、1826年 - 1827年)
    • 第八皇子:嘉糯宮(1833年 - 1835年)
  • 掌侍東坊城和子(新内侍、1782年 - 1811年) -東坊城益長
    • 第五皇子:桂宮盛仁親王(磐宮、1810年 - 1811年) -桂宮第10代
    • 第三皇女:霊妙心院宮(1811年)
  • 掌侍:富小路明子(右衛門掌侍、? - 1828年) - 富小路貞直女
  • 掌侍:某氏(長橋局) - 父不詳
    • 皇女:受楽院宮(1792年) -流産。皇子説あり
  • 生母未詳
    • 皇女:開示院宮(1789年) - 流産。皇子説あり

在位中の元号

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諡号・追号・異名

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天保12年1月27日1841年2月18日)、第58代光孝天皇以来1000年近く絶えていた漢風諡号選定(ただし、崇徳安徳順徳の各天皇を除く)及び第62代村上天皇以来900年近く絶えていた天皇号(ただし、安徳・後醍醐両天皇を除く)を復活させ、「光格天皇」と諡された。それまでは「追号+院」という形であった。以後、仁孝天皇・孝明天皇の2代にも諡号が用いられた。

天皇崩御の後、公家の間から「故典・旧儀を興複せられ、公事の再興少なからず、……質素を尊ばれて修飾を好まれず、御仁愛くの聖慮を専らにし、ついに衆庶におよぶ」という功績を称え謐号をおくる意見が出た。そこで朝廷から幕府へ強く要望が出され、特例を以て許可された。さらに朝廷は「御斟酌ながら、帝位の御ことゆえ、以後は天皇と称したてまつられるべき」と天皇の名称も幕府に認めさせたのである。

上皇(光格天皇)崩御の直後の天保11年11月23日、仁孝天皇から議奏飛鳥井雅久を通じて紀伝道を司る菅原氏の4名の公卿(東坊城聡長五条為定高辻以長唐橋在久)に追号選定の指示が下された。4名はその事績は霊元天皇に匹敵するとして「後霊元院」を追号とすること、念のために4名中2名の案として残り2名が当て馬となる追号案を出すことで一致した。ところが、11月28日に出された追号案(以長と在久が後霊元院、他の2名は後東山院などの案を提出した)が12月3日には勅命として追号決定を先送りにすることが通達されて4名の案は事実上却下される[11]。これと前後して関白鷹司政通の密使が古義堂第5代の伊藤東峯を訪問して、朝廷が「天皇号」再興の意思があることを伝え、東峯に助言を求めた。東峯は祖父の伊藤東涯の『帝王譜畧』や中井竹山の『草茅危言』を例に引きながら回答したと記している。東峯の記録からは、亡くなった上皇か仁孝天皇が発案者でその意向を政通が東峯に相談したのか、政通本人の発案を相談したものなのかは不明であるが、上皇崩御後の早い時期から天皇号再興の意向が朝廷上層部に存在したこと、当初は諡号よりも「天皇号」再興を重視していたことが判明する[注釈 7][14]。また、11月25日に水戸藩主徳川斉昭は姉婿にあたる鷹司政通に対し、山陵造営と諡号復活を幕府に提案すれば前者は財政的に厳しくても後者は実現する見込みがあるとの書状を送っているが、12月3日の政通の返書には諡号の件は京都所司代とは既に相談済であると記している[15]。その後、仁孝天皇は京都所司代を通じて江戸幕府に異論は無いと言う内諾を得た仁孝天皇は12月21日に公卿たちに天皇号・諡号再興の勅問を行い、先の菅原氏の4名の公家に諡号案作成の指示を出し、一方鷹司政通も伊藤東峯に自分も諡号案を出す考えがあるので作成して欲しいと要請している。4名の諡号案は12月23日に提出したが、鷹司政通は納得せず年明けまでに追加案を出すように指示している。その間に政通は伊東東峯から諡号案を受け取っている。東坊城聡長以外の3名は締切前日の翌年正月6日に追加案を提出したが、聡長のみは締切後の12日になって追加案を提出したが、その中に「光格」が含まれていた。東坊城聡長と五条為定の日記には聡長の遅延は政通からの内密の指示があったと記されている。このため、「光格」の発案者は伊藤東峯でこれを受け取った鷹司政通が自身の提案として聡長の追加案に反映させたとみられている[16]。翌天保12年正月28日に天皇号・諡号の再興決定が発表され、同時に諡号案も公表され、閏正月27日の朝議において正式に諡号とすることが決定された[17]

陵・霊廟

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後月輪陵(京都府京都市

(みささぎ)は、宮内庁により京都府京都市東山区今熊野泉山町の泉涌寺内にある後月輪陵(のちのつきのわのみささぎ)に治定されている。宮内庁上の形式は石造九重塔。先代までの月輪陵と同じ寺域に所在する。

天保11年11月25日(1840年12月18日)に御槽(おふね)に奉納され、12月4日12月27日)に入棺、12月20日1月12日)に奉葬された。倹約のため、御槽には蓋がなかったという。翌年1月19日2月10日)に石塔が完成し、即日供養が修された。同月27日(2月18日)には陵前において諡号の奉告が行われ、この時の記録に初めて「後月輪山陵」の陵号が見える。

また皇居では、皇霊殿宮中三殿の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。

その他

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18世紀末から19世紀初めにかけての随筆耳嚢』(平凡社東洋文庫全2巻、岩波文庫全3巻)の記述によると、天明元年(1781年)に、ある大名に飼われていたの主人に対する態度が噂となり、それを知った光格天皇がその狆の忠節を認めて六位を賜えたという話が伝えられている。

参考文献

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関連文献

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脚注

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注釈

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  1. ^光格天皇自身は、「神武第百二十代兼仁」「神武百二十世兼仁」「百二十代兼仁」(120代)と自署していた[1]。この差異は、『本朝皇胤紹運録』にて、現在は歴代天皇に数えられていない北朝の天皇を歴代天皇として数えていることから来る[2]
  2. ^初め師仁と称したが、死人(しにん)に音が通じるのを忌み、践祚と同時に兼仁に改めた。
  3. ^皇室御系譜では典仁親王妃の成子内親王所生とされており、成子内親王が同年5月に薨去している関係で、3月15日生まれに繰り上げられている[3]
  4. ^恭礼門院妙法院、後桜町上皇は青蓮院粟田御所)にそれぞれ移った。後桜町上皇の生母青綺門院の仮御所となった知恩院と青蓮院の間に、幕府が廊下を設けて通行の便を図っている。
  5. ^産経新聞によると、天皇明仁が2010年に宮内庁幹部に譲位の意向を示した際、光格天皇譲位の先例を調べるよう依頼したという。“陛下 光格天皇の事例ご研究 宮内庁に調査依頼 6年半前”. 産経新聞. (2017年1月24日). オリジナルの2017年1月26日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20170126071502/http://www.sankei.com/life/news/170124/lif1701240001-n1.html 
  6. ^長子相続(代々の長男)による践祚は昭和明仁徳仁の3天皇のみで、仁孝から大正までの歴代天皇はいずれも父帝たる天皇から見て次男以後の続柄にあたる。
  7. ^伊藤東峯が参考文献に上げている中井竹山の『草茅危言』も天皇号の再興を優先とし、漢風諡号復活が難しければ在位中の元号を取ることを提言している[12]。なお、後年の話になるが元治元年(1864年)に山階宮晃親王島津久光に充てた書状によれば、『草茅危言』は(生前の)光格天皇も目を通されていたという[13]

出典

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  1. ^宸翰栄華
  2. ^書陵部所蔵目録・画像公開システム,ギャラリーバックナンバー,『光格天皇宸翰南無阿弥陀仏』
  3. ^辻善之助『日本文化史 別録 第4巻』春秋社、1953年、p.250。
  4. ^米田雄介『令和新修 歴代天皇・年号事典』吉川弘文館、2019年8月20日、327頁。ISBN 978-4-642-08357-7 
  5. ^『山科忠言卿伝奏記 四』文化14年3月15日条
  6. ^長坂、2018年、P165-182.
  7. ^『孝明天皇紀 第1』平安神宮、1967年、p.79。
  8. ^200年前の光格上皇が「令和」の2019年に伝えた遺産”. 日経Biz Gate (2019年4月26日). 2019年5月21日閲覧。
  9. ^善光寺本坊大勧進「大勧進の名僧・等順大僧正」
  10. ^宮島潤子『信濃の聖と木食行者』(角川書店、1983年)
  11. ^金炯辰『近世後期の朝廷運営と朝幕関係-関白鷹司政通と学問のネットワーク-』東京大学出版会、2025年、212-213頁。ISBN 978-4-13-026615-4 
  12. ^金炯辰『近世後期の朝廷運営と朝幕関係-関白鷹司政通と学問のネットワーク-』東京大学出版会、2025年、213-214頁。ISBN 978-4-13-026615-4 
  13. ^金炯辰『近世後期の朝廷運営と朝幕関係-関白鷹司政通と学問のネットワーク-』東京大学出版会、2025年、228-229頁。ISBN 978-4-13-026615-4 
  14. ^金炯辰『近世後期の朝廷運営と朝幕関係-関白鷹司政通と学問のネットワーク-』東京大学出版会、2025年、213-215頁。ISBN 978-4-13-026615-4 
  15. ^金炯辰『近世後期の朝廷運営と朝幕関係-関白鷹司政通と学問のネットワーク-』東京大学出版会、2025年、219頁。ISBN 978-4-13-026615-4 
  16. ^金炯辰『近世後期の朝廷運営と朝幕関係-関白鷹司政通と学問のネットワーク-』東京大学出版会、2025年、216・219-223頁。ISBN 978-4-13-026615-4 
  17. ^金炯辰『近世後期の朝廷運営と朝幕関係-関白鷹司政通と学問のネットワーク-』東京大学出版会、2025年、216-217頁。ISBN 978-4-13-026615-4 

関連項目

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光格天皇

1771年9月23日 -1840年12月11日

日本の皇室
先代
後桃園天皇
(英仁)
皇位
第119代天皇

1780年1月1日 - 1817年5月7日
安永8年11月25日 - 文化14年3月22日
次代
仁孝天皇
(恵仁)
伝承の時代
古墳時代
飛鳥時代
奈良時代
平安時代
鎌倉時代
南北朝時代
南朝
北朝
室町時代
安土桃山時代
江戸時代
現代
  • 前の数字は代数。南朝を正統とする。
  • 名前の赤背景女性天皇
  • 第37代斉明天皇は第35代皇極天皇の、第48代称徳天皇は第46代孝謙天皇の重祚
  • 後の数字は在位年。なお、江戸時代以前は日付までを考慮した厳密な和暦からの換算は行なっていない。
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