信長公記/陽明文庫所蔵 『信長公記 』(しんちょうこうき、のぶながこうき[ 1] )は、戦国大名 ・織田信長 の一代記。戦国時代 から安土桃山時代 にかけての史料 。『信長記 』とも呼ばれる。著者は信長旧臣の太田牛一 。原本は江戸時代 初期に成立した[ 2] 。全16巻。米沢藩 上杉氏 旧蔵本である個人蔵10冊本の内題が「しんちやうき」なので「しんちょうき」と読まれていたと考えられている[ 3] [ 4] 。
史上初めての織田信長の一代記。信長の幼少時代から信長が足利義昭 を奉じて上洛 する前までを首巻とし、永禄 11年(1568年 )の上洛 から天正 10年(1582年 )の本能寺の変 に至る15年の記録を1年1巻とし、全16巻(16冊)にまとめている[ 5] [ 6] 。自筆本である池田本には15巻にまとめた旨が記載されており、首巻は本編と別物と見られている[ 7] 。
1巻が1年分を扱っており、全15巻で15年間の内容を網羅している。織田信長を知る上で優れた資料であるが、日本で本格的に研究が始まったのは1965年頃と比較的最近のことであり、未解明な点も少なくない[ 8] 。
牛一が奥書で「故意に削除したものはなく、創作もしていない。これが偽りであれば神罰を受けるであろう」と記しているように[ 7] 、著述姿勢は真摯であり、年月日を記して編年的にまとめられ、一部錯綜が認められる箇所もみられるが、文書上から確認される事跡を正確に記している。また筆者が長期間信長の側近であったこともあり、史料としての信頼が高く[ 9] 、研究者の間でも信憑性は他の軍記物と一線を画していると評価されている。資料としては二次資料 に位置づけられるが[ 10] 、内容の信頼性は一次史料 に準じた評価を受けている[ 11] 。
内容には信長とは無関係な話も多く含まれていることや、第一巻の冒頭に「永禄十一年戊辰以来織田弾正忠信長公の在世、且これを記す」という記載があることから、この記録は織田信長の記録ではなく、信長が生きた社会の記録ではないかという見方もある[ 12] 。
太田牛一は尾張 春日郡 の出自で、信長の死後には織田家臣の丹羽長秀 に右筆 として仕え、長秀の没後には豊臣秀吉 に仕えている[ 13] 。『信長公記』は長秀・秀吉家臣時代の記録をもとに編纂されたと考えられている。
藤本正行 は著書『信長の戦争』の中で、同じ本の中でありながら、信長に対して「上様」「信長公」「信長」と表現が変わっている部分や、徳川家康 を「家康」と呼び捨てにしていたり「家康公」「家康卿」「家康殿」と敬称をつけている箇所などがある点に言及し、さまざまな時期に書いたメモのようなものを切り貼りして一冊の本として作り上げたものであるとみている。
牛一の晩年期である慶長16年(1611年 )頃、牛一の『信長(公)記』を元にその他の逸話を加えて、小瀬甫庵 が『信長記』を著述した。甫庵の『信長記』は元和8年(1622年 )に刊行され、以後も版を重ねて一般に広まった。どちらも『信長記』と呼ばれるが、現在は混同を防ぐため、牛一のものを『信長公記』と呼ぶのが一般的である。対して甫庵の方を『甫庵信長記 』と呼ぶこともある。
『甫庵信長記』は、基本的な内容を『信長公記』に依拠してはいるが、所々内容が異なり、甫庵自身の再仕官の意図や、儒教的価値観などの諸事情により、甫庵自身の歴史観に基づいて歴史を解釈した軍記物 に近い書籍である。同時代の史書で(同様に創作が多いと指摘される)『三河物語 』からすらも「イツハリ多シ」と指摘されている。一方で甫庵は、牛一を「愚にして直」と評し、その創作性の無さ、事実をなぞっているだけの簡素な内容を批判しており、記録というよりも、読み物として読み手を意識して書いたことがうかがえる。それゆえに、『甫庵信長記』は同じ甫庵の『太閤記 』に類似し、近世社会において刊本として広く流布して親しまれ、今日に至るまで桶狭間の戦い や長篠の戦い など信長・秀吉期の合戦史に関する基本的イメージを構築する読本となった。
信長の一代記として、その後も『織田真記』(織田長清 )、『総見記』(遠山信春)などの諸作が作られた。
信長自身については、果断にして正義を重んじる性格であり、精力的で多忙、情誼が厚く道理を重んじる古今無双の英雄として描かれている。
東大寺大仏殿 を焼いた松永久秀 が、焼いたのと同じ10月10日 に鹿角兜(鹿は奈良 にて神鹿として敬われる)を付けた織田信忠 によって奈良・信貴山城 で自刃に追い込まれ、人々は春日明神 の祟りであると噂したと記述しており[ 14] 、神道 ・仏教 ・儒教 が融合した中世的道徳がうかがえたり、信長に離反した荒木村重 の妻子の最期を憐れんで村重と妻との短歌のやり取りを詳細に記すなど、客観的ながらも牛一の価値観や人物観を現す内容となっている。
この文献は二次資料であるが、一般的に他の二次史料に比べ記述は正確であるとされている。しかし、平成 末期以降の研究では否定されている斎藤道三 が一代で美濃国 の国主に上り詰めたことや[ 15] 、松永久秀の多聞山城 引き渡しの年次がずれていることなど、他の資料によって誤りが発見されることもある[ 16] 。良質な編纂物として史料的な価値も高いが、二次史料であることには変わりがない。そのため『信長公記』を研究に使う際には、この文献(または特定の写本)を単独で使い全面的に依拠するのではなく、別の一次資料や二次資料も確認したり、別の写本(または原本)と内容の突き合わせを行ったりするなど、適切な史料批判 をすることが大切とされている[ 10] [ 17] 。
首巻 永禄10年(1567年)まで 天文15年(1546年)、信長元服。天文21年(1552)頃、父織田信秀 が死、家督相続。天文23年、清洲城 攻略。永録1年(1558年)、弟織田信勝 を謀殺。永禄2年、岩倉城 を攻略。永録3年桶狭間の戦い 。永禄7年、犬山城 を攻略し尾張統一。永録10年、稲葉山城の戦い で岐阜を攻略。 巻1 永禄11年(1568年) [2月、北伊勢を征服。(勢州軍記)] 7月、足利義昭 を招く。9月、近江の六角氏 を破り、入京。10月、三好三人衆 らを破り、畿内平定。義昭は征夷大将軍。 巻2 永禄12年(1569年) 2月、義昭のために二条御所 を建築開始、4月、完成。10月、南伊勢攻め(大河内城の戦い )。 巻3 元亀1年(1570年) 4月、朝倉義景 を攻めたが浅井長政 が離反したため京へ逃走(金ヶ崎の戦い )。改めて6月に朝倉・浅井軍と姉川の戦い 。9月に石山本願寺 が敵対(野田・福島の戦い )。9月、近江志賀の陣 で対決した朝倉・浅井軍を比叡山延暦寺 が保護。 巻4 元亀2年(1571年) 5月、長島を攻めたが撤退。9月、坂本および比叡山を焼き討ち 。 巻5 元亀3年(1572年) 7月、浅井の小谷城 を攻めたが撤退。10月、武田信玄 が甲府から西上 。12月、三方ヶ原の戦い で徳川家康 が敗北。 巻6 天正1年(1573年) [4月、信玄が病死。] 7月、義昭を追放(槙島城の戦い )。8月、朝倉・浅井滅亡(一乗谷城の戦い と小谷城の戦い )。11月、佐久間信盛 が三好義継 を滅ぼす(若江城の戦い )。 巻7 天正2年(1574年) 4月、越前を一向一揆 が支配。9月、長島一向一揆 を殲滅。 巻8 天正3年(1575年) 5月、長篠の戦い 。8月、越前一向一揆 を殲滅。9月から柴田勝家 が越前を支配。11月、信長は権大納言・右近衛大将。 巻9 天正4年(1576年) 1月、安土城 を築城開始。5月、本願寺と天王寺の戦い 。7月、第一次木津川口の戦い で毛利方の村上水軍 に敗北。 巻10 天正5年(1577年) 3月、雑賀紀州攻め 。10月、織田信忠 が松永久秀 を滅ぼす(信貴山城の戦い )。10月、羽柴秀吉 が播磨から中国攻め を開始。[11月、信長は従二位・右大臣。] 巻11 天正6年(1578年) 2月、播磨の別所長治 が謀反。[3月、上杉謙信 が急死。] 10月、斎藤利治 が飛騨経由で越中攻め(月岡野の戦い )。11月、鉄甲船 を使った第二次木津川口の戦い で大阪湾の制海権を握る。以後本願寺を兵糧攻め。11月、摂津の荒木村重 が謀反。 巻12 天正7年(1579年) 5月、安土城完成。明智光秀 が8月に丹波を、10月に丹後を平定。備前の宇喜多直家 が毛利から織田へつく。12月、荒木一族を処刑。 巻13 天正8年(1580年) 1月、秀吉が三木合戦 の末に播磨を平定。3月、小田原の北条氏政 と同盟。5月、羽柴秀長 が但馬を平定。 8月、本願寺が降伏し、大坂本願寺戦争 終結。11月、勝家が加賀を平定。 巻14 天正9年(1581年) 2月、京都御馬揃え 。9月、織田信雄 が伊賀を平定(天正伊賀の乱 )。10月、秀吉が鳥取城 を兵糧攻め 。 巻15 天正10年(1582年) 3月、信忠の甲州征伐 で武田氏滅亡。5月、秀吉が備中高松城の戦い で水攻め 。[6月、勝家が越中魚津城を攻略 。] 6月、本能寺の変 。 ([ ]内は信長公記に記載がない事項の補足。)
写本を含めると20種類以上が残されており、『安土日記』、『安土記』、『信長記』、『信長公記』など様々である。短編や残闕本を含めると70本以上が確認されている[ 7] [ 6] 。大名 や公家 などに写本で伝わり、明治 時代になって初めて刊行された。
『永禄十一年記』(1巻):永禄11年(1568年)の部分のみ。尊経閣文庫 所蔵。 池田家本『信長記』(15巻):岡山大学付属図書館池田家文庫所蔵。姫路城主・池田輝政 に献上されたもの。首巻なし。重要文化財 。第12巻のみ古写本。岡山大学附属図書館のデジタルアーカイブの古文献ギャラリー で閲覧可能。 建勲神社本『信長公記』(15巻):京都・建勲神社 所蔵。首巻なし。重要文化財。 太田牛一旧記 :織田裕美子 (織田家16代当主、有楽流 17代宗家)所蔵。大坂本願寺との戦いを中心に書かれたもの。本来は無題であり、『石山軍記他色々書込』『別本御代々軍記』などとも呼ばれる。 ブリル社が英語版の信長公記を出版したことをきっかけにして、海外でも信長公記は研究の対象となっている。しかしながら、海外の研究家や歴史学者は訳本の元となった尊経閣文庫(前田本)の内容を史料批判をすることなく信用し、極端に依存する傾向があり、池田本など異なる版との比較や、一次資料で内容を確認していない。また、二次資料や他人の研究内容を参考文献を確認することなく引用し、そこに自分の意見、戦国時代ではなく現代の価値観を基準にした解釈などを重ねていくことでフィードバックループ(循環報告 )が生じ、間違いが積み重なっており、その状況は芳しくないと指摘がある。その原因のひとつは、日本の文献を研究できるほど日本語の語学力がないことと考えられている[ 20] [ 21] 。
外国語版・翻訳 英語 : Ota, Guichi.The Chronicle of Lord Nobunaga (Brill's Japanese Studies Library, 36). trans. by J.S.A. Elisonas J.P. Lamers. Brill, 2011. 520 p.ISBN 978-90-04-20162-0 [1] ウクライナ語 :Ота, Ґюїчі. Записи про князя Нобунаґу // Коваленко О.Самурайські хроніки. Ода Нобунаґа . Київ: Дух і Літера, 2013. 960 с.ISBN 978-966-378-293-5 [2] ^ 「信長公記 」『旺文社日本史事典 三訂版, 百科事典マイペディア, ブリタニカ国際大百科事典』。https://kotobank.jp/word/%E4%BF%A1%E9%95%B7%E5%85%AC%E8%A8%98 。コトバンク より2022年10月3日閲覧 。 ^ 池田家文庫本に慶長15年(1610年)の牛一自身による奥書 がある。 ^ 金子 2009 , pp. 394–395.^ 森銑三 は江戸時代にはその人に敬意を表する意味で人名を音読みする慣習があったと述べ、類例として『義経記 (ぎけいき)』を挙げている[要文献特定詳細情報 ] 。^ 榊山 2017 , p. 492.^a b 堀 2009 , p. 56. ^a b c d 和田 2018 , p. 4. ^ 中村 2013 , pp. 66–67.^ 染谷光広 「古典の辞典」(1987年、河出書房新社)^a b “織田信長の伝記『信長公記』は、本当に信頼していい史料なのだろうか ”. Yahoo!ニュース (2023年6月11日). 2024年10月2日閲覧。 ^ 和田 2018 , p. 13.^ 中村 2013 , pp. 80.^ 堀 2009 , p. 40.^ 和田 2018 , p. 165.^ 和田 2018 , p. 31-32.^ 和田 2018 , p. 166-167.^ “【戦国こぼれ話】一次史料と二次史料とは? 戦国時代の新説に注意すべきポイント ”. Yahoo!ニュース (2021年12月18日). 2025年7月9日閲覧。 ^ 堀 2009 , pp. 62–63.^ 堀 2009 , pp. 35, 60–61.^ Alaric Naudé (2025-03-01). “Manuscript Discrepancies and Historical Ambiguities: A Textual Study of the Shinchōkōki and Yasuke 写本の相違と歴史的曖昧さ:『信長公記』と弥助に関する本文研究” (英語). Journal of International Education (華城市, KR: 水原大学国際カレッジ) 1 (7). ISSN 2586-6478 . https://www.jiesuwon.com/jieissue7volume1-2025-1-22-jie-journal . ^ Daniel Manning (2025年4月30日). “「弥助」の解明:「黒人侍」伝説に挑む新たな研究 ”. Japan forward . 2025年5月17日閲覧。