| 保坂 展人 ほさか のぶと | |
|---|---|
内閣府地方創生推進室より公表された肖像 | |
| 生年月日 | (1955-11-26)1955年11月26日(69歳) |
| 出生地 | |
| 出身校 | 東京都立新宿高等学校中途退学(定時制) 千代田区立麹町中学校卒業 |
| 前職 | フリーライター[1] 総務省顧問( 鳩山由紀夫内閣) |
| 所属政党 | (社会民主党→) 無所属 |
| 公式サイト | 保坂展人 世田谷改革、バージョン・アップヘ! |
| 当選回数 | 4回 |
| 在任期間 | 2011年4月27日 - 現職 |
| 選挙区 | 比例東京ブロック(東京22区→東京6区→単独) |
| 当選回数 | 3回 |
| 在任期間 | 1996年10月21日 -2003年10月10日 2005年9月12日 -2009年7月21日 |
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保坂 展人(ほさか のぶと、1955年〈昭和30年〉11月26日[2] - )は、日本の政治家(第10代世田谷区長)、元学生運動家。
衆議院議員(3期)、社会民主党副幹事長、総務省顧問(鳩山由紀夫内閣)[3][4][5]等を歴任した[6]。
宮城県仙台市生まれ。祖父保坂貞義は1935年(昭和10年)から1940年(昭和15年)まで、宮城県第二高等女学校(後の宮城県第二女子高等学校、現在の宮城県仙台二華高等学校)第10代校長を務め、在職中に死去している。父親はNHK仙台放送局勤務を経て東京勤務となり、一家で東京に転居している[7]。小学校6年時の1969年12月の第32回衆議院議員総選挙で日本社会党は140から90議席へと惨敗したが、保坂は「日本社会党の敗退」のテーマで自由研究を制作した[8]。
千代田区立麹町小学校から千代田区立麹町中学校へ進学。中学在学中、当時世間を席巻していた学園闘争の影響を受け、「麹町中全共闘」を校内に結成。機関紙「砦」の発行やビラ配り、大学生ML派による集会への参加等、積極的な運動を行っていた。そうした学生運動をしていた事実について中学校での内申書に書かれ、高校受験の面接では面接官からの質問が思想にまつわるものに集中。受験した全日制高校は全て不合格となった。
受験先の全日制高校が不合格であったため、東京都立新宿高等学校の定時制に進学した(のちに中途退学[6])。なお、自身が学生運動をしていた経歴が内申書に書かれたために全日制高校に入学できず、学習権が侵害されたとして千代田区と東京都を相手どり、国家賠償法に基づき、損害賠償請求訴訟を起こした。一審・東京地裁は慰謝料請求を認めたが、二審・東京高裁は内申書を執筆した教員の裁量を認め、保坂側が敗訴。最高裁判所に上告したが、最高裁は「単に経歴を記載したにすぎず、思想、信条そのものを記載したものではないことは明らか」として上告を棄却した(麹町中学校内申書事件)。
その後、フリーライターとして管理教育の打破を主張する活動を開始した。若者が自由に出入りできるフリースペース「青生舎」を1976年から1996年まで運営し、ミニコミ誌「学校解放新聞」を発刊した。フリーライター時代、飲酒により退学処分を受け、学校を提訴し係争中だった西原理恵子を取材している。西原とはその後、カット描きの仕事を紹介するなど交友が続いた。また、公文教育研究会が提唱する公文式にも否定的であり、公文式の手法を批判する本も執筆した。 保坂らが運営していた青生舎で1983年3月から学校解放新聞を発行しており、創刊号に西原理恵子のイラストが掲載されている[9]。
1987年の東京都知事選挙で日本社会党が候補者を決めることができずにいた時、保坂は仲間とともに自主的に土井たか子の擁立運動を勝手に仕掛けた(勝手連)[8]。結局、社会党は元参議院議員の和田静夫を推薦候補として立てるが、この時のやりとりをきっかけに、土井とよく話をするようになった[8]。1989年の参院選には、カメラマンを連れた土井たか子の全国遊説にジャーナリストとして同行取材した[8]。
1996年1月に日本社会党が社会民主党へ党名変更がされた。同年9月23日に土井が村山富市社民党党首から二度目の党首を打診されたことに土井自身が激怒していることを土井本人から告げられた。保坂は、2度目の党首就任となることを拒否していた土井と村山の数日間の話し合いの全てに参加した[8]。1996年9月27日、衆議院は解散。翌28日には、土井は激怒していた社会民主党の党首職に結局就任し、社会党委員長以来の党首に復帰した。
1996年10月4日、社会民主党は「土井たか子を支える会」メンバーから3人を衆議院選挙の候補として擁立することを決定。記者会見で、ピースボート創立者の辻元清美、市民団体代表の中川智子は比例近畿ブロックから、保坂は比例東京ブロックから出馬することが発表された[10][11]。
それから4日後の10月8日、第41回衆議院議員総選挙が公示。党は辻元を比例の1位、中川を2位に登載し、保坂は東京22区に転じた。10月20日の投開票で、辻元と中川は初当選。保坂は新進党の伊藤達也や旧民主党の山花貞夫らに破れ東京22区では得票数5位で落選したが、重複立候補していた比例東京ブロックで復活し、初当選した。なお小選挙区での得票率はわずか5.89%であり、「有効投票総数×1/10未満(衆議院小選挙区選挙)[12]」を下回るために供託金は没収された。供託金没収の得票率でも当選した保坂の事例をきっかけに、「小選挙区での得票率が著しく低い候補者」の比例復活の制限が主張されるようになった。実際に公職選挙法は改正され、以降より小選挙区での得票率が有効票数の1割(10%)を下回った場合は、比例での復活ができなくなった[注釈 1]。
2000年の第42回衆議院議員総選挙では東京6区に国替えし社民党公認で出馬。得票数は石井紘基(民主党)、落選した自由民主党の越智通雄を下回る3位であったが、再度比例復活により再選。石井の死去に伴う補欠選挙には出馬を見送り、2003年の第43回衆議院議員総選挙にも東京6区から出馬するが、小宮山洋子、越智隆雄(越智通雄の長男、落選)の後塵を拝し、3位で落選した。得票が有効投票数の10分の1に満たなかったため、供託金を没収され、議席を失った。また、社民党は東京ブロックでの比例議席も失っている(前述の理由で、比例議席を確保していたとしても保坂の復活当選はできなかった)。
2005年の第44回衆議院議員総選挙では、選挙区からの出馬を断念し比例東京ブロック単独で立候補した。社民党は比例東京ブロックでも議席を獲得できなかったが、この総選挙では自民党が大勝し、東京で立候補した候補者の大半が小選挙区で当選したため(比例復活は18区で菅直人に敗れた土屋正忠のみ)、比例では自民党に8議席が配分されたものの、候補者が7人しかおらず、残る1議席が公職選挙法のドント方式により、比例ブロック次点の社民党に回された。社民党の名簿1位の中川直人は小選挙区で有効票数の1割を獲得できなかったため比例復活できず、保坂が当選した。2007年12月、社民党副幹事長に就任。
2009年の第45回衆議院議員総選挙では、選挙協力により東京6区から8区に国替えし、社民党公認、民主党[13]、国民新党、東京・生活者ネットワーク推薦で出馬した。しかし自民党の石原伸晃に敗北し、比例復活もならず落選した(今度は比例ブロックでの議席獲得はなかった)。
落選後は社民党の「前衆議院議員」との身分となっていたが、2009年10月23日、鳩山由紀夫内閣で総務大臣を務める原口一博により、「総務省顧問」に任命された[14][4][5]。社民党副幹事長の職に留まっていたが、2010年1月に辞任(後任は服部良一)。また同年の第22回参議院議員通常選挙への出馬を見据え、同年3月に総務省顧問も辞任した。2010年7月の参院選には社民党公認、生活者ネット推薦で比例区から出馬するも、再び落選した[15](当選者は福島瑞穂、吉田忠智の2名)。
2011年4月6日、記者会見を開き世田谷区長選挙への立候補を表明。なお区長選への出馬に際し、社民党を離党した。区長選には5人が立候補したが、自民党は当初は世田谷区議会議長の自民党区議(川上和彦)を候補とする予定であったが、花輪智史世田谷区議支援派とで保守分裂した。そのため、犬伏秀一大田区区議によると自民党勝利は余裕視されたもの、保守分裂によって左派候補である保坂が83,983票を獲得し当選することとなった(花輪と川上の合計得票数は138,784票)[16]。保坂は社民・国民新・新党日本・生活者ネットの4党からの支持、隣接する杉並区の区長田中良らの応援も受け、初当選した(2位は花輪智史の78,444 票、3位は川上和彦60,340票)[17][16]。なお、候補者氏名を記入する投票による選挙で保坂が当選するのは、これが初めてである(衆議院議員選挙での3期全て比例代表で当選)。
2015年の区長選挙では、民主、共産、社民、生活者ネットの実質支援を受けて臨んだ。自民、公明、次世代推薦で、舛添知事の支援を受けた久保田英文との一騎討ちとなったが、久保田の得票(96,416票)および自身の前回得票の2倍を上回る196,068票を獲得した保坂が再選された。
2019年の区長選挙でも、引き続き立憲、共産、社民、生活者ネットの実質支援を受けて臨んだ。自民推薦の世田谷区議会前議長、三井美穂子が立候補し前回に続き一騎打ちとなった。保坂は189,640票(61.1%)、三井は120,898票(38.9%)で保坂が再選された(任期満了は2023年4月26日[18])。
2023年4月23日の世田谷区長選挙では、自民と維新が推薦した無所属新人の内藤勇耶との一騎打ちの結果、再選された[19](保坂186,553票、内藤147,361票)。
デイリー新潮と文春オンラインに公用車の使用に関する疑惑についての報道が掲載された。国会議員時代から住んでいた狛江市の家と世田谷区内のマンションの二重拠点生活をし、公用車の利用記録から、区内の自宅には年換算だと毎月の半分しか過ごしていないことが判明しているという[47]。 区の規定によれば、公用車は自宅と役所など公務を行う場所や、公務と公務が続く場合に、使用が認められている。世田谷区内のマンションと狛江市の家の間を公用車で移動していることが『公用車の利用は自宅と公務を行う場所の間の移動』に限るというルールに抵触している[48][47]、「狛江の一軒家」が災害など危機管理の観点から問題とされ、区側は答弁で代沢にしか「防災無線」がないことを認めている[47]、自身が所属していた社民党などの政治家の応援など個人的な政治活動にも公用車を用いている[48]と報道した。
この報道に対して保坂は、自治体の首長はその自治体に居住しなければならないという居住要件は存在しないこと、国会議員時代から自宅は世田谷に隣接する狛江にあること、区長の仕事は多忙を極めることから区役所近くマンションを借りている、狛江の自宅は区の西端の喜多見との境界に位置しており、成城学園前にある砧総合支所や北部にある烏山総合支所、二子玉川などの区の要所とも近いとしており、自宅や公用車にも防災行政無線を配備し、公用携帯電話の所持や連絡体制が整備されているという。この事実は2016年6月15日の世田谷区議会定例会において、世田谷区からの答弁で明らかにされており、防災対策では問題にはなっていないと主張している。政治家の講演会に公用車で向かったという指摘に対しては、定例記者会見の後、公務で渋谷区に滞在後、移動する車中で区政に関する連絡及び相談をする必要があったため、公用車を千代田区まで使用、帰路の使用はなく、適正に使用したと主張している[49]。
2023年2月、文春オンラインなどにより、区役所の建て替えに伴い、区長の机と椅子だけで約85万円、執務用の棚や応接チェアなど合わせて約1200万円という法外な額が計上されたと報道された[50]。保坂はこの報道について、昨年度の検討段階の案であり、入札、契約が決まっておらず、区長指示で購入金額の低減に向けた調査をしており、大幅の見直しを進めていると主張。また、購入までに入札手続で適正性が確保されるとし、2023年3月3日、保坂は区役所の家具購入に関連した虚偽の報道を行ったとして、新潮社に対して、謝罪広告等を求める訴訟を東京地裁に提起した[51]。2024年4月25日、東京地方裁判所で、「区長室などの備品は484万円余りで落札された、また、公金から1200万円が支出された事実は存在せず、記事が真実だとは認められない」と判決された[52]。
2011年の世田谷区長選の立候補時に、「4年で2500万、8年で5000万円の区長退職金を廃止する」という公約を掲げて当選した[53][54]その後、2期目の満了時の2019年には退職金を全額受給した。これに対し批判の報道があったが[48]、保坂は「その後、区長として区政運営に全力を挙げ、区民の暮らしを支える重責を果たす中で、公平公正に公務を果たすために激務と負担に鑑みて、2014年の2期目以降の選挙においては退職金を受け取らないということを公約として掲げておりません。」と弁明している[55]。2023年春、三期目の任期に関わる退職手当についても、条約の規定通り満額受給している[55][注釈 2]。
2013年の政治資金パーティー開催時、保坂の部下である区の部長級職員46名のうち大半にパーティー券(定価15,000円)の購入を求める郵便が発送された[56]。世田谷区議の大庭正明は区議会決算委員会で「部長の中には『これは踏み絵だ』『困ってしまう』と言っている人もいる。」と指摘[57]し、合わせて「公務員の政治的中立性の面から大問題だ」と指摘[56]した。この問題を受けて保坂は、政治資金パーティーへの区職員幹部の招待を取り消すことを表明した[58]。
| 当落 | 選挙 | 執行日 | 年齢 | 選挙区 | 政党 | 得票数 | 得票率 | 定数 | 得票順位 /候補者数 | 政党内比例順位 /政党当選者数 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 比当 | 第41回衆議院議員総選挙 | 1996年10月20日 | 40 | 東京22区 | 社会民主党 | 1万3904票 | 5.90 | 1 | 5/6 | 1/1 |
| 比当 | 第42回衆議院議員総選挙 | 2000年06月25日 | 44 | 東京6区 | 社会民主党 | 3万8167票 | 15.16 | 1 | 3/6 | 1/1 |
| 落 | 第43回衆議院議員総選挙 | 2003年11月09日 | 47 | 東京9区 | 社会民主党 | 2万3320票 | 9.24 | 1 | 3/4 | / |
| 当 | 第44回衆議院議員総選挙 | 2005年09月11日 | 49 | 比例東京 | 社会民主党 | 17 | / | 1/1 | ||
| 落 | 第45回衆議院議員総選挙 | 2009年08月30日 | 53 | 東京8区 | 社会民主党 | 11万6723票 | 39.52 | 1 | 2/4 | 1/0 |
| 落 | 第22回参議院議員通常選挙 | 2010年07月11日 | 54 | 比例区 | 社会民主党 | 6万9214票 | 11.02 | 48 | / | 3/2 |
| 当 | 世田谷区長選挙 | 2011年4月24日 | 55 | 無所属 | 8万3983票 | 30.70 | 1 | 1/5 | / | |
| 当 | 世田谷区長選挙 | 2015年4月26日 | 59 | 無所属 | 19万6098票 | 67.03 | 1 | 1/2 | / | |
| 当 | 世田谷区長選挙 | 2019年4月21日 | 63 | 無所属 | 18万9640票 | 61.07 | 1 | 1/2 | / | |
| 当 | 世田谷区長選挙 | 2023年4月23日 | 67 | 無所属 | 18万6553票 | 55.86 | 1 | 1/2 | / |
| 公職 | ||
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| 先代 熊本哲之 | 2011年 - | 次代 現職 |
| 第41回 (定数19) |
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|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 第42回 (定数17) |
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| 第43回 (定数17) |
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| 第44回 (定数17) |
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| 第45回 (定数17) |
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| 第46回 (定数17) |
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| 第47回 (定数17) |
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| 第48回 (定数17) |
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| 第49回 (定数17) |
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| 第50回 (定数19) |
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| ↓:途中辞職、失職、在職中死去など、↑:繰り上げ当選。 | |||||||||||||||